一陣-6



 いつもより広い場所が必要だから床は多少綺麗にした。といっても物を端に寄せただけだ。
 箱から鹿を取り出して桐の箱の上に置く。それからまち針を取り出すと、それで指先を突いた。
「いって」
 じわじわと浮かぶ赤い玉。指を片手でぎゅっと圧迫して、より多く血を浮かばせる。四枚の和紙にそれぞれ東西南北を書きこむと、俺と置物を囲むように周囲に和紙を置いた。
 それから俺はノートに目を向けた。そこには自作の祝詞が書かれている。
 要は日本に住む三科幸彦が、豊葦原にある瑞穂国の志那都比古神に会いに行きますよ、無事に行けることを見守っていてください。という嘆願書のようなものだった。
 祝詞がキーになって飛べるというのも、日本と繋がりがある世界らしい気がする。
 実はこれを作るのが一番面倒だった。祝詞は個々人に合ったように作らなくてはならず、現代日本人の俺としては祝詞の意味から調べなくてはいけなかった。
 どこのだれが何のためになにをする、という文章が単純なようで重要なことらしい。
 出来上がった祝詞は、昨晩何度も復習した。今までは気を込めるだけで精神が豊葦原に飛んでいたので、祝詞を唱えながら気を込めるなんてしたことがない。そこだけが少し気がかりだった。
 まあ、やる前に不安を抱えるより成功すると思い込んでいた方が、失敗も少ないのは経験から知ってる。こういうものは何回も繰り返すもんじゃない。
 朝食はいつもより多目に食べたし、昨日は早く寝て気も充実させている。
 準備は十分だ。
 ......よし、一発で決めてやる。
 咳払いをして喉の調子を整える。それから深呼吸を一つ。

『掛かけまくも畏かしこき伊邪那岐大神、朝霧吹き払ふ事の如く―――.........』

 朗々と紡ぐ声は、まるで自分のものではないように聞こえた。普段よりも早く、体内が熱くなっていく。ぞくぞくと背筋が震え、部屋に満ちる空気さえ変わっていった。
 これは......。
 そこで俺は少しだけ怖気付いた。神社に行って清廉な空気に安堵することはあれど、尖りすぎて痛い程の空気を味わったことはない。
 ヤバい。ちょっと怖い。
 一旦止めて、もう一度気合を入れ直して唱え直すか。
 そんな迷いが生じているのに口から溢れるように唱える祝詞は止まらなかった。それどころか、俺が作った祝詞ではない言葉が幾つも混じり始める。もう明らかに俺の意志じゃなく、勝手に口が動いてる。
 え、え。なんだこれ。
 かたかたと桐の箱が音を立てる。驚いて目で捉えると鹿の置物が揺れていた。
 揺れている、というより、動いて、る?
 精巧だが木彫りで作られているはずの鹿が、かつかつと桐の箱の蓋を蹄で蹴っている。頭を揺らして、鹿は飛び跳ねた。自分が動いたことを面白がるように蓋の上を縦横無尽に飛び跳ね、箱の下をのぞき込んだりしている。
 やがて、鹿の目が俺をゆっくりと捉えた。真っ白な鹿の、唯一の黒い部分。
 ぐるぐると、何か動いているように見える。ここまでいたると、もう怖いという感覚はなかった。
 ただ圧倒されているだけだ。轟々と嵐のような耳鳴りが響く。
 耳を塞ぎたかったが、指一本も動かせなかった。
「幸にぃ。ばあちゃんが梨切ったから、出かける前に食えって.........?」
 鹿の瞳の中に浮かぶ深淵を覗く俺に背後から声がかかった。知春だ。
 ドアの開く音は聞こえなかったのに、知春の声だけは鮮明に聞こえた。
 おい、来るな。
 祝詞を唱え終えたはずの口は動かず、鹿を見つめる。
「幸兄?」
『そなたの訪問、快く受け入れよう』
 脳内に響いた声。目の前の鹿が言っているのだと本能的に理解する。
 すると、俺をじっと捉えていた鹿が数歩下がり、頭を振ってかけ出した。それほど広くない箱の上を走りまわり、勢いをつけて、俺に向かって箱を蹴った。
 まっしぐらに胸に飛び込んでくる鹿。視線の端に、知春が俺を覗き込もうとしているのがわかる。その動きはやけにゆっくりに見えた。
