インナモラートの傷跡1-1



 霜が下りるほどの寒い朝、吉岡平祐の口元からは断続的に息が白くなって空気中に消えていく。
 ロードワークは朝することに限ると思っている平祐は、雨の日でも走ることを心がけている。
 トレーニング用のジャージに、履き潰しかけたランニングシューズ。昨晩雨が降ったのか、濡れたコンクリートを蹴った瞬間にずるりと滑って、靴裏が磨耗していることに気づいた。
 バランスは崩しかけたけれど、倒れるようなことはしない。スピードを緩めることなくランニングフォームを戻して平祐はまだ眠りにまどろむ住宅街を走った。
 時折、ペットの散歩や掃除中の住人に出くわすことがあるが、平祐のロードワークは毎日のことなのでもはや顔見知りばかりだ。「おはよう」と掛けられる声に、平祐は軽く頭を下げるだけに留める。
 一周約十キロ。周と表現するのは語弊があるが、ともかく毎朝十キロ程度を走っている平祐は、今日もそのノルマを終えて自宅に帰った。
 十五階建ての集合団地の八階が平祐の家となる。エレベーターは設置されているが、平祐はもっぱらトレーニングのために階段で上がっていた。
 マンションの階段を上りきったところで、平祐はふと違和感を感じた。
 共用スペースとなる廊下には住民の折りたたみ自転車や子供の三輪車が置かれていたが、平祐の住む階層には小さい子供がいる家庭はいない。
 動きを止めて考えていると、程なく原因が思い至った。
 なんてことはない、たどり着いたと思っていた階層が違っていたのだ。
 階段部分まで戻って場所を確認すると、そこには「10」と色あせた文字で書かれていた。
 無意識にここまであがってくるなんてな。
 平祐は笑おうとして、変に歪んだ口元を押さえる。
 変に動悸が上がって苦しい。二、三度深呼吸を繰り返して自分を落ち着かせると、ゆっくりと階段を下った。



