3333hitリクエスト -One day- 2
一時間ちょっと食事をして、翌朝早いと言った早川さんと駅で別れた。仕事で高橋に言われたもやもやと、彼女を抱けなかったもやもやを抱えた俺は、まっすぐ家に向かうことにする。
どこかで飲んで、一夜限りの出会いを求めても良かったが、それよりも良いストレス発散方法が、俺にはあった。
「ただいま」
ドアを開けて声をかけるが、最近よく聞く出迎えの声がない。
まだこの時間なら起きてるはず、と靴を脱いで廊下を歩いていると、音程の外れた鼻歌が風呂場から聞こえてきた。
発音が不明瞭で、ふにょだかぽにょだかわかりにくいが、とある映画の主題歌だ。
しかもサビのフレーズだけを延々と繰り返している。
......いらぁ。
このへたくそめ。
俺の神経を逆なでするその鼻歌に、俺は風呂場に怒鳴り込んでやろうかと思ったが、思いとどまる。
それより、出てきたところをとっ捕まえた方が楽だろうと思ったからだ。
俺はにやりと笑って、スーツの上着を脱ぎながらリビングに入った。
ソファーに上着を投げて、ビールを冷蔵庫から取り出す。
最近の金曜は帰りが0時を過ぎたり、帰ってこなかったりすることも多かったから、あの馬鹿は油断しているはずだ。
ぐびっとビールを飲みながら、ソファーに座って俺は弟が出てくるのを待った。
しばらくしてシャワーの音が止まり、がちゃっと音がしてぺたぺたと廊下を歩く足音が聞こえる。
そのままもう寝てしまうつもりだったんだろう。
何気なく、といった風情でリビングを見た弟は、俺と目が合って動きを止めた。
口も、ぽ、の形になったまま止まっている。
「よおニート」
俺の声に、弟はびくと肩を震わせた。
湯で上気していた頬が、さあっと青くなる。
「仕事を終えて帰ってきたお兄様に、お帰りなさいの挨拶がまだなんじゃねえのか」
軽く腕を広げて、抱擁を誘う。
弟はわかっているはずだ。
俺の元にくれば、抱きしめるだけで終わることがないことも。
だから、未だに廊下に突っ立ったまま、リビングに入ってこようとしない。
「どしたんでちゅか?ともちゃん」
にやぁと笑って、からかうように呼ぶ。
やがてぎこちなく、弟はリビングに入ってきた。
ソファーに座る俺に、おずおずと覆いかぶさってくる。
ふわりとボディソープの良い香がした。
「おかえり、なさい」
声が、若干震えている。
手が俺の首に回ったのを感じて、俺はしっかりと弟の身体をホールドした。
この時点で、弟はもう涙目だ。
「機嫌良さそうに歌ってたじゃねえか、へったくそな歌」
歌ってない、と首を横に振る。
......いやこれは下手じゃない、って意味か。
「ほら、もう一回歌ってみろよニート」
俺に促されて口を開いたところで、俺は弟の手首を掴んで背中にぐりっと捻りあげた。
「暇人。ほら歌えって」
背後から耳元に囁いてやる。
やがて、弟は涙声で歌い始めた。
俺にホールドされ、痛みに耐えながら歌っているせいで音程は乱れて酷いものだ。
しかも、やっぱりワンフレーズしか歌わない。
「なんで続き歌わねえんだよ。俺よりテレビ見たりインターネットしたりしてるくせによお」
「おぼえて、な......っ」
次に首をホールドして締め上げると、弟は真っ赤になって俺の腕を叩いた。
三回叩かれたところで俺は、弟から手を外す。
膝から崩れて、這って逃げようとする弟を、今度は足を掴んで締め技に入った。
締め技のいいところは打撃系と違って、じりじりと相手を追い詰めることができるところだ。
今も力を緩めて様子を見ると、いつ力が入って締められるかと身をすくませているのがわかる。
「しょうがねえから俺が歌ってやる。真似して歌え」
ああいう耳に残る歌は、年配相手の接待で歌ったりすると意外に好評だったりする。
そんなわけでしっかり覚えていた俺は、朗々と歌い出した。
隣の家で飼ってる犬が、勝手に俺に合わせて遠吠えし始めたが気にしない。
だが近くから歌が聞こえないことに気付いて締め上げると、弟は慌てて口ずさみ始めた。
「お兄ちゃん。ご近所迷惑でしょ、止めなさい」
歌も一曲終わる、その前にレフェリーが止めに入った。
もうパジャマに着替えた母だ。
寝室から出てきたから、寝ているところを起こしてしまったんだろう。
......悪いことしたな。
そうは思っていても俺は、素直に謝ることはしない
「ご近所さんはみんな、俺の美声のファンだから怒らねえよ」
近所の集会の集まりで、何かの話でアカペラで歌った千の風は、上手いと絶賛された。
「お兄ちゃんの声はその歌には合わないの。ともちゃんのほうがまだ愛嬌あっていいわ」
べしっと頭を叩かれて、俺は弟を離す。
ニートはわたわたと俺から離れて、離れた位置から俺の一挙一動にぴりぴりと神経を尖らせていた。
「ともちゃん早く寝なさい」
ほらと母は弟を二階に逃がそうとする。
促されても、俺の反応を伺っている弟はすぐに二階に上がろうとしない。
「今度俺の前で歌ってみろ。完全に技決めてやる」
手でしっし、と追いやると、真っ青になった弟はすぐさま逃げていった。
その速さに思わず笑みが浮かぶ。
「......可愛くねえ弟」
気付けばぼそっと呟いていた。
「ブラコンもいい加減にしてちょうだい」
べしっともう一度叩かれた。
......ブラコンじゃねえし。
訂正したかったがまた叩かれることを考えて、俺は押し黙った。
もやもやは、きれいさっぱりなくなっていた。