番外編3-2



 綺麗な夜景の見える高いホテルのフレンチレストラン。窓際の一等席で、俺はもう死んでいた。
 真っ黒で伸ばし放題だった髪は、青山の有名なヘアサロンで麗しくカットされ、スタイリング剤でサイドに髪を流された。もう少し明るくカラーリングするって髪を切ってくれた人が言ったけど、兄がそれはいいって断ったから色は真っ黒のままだ。でもなんかパックされたせいでつやつやしてる。
 ホワイトプラチナの細いネックレスは、俺の首に巻きつけてある。細い首にはこの太さが合いますね、なんて微笑まれたが、これなら首輪でももらった方がマシだった。
 値段は分からなかったが、こんな高そうなもんもらえるような人間じゃないし、くれる相手が兄ってことが末恐ろしい。
 今後俺は馬のように働かせられるんじゃないのか。死んじゃう。
 そして最後のディナーを迎えた。
 もうね、俺生きてないよ。死人だ死人。
 次から次へと運ばれてくる料理は、芸術品のように洗練されていて、美味しそうだけどなじみがない。
 とてもじゃないが食欲も刺激されず、一口ずつしか口をつけない俺に対して昭宏は、不思議そうに首を傾げた。
「食が進まないな。気分でも悪いのか?」
 頬に手を伸ばされ、ゆっくりと優しく撫でられる。近くの席に座ったカップルが訝しげに見てくるが、兄はそんなものお構いなしだ。
 俺は慌てて首を横に振って、フォークで前菜を突き刺した。
 口に押し込んで、飲み込む。味わう余裕だってない。
「智昭、そんなに背を丸めては、背骨を傷めるよ」
 身を縮める俺に、兄は優しく声をかけてくる。けどもう嫌だ。
 これが終われば帰れるんだろう。ならさっさと食べ切って家に帰るんだ俺は。
「そんなに急いで食べなくても料理は逃げない。それより俺と会話を楽しもうとは思わないのか?」
 茶目っ気一杯にやんわり微笑む兄は、赤ワインを傾けて口を潤すと意味深な流し目を向ける。
 上目遣いに見返すが、兄の考えがよく見えなかった。
 俺には判りやすい感情をぶつけてくれるのに、これじゃあまるでアカの他人だ。
 そう考えた俺は寒気に手が震えて、手にしていたフォークを落としてしまう。
 控えていたボーイがすぐさま新しいフォークを持ってきてくれる。
 もらっても、もう食べる気にならなかった。膝の上でぎゅうっと拳を握る。
 なんだか急に昭宏が遠い存在に思えた。
 俺の外見を変えて、お姫様のような扱いをする男の人は誰だろう。
 そういえば今日は余所行きの笑顔しか見てない。二人きりになっても兄は紳士だった。
 誰もが一目で恋に落ちるようなそんな大人の男の人だった。
 でも、そんなのは俺が好きな昭宏じゃねえ。
 俺が好きな昭宏は、俺のこと散々馬鹿にして、苛めて、顎で使って、暴虐非道で大魔王で、いつも酷い。
 無理やりアイス食べさせたり、プロレス技仕掛けたりするし、俺が汚いかっこしてるとすぐに怒ってくるし、少しでも食べ方が汚いとすぐ怒鳴られる。
 ......あれ?今の方が全然いいんじゃないのか。優しいし、至れり尽くせりだし。
 そうだよ。いつまで続くかわかんないけど、やってくれるって言うんだからしてもらえばいい。
「智昭」
 呼ばれて、いつの間にか俯いていた俺ははっと顔を上げた。
 真っ直ぐ兄を見つめたはずが、視界がどこもかしこもぼやけて見えない。
 おかしいなあ、視力でも落ちたかな。健康だけが取り柄なのに。
「......」
 歪んだ輪郭の中で表情が見えないはずなのに、一気に兄の機嫌が悪くなったのがわかった。
 なんだ。俺は何をした。
 えと、......なんか話せって、言ってたような......。
「おな......お腹すいた......」
 ああもう、ちげえよ俺のばか。食べてんのにお腹空いたとか意味不明だ。もう脳みそもニート生活でふやけてんだろうなこれ。
「チッ」
 昭宏が大きく舌打ちをして立ち上がった。と思ったら、すぐ側に来ていて、腕を引っ張られる。そのせいで今度はナイフが落ちた。
 お、俺のせいじゃねえぞ。今度は昭宏が悪い。
 びくびくして縮こまる俺を、兄はそのまま引っ張って出口に向かう。すると、黒い影が俺の前に立った。
 顔を見ようと視線を上げると、昭宏に頭を押されて下を向けさせられる。
「藤沢様、お口に合いませんでしたでしょうか」
 渋い声。父さんみたい。顔は見えないが、高そうな革靴を履いていた。
「いや、連れの具合が悪くて。申し訳ないが、残りは結構だ」
「そうでしたか。お部屋のご用意もできますが、いかがいたしましょう」
「ありがとう。だが今日は失礼することにするよ」
 忙しない会話のあと、また腕を引っ張られた。
 そのままエレベーターに乗って一階まで下りて外に出る。
「乗れ」
 目の前に止まっていたタクシーにケツを膝で突かれながら押し込まれた。
 あれ、なんでタクシー......?
 ここまでは兄の車で来たのに、どうしてタクシーなんだろうと考え込んでいると、兄がすぐ隣に乗ってきて家の住所を告げる。
 帰れるんだ。
 そのことにほっとして、俺は深く背もたれに寄りかかった。
 そんな俺の頬を、ゆっくりと兄の手が撫でる。目尻を親指で擦られた。濡れた感触に、俺はぱちりと瞬きをする。
「泣くぐらい嫌なら、もっと早く言え」
 低く唸るような声だった。泣いてることに気付いてなかった俺は、兄の不機嫌の理由に気づいて首を竦める。
「嫌、だった」
「だから言うのおせえよ馬鹿」
 後頭部を結構な力でどつかれる。痛いけど、何だか兄が戻ってきたような気がして、思わず笑ってしまった。