 吉岡平祐。K県立高校二年生。あと三ヶ月もすれば三年生に上がる。
 成績は優秀とまではいかないが赤点はとったことはない。各教科、それほど勉強しなくても平均点数の周辺を取れる。
 毎日きちんと学校に通い、真面目に授業も受けているが、周辺が平祐を見る目は冷ややかだ。
 その一つは特徴的な外見が上げられる。
 一八〇センチの身長と、日焼けした浅黒い肌。それから目立つ金髪の短髪。大抵眉間に皺を寄せたような表情を浮かべている。眼光も鋭いので視線が合う相手は平祐が怒っている、と思うことが多いらしい。
 見た目が威圧的であれば、たとえ性格が温厚であっても周囲は平祐に対していい感情は持たない。
 さらに平祐は、自分が「学校の裏番である」とか「ここの地域一帯の不良をまとめている暴走族のボス」とか「秘密裏に他校の生徒を半殺しにしている」などという噂が流れているのを知りつつ、特になんの弁明もしていないため、より一層周囲に人がいない状態だ。
 親しい人間が、その噂を単なる噂でしかないことを知っていればそれでいいと、平祐が思っていたことも要因の一つだ。
 だが最近はその噂を事実にしてしまってもいいかもしれない、と少しだけ考えていた。
 ガガガッ!
 耳を咄嗟に覆いたくなるような音が教室に響く。蹴った机がひっくり返って床を擦った音だ。
 床には教科書が散らばり、身動きを止めたクラスメイトの視線が自分に集中するのを自覚する。
 平祐は無言で机を戻し、教科書や筆記類を拾う。
「あ、の、吉岡くん、大丈夫?」
 今の授業を担当していた英語の女性教諭が恐る恐る尋ねてきた。まだ二十代後半で、生徒に舐められている節のある若い教師だ。
 美人というわけではないが、男子校にいる女性ということで貴重な存在だと周囲にもてはやされていることを知っている。
 その教師の目に、薄い水の膜が出来ていることを知りながら平祐は首を横に振った。
「大丈夫じゃないです」
 その言葉は嘘じゃない。
 大声で騒いで隣のクラスに乱入して、噂にあるように「生徒を半殺し」したいぐらいに内面が荒れている。
 それを必死で堪えているのだ。
「ほ、保健室、行ってきてもいいのよ?」
 英語教師は声が変に裏返りながらそう勧めた。
 クラスから出てもらいたいと思っているのがひしひしと感じる。
 そしてそれは英語教師だけでなく、クラスメイトからも感じていることだ。
 真面目、大人しい、普通と言われる生徒は揉め事を警戒して。
 そして一部の外見がハデな男どもは、揉め事を期待して平祐が教室を出ることを望んでいる。
「気分が悪いわけじゃないんで別にいいです」
「でも......」
「授業、続けてください」
 ひっと小さく声を漏らして、その女性教師は急いで教壇に戻っていった。
 どこかでひそひそと会話している声が聞こえる。だがそれも平祐がチラリと視線を向けると静かになった。
 無意味に暴れて、それで気が晴れるわけでもない。
 酷く荒んだ気分だった。
 ポケットから携帯を取り出して、とある番号を呼び出す。そこに表示された名前を平祐はじっと見つめた。
 指先で携帯の画面をなぞって目を閉じる。脳裏に浮かぶのは幼馴染の笑顔だ。
 幼い頃から一緒にいて、自分の感情が友情を越えたものに転化しても、これから先もずっと一緒だと疑わなかった。
 昼間に見せる無垢な笑顔も、夜の暗がりで見せる少し困ったような表情も、自分にだけ向けられると思っていた。
 ため息をついて、平祐は立ち上がった。
 座っていた椅子が大きな音を立てて倒れるが、そのままドアへ向かう。
「やっぱ具合悪いんで保健室行ってきます」
 返事を待たずに廊下に出る。
 今までは見た目とは違い、遅刻も早退も殆どせずに品行方正に過ごしてきた。だから見逃されていた部分も多いだろうが、今後はそうは行かなくなるだろう。
 親にも連絡が行くかもしれない。
 悲しませるのは本意ではないが、今はどうでもいい気分だった。
 真っ直ぐ昇降口に向かって、靴を履き替える。
 外では体育の授業をしているのか、何人かがサッカーをしていた。校庭を横目に正門へと向かう。
 学校にいる気にはなれないが、かといって家に帰る気にもならない。
 そうなれば行く先は一つだ。
 いつも通っているジムに向かおうと考えながら歩いていると、誰かが走ってくる気配がした。
「どこいくんだ吉岡」
 ......嫌な人に見つかった。
 聞き覚えのある低い声を聞いて、平祐は舌打ちをしそうになりながら振り返った先にいる男を見据えた。
 刈り上げたさっぱりとした髪に濃い目のきりっとした眉。ジャージに包まれた身体は筋肉のラインが見えており、明らかに鍛えあげられていることがわかる。
 確か一年の体育の担当をしていると聞いていた。学校では殆ど声をかけられることのない相手だ。
「気分が優れないんで帰るんですよ黒田コーチ」
 黒田英志郎。
 三十二歳を迎えたばかりの元プロボクサーだ。選手としてはそれほど有名ではなかったが、引退後に教員免許を取り、平祐が通うジムに今も顔を見せて熱心に後輩の指導をしている。
 平祐もその指導を受ける一人だ。
「ホントか? んじゃ、会長に俺連絡しとくぞ。今日は吉岡来ないって」
 それは困る。
 このだらだらと失恋の血を流す心は、身体を苛め抜かねばその苦痛を平祐にダイレクトに与えてくるのだ。
 サンドバッグを殴りつけて、無心になりたかった。
「......今日は授業を受ける気分じゃないんで、ジム行こうとしてたんです」
「気分じゃなくても授業を受けろよ高校生」
「会長なら許してくれる」
 そう返した平祐に、黒田はがしがしと頭を掻いてため息をついた。
「あの人は中卒から叩き上げで、チャンピオンになった人だからな。そりゃ授業よりトレーニングって言うだろうが......おい待てって」
 話の途中で、背を向けて歩き出そうとした平祐の肩を黒田が掴む。
 振り返った平祐に鋭い眼光を向けられて、わずかに目を細めた。
 温厚で優しく、時に厳しく指導してくれる黒田は、平祐の荒んだ心を感じ取ったらしい。
「吉岡、最近お前変だぞ。何があった」
 真摯に問いかけられても、気の抜けた笑いしか出てこなかった。
「別に。今はボクシングだけに集中したいだけです」
 本当に、それ以外はどうでもいい。
 黒田の手を乱雑に振り払い、呼びかけられる声を無視したまま、平祐は学校を後にした。


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