 鹿の角が胸に当たりそうになった瞬間、光が弾けた。
 胸の中に郷愁が溢れ、鼻に久しく感じたことのない濃い新緑の匂いが駆け抜けていく。嵐のような耳鳴りは、いつの間にか風に枝を揺らす木々の葉擦れ音に変わった。
 目が眩む光が徐々に薄れていくと、俺は空を落下していた。下に視線を向ければ、赤と金で彩られた豪華な社の屋根が見える。その屋根が近づいてきた。屋根が、じゃない。俺が屋根に急速に近づいているのだ。
 屋根を障害とは思わなかった。中が透けて見て、そこにご神体に向かって祈る西埜女がいるのがわかる。
 西埜女、来たよ。
 俺がそう呼びかけると、西埜女は弾かれたように顔を上げた。その瞳が俺を見つける前に。
 横殴りの強い衝撃が、俺の全身を襲った。
 悲鳴を上げる余裕もない。あれだけ身体を包んでいた光が掻き消えて飛ばされていく。
『弾かれた。......弾かれただと? この俺様が!!』
 心に浮かんだ憤怒は熱となり、瞬く間に全身に広がり俺の戸惑いさえ飲み込んでいく。呼吸ができない熱さに苦しんで、俺は大きく口を開けて喘いだ。
 どこかで風が吹き荒れ、メキメキと木が折れる音、人の悲鳴が聞こえる。
 それに気を取られる余裕はなかった。勢い良くどこかに叩きつけられる。骨が嫌な音を立てて軋み、胃の奥から何かがせり上がってきて、苦しさのままにそのまま吐いた。
 目の前が涙で歪む。獣のように大きく呼吸を乱し、気を失えた方が楽だと心底思いながら俺は身をかがめようとした。
 だが手足は思ったように曲がらず、前後に動くだけだ。しかたなく、そのまま身動きせずに痛みが去るのを待った。
 しばらくすると、だいぶ身体の痛みが引いてくる。
 瞬きを繰り返して涙を払い視界を取り戻すと、草が風に揺れていた。さらに奥には木々が広がり、そのどこまでも続く木々に屋外に俺の部屋でも、到着先だった社でもない場所にいることに気づいた。
 一体何だったんだ。
 盛大にぼやこうとした俺は、声がでないことに気づいた。喉に手を伸ばそうとして、手が曲がらないことに気付く。
 どこか酷い怪我をしたのかと、俺の鼓動は悪い予感に早鐘を打ち響いた。
 まず、右手を動かす。......思ったより曲がらないが、でも動かして痛むところはない。左手、右足、左足と各部を動かして一つ一つ確認していく。
 ゆっくりとした確認になったのは、混乱している自分を落ち着かせるための無意識の行動だった。
 次に、腹......と、そこで俺は首を下に向けた。真っ白で柔らかそうな毛皮が見える。どうしてこんな所に毛皮が、と訝しがった俺はその考えが間違いだったことに気づいた。
 毛皮から伸びたしなやかな足は、俺の意識と同じように動く。驚いて身体を跳ねると、がつんと頭の一部が何かに掠った。頭が直接当たったのではない、何かワンクッション置いたような軽い衝撃。
 ......。
 もしやと思いつつ、俺はその手......前脚を動かした。同様に足、後脚も曲げて身体を起こす。
 最初は上手く立ち上がれなかった。バランスを保つことが出来ず、何度も膝をつき、そのたびに立ち上がる行動を繰り返す。
 どうにか立ち上がることが出来た俺は、ぷるぷると震える脚を見てため息をつきたい気持ちだった。
 視線を巡らして耳をすませると、どこからかせせらぎが聞こえる。俺はふらつきながら脚を動かした。
 木を避け、長い草が腹を撫でるのを感じながら歩き続ける。思ったよりも遠い。たどり着くと小川というには小さすぎる水の流れと水たまりがあった。
 それを覗き込むと案の定というか、やはりというか、そこには一匹の鹿が写っていた。
 うわ......鹿だよ俺。
 はぁ、と吐いた息が水面を揺らした。
 元々豊葦原にとって異物である御使は、人型を保つのに神通力を使う。そのため必要なとき以外は仮身として動物の姿を保つらしい。