 家に着いてからは反省会だった。というか、反省会なのは俺だけで兄は俺を一方的に責めるばかりだった。
 ソファーに腕を組んで座る兄の前で正座するという位置関係だけでも、もうなんかちょっと違う。
「だいたいお前さ、『俺がいつも女の人としてるようなデート』ってなんだよ。女とデートしてるように見えてんのかこの俺が。一切してねえからな。なんで、なんて聞くなよ。それすらわかんねえならぶん殴るぞ」
 ......してないの?昭宏モテそうなのに。つか電話とかかかってきてるの知ってるぞ。
 休みの日には家にいることが多いが、それでも誘いの電話はひっきりなしだ。男友達や同僚もいるのは知っているが、女性からの電話も多い。
 入れ食い状態だろうに、なんで?
「智昭......」
「った!」
 不思議に思っていると、眉間に皺を寄せた昭宏にゲンコツをもらった。思わず頭を両手で抑えて痛みを堪えていると、昭宏はこめかみを押さえながら大きくため息を付いている。
「天然ぶるのもいい加減にしろよ」
 ぶってねえよ!ばか!
 じろりと睨みつけると、身をかがめた兄に腰を抱き寄せられる。あっという間に俺は兄の膝の上にいた。
 間近に感じる体温に俺は戸惑っていると、兄は平然と俺の頬をぎゅっと摘んできた。
「いひゃい!」
「どうだった俺のデートは。お前が考えてる『俺がいつも女の人としてるようなデート』をやってやったんだ。ありがたく思え」
 は、はあ?何言ってんだよ。
 身じろぎしてると、ネックレスを外された。
「それ、返すの」
「馬鹿。一度身に付けたものはよっぽどの不良品じゃなけりゃ返却できねえよ。常識ねえなお前は」
 心底呆れたように呟かれた。
 嘘付け。俺だってクーリングオフぐらい知ってる。それ使えば返せるだろうが。
 そう無知なお兄様に助言しようと俺が口を開けたとき、ネックレスが戻ってきた。首に回されたそれには、何かがくっ付いている。
「......」
 まあるい、リングが付いていた。付けられたネックレスをもたもたと外して、それを手の平に乗せる。
 銀のシンプルなリング。
 手の平を見て、それからちろりと昭宏を見上げる。昭宏は俺を見たままなにも発しない。
 銀のリングを手に取り、指に填めてみる。
 親指......は、見るからに入らないから、人差し指。ちょっときつい。
 中指は第二間接のところで止まった。小指は緩々すぎて止まらない。
 ......。
 だんだん顔が熱くなってきた。また手の平に戻して硬直する俺に、昭宏は大きく舌打ちをして俺の手とリングを掴んだ。
「あ......っ」
 俺の指にリングを通す、昭宏の指にも、な......なんか見慣れないモノが付いている。銀色の細いリング。昭宏は腕時計はするが、ネックレスや指輪の類は一切つけない。なのに。
 俺と、おそろ、い......。
「や、やだ......」
 薬指に収まりかけたリングを、俺は抗って引き抜こうとする。
「んだと?」
 ぎりぎりと昭宏の眦が釣りあがった。呼吸ができないぐらいに睨まれて、俺は首を横に振る。
 違う。もらうのが嫌なわけじゃねえ。ただ......。
「は、ずかし......」
 空いた手で真っ赤になった顔半分を覆って呟くと、俺の熱が伝染したように、昭宏も少しだけ頬を赤く染めた。
「どうせ誰も見ねえよ。お前基本的に家から出ねえじゃねえか。けどどうせお前のことだから指にしてると失くすだろ」
 普段は首に付けとけよ、とこともなげに言う。
 それから兄は俺の髪を掴んでぐいっと顔を上に向けさせた。頭皮が痛くて喘ぐ。その唇をねっとりと舐められた。
「二度と俺にあんなことさせるな」
 あんなことって......昭宏がしたんじゃないか。
 やっぱり兄は理不尽で横暴だ。
 くそ。頭に来たからからかってやる。
「っこん」
「あ?」
「昭宏......俺と、結婚、すんの......?」
 ......ヤバい。思ったよりもなんか、切ないっぽい声が出た。恥ずかしい。
 顔を逸らそうと擦る俺の顎を掴んで固定すると、昭宏はゆっくりと俺の背中を撫ぜた。
 ぞくりと甘い快感が沸き起こる。抱き締められてゆっくりと息を吐いた。
「まあ、養子縁組する手間がない分早くていいかもな」
「......けど」
「黙れ。もう喋るなお前は。俺だって、......よくわかってる」
 兄弟で男同士で、不毛な関係だとは知っている。けど、どうしようもなく焦がれてしまう思いは、なくならなかった。
 首に腕を回すと俺の意図に気づいた兄が、唇を重ねてくる。
 舐めて、吸って、噛んで、絡めて。
 吐息交じりに「好きだ」と囁かれた俺は、都合の悪いことには蓋をして、愛しいその男を掻き抱いた。


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