 文献に書いてあったことって、本当だったんだな......。
 鹿になるとどこだかわかりにくいが、イメージでいつも通りに丹田に力を込めて、俺自身を思い浮かべる。すると、身体がほのかな光を纏い始めた。その光が強くなると、徐々に形が変わっていく。
 瞬く間に完全な人型となった俺が立っていた。だが何も身にまとってない上に、息苦しくなり強い目眩に襲われた。立っていられずにしゃがみこもうとして、いつの間にか鹿に戻っていた。
 はー......きっつー......。
 十二分に気を溜め込んだつもりだったが、弾かれたときに散らしてしまったのか、今の俺は外見を維持出来なかった。
 維持できないとなると、問題は帰り道だ。本来なら来た時と同じように紙に東西南北を書いて、祝詞を唱えれば帰れるはずだが、人になれなければどうしようもない。
 がっかりした俺は水たまりをじっと見やった。疲れたせいか無性に喉が渇く。
 鼻先を水につけて匂いを嗅ぐ。......とくに変な匂いもしない。舐めてみても無味無臭だ。
 ごくっと一口飲むとたまり水という嫌悪感も消えて、俺は勢い良く水を飲み出した。
 喉を十分に潤して顔を上げると、ざあっと風が毛を撫ぜていく。
 どこに都があるんだ。つか、ここは瑞穂国内なのか。
 答えが出ない問いを考え、俺はゆっくりと歩き出す。やがて不安から地面を蹴って走りだした。
 木々の合間から見える風景は深い山が広がっていて、人里がありそうな気配はない。しばらく走った俺は石に躓いて転んで動きを止めた。
 森には鹿や兎、イノシシなんかも見かけた。幹をえぐったような爪痕が残った木もあり、それは肉食動物の気配を伺わせる。俺なんかは不意打ちを食らえば早々に息の根を止められそうだ。
 もしかしたら帰れないかもしれない。それどころかここで死ぬかも......。
 頭をよぎった最悪の結末に俺は震えた。
 ここは俺が生活していた日本の都市部と違って、そこかしこに人間以外の気配が渦巻いている。それらがいつ牙を向いてくるかわからない。
 弱肉強食という言葉が浮かんで、重く俺の心にのしかかった。
 諦めが身体を支配して、そのまま横に倒れそうになるのを既で押し留まる。
 こんなところでまだ死にたくない。やりたいことだってたくさんあるんだ。そう簡単に諦めてたまるか。
 アジアを旅行した時だって、命の危険を感じたことがある。
 そのときだって、簡単に諦めなかった。そうだろう俺!
 ここも同じだ。駄目かもしれないなんて思った時点で絶対ある帰り道が見えなくなる。
 闇雲に動けばより体力を失うだけで野垂れ死にだ。
 最初に飛んだ時に感じた気配を思い出せ。あれは確かに西埜女のものだった。西埜女には悪いが生気を分けてもらおう。
 人になれるだけの神通力に変換できれば日本に帰れる。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。さっきと同じように、丹田に気を込める。前と違うのは使い方だ。
 神通力で起こした風を薄く広く、空へとまき散らした。これで西埜女の気配を探る。俺は風の神様の御使をしているから、神通力で出来ることも必然的に風関係に限られていた。
 西埜女が俺の気配に気づけば、迎えに来てくれる可能性もある。しかし、散らした風に西埜女の気配は捕まらなかった。ちょっと残念だったが、太陽が見える東側に人が密集した気配を感じ取る。
 都とは違うかもしれないけど、そこまで行けば俺がどこにいるかわかるかもしれない。
 少しだけ糸口が見えた気がして俺は安堵した。起き上がって歩き出すと、身体が強張っていたことがわかる。
 鹿でも緊張すんだな。
 他愛もないことを考えて俺は少し笑った。けど今の俺は鹿で笑い声すら漏れなかった。


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