インナモラートの傷跡1-3
ふっと息を吐きながら、渾身の一発を繰り出した。狭いトイレに響く轟音。
「ひいッ?!」
手加減なしだったがドアは軽くへこんだだけだった。平祐はちっと舌打ちしてもう一発打ち込む。すると、次は蝶番が緩んだ。
よし。
更に拳を打ち込むと、暴力に耐えかねた木のドアは内側に倒れていく。
それを引っつかんで外側に投げた。個室の中がよく見える。
中にいたのは、40代と思しき中年男性だった。
緩んだネクタイと膝下まで下げられたスラックスと下着。自分にも同じものがついているというのに、グロテスクな性器を目にした平祐は不愉快を露に、男の胸倉を掴んで外に引っ張り出した。
プロを目指すだけあって、素人相手に暴力を振るうのはいけないという心構えがある平祐は、自分の拳が人の命を奪いかねない凶器になりうることを十分理解していた。
掴んでいたシャツを手放し、地面に落ちた男の腹を一度だけ蹴り上げる。よほど当たり所が悪かったのか、、潰れた蛙のような声を出して男は気を失った。
脳の一部はまだどこか高ぶったままだが、平祐はすぐに男子トイレへと戻った。男の影になってよく見えなかったもう一人の状況を確認するためだ。
「おいだいじょう......」
個室の中を覗き、息を止める。相手を気遣う言葉は尻すぼみになった。
明るい茶色の髪に、虚ろに開かれた瞳。
頬は赤くはれ上がり、ぽってりとした赤い唇は薄く開かれて微かに呼吸をしていることを伺わせる。
肌蹴られたシャツに、ブレザー。胸元にあるエンブレムは見覚えがあった。高校の側にある有名私立中学校のものだ。
しどけなく開かれた白い足の間は理解したくない液体で濡れそぼっている。
少年は焦点の合わない瞳で、ゆっくりと平祐を捕らえた。そして一度目を閉じる。
その次に開いた瞬間の瞳の色は、なんと表現したらいいだろう。
「っ」
まるでこの世の全てを憎んでいるかのような禍々しい眼差し。平祐は少年がただ暴力に耐え忍ぶ被害者ではないことを瞬時に悟った。
「っの、クソ野郎!!」
足に纏わりつくだけだったスラックスと下着を脱ぎ捨てると、その状態で平祐を押しのけて個室を飛び出した。
残された平祐はぽかんとしてしまう。
レイプの現場を見たのは初めてだったが、ああもすぐに動けるものだろうか。
「触るだけじゃねえだろうが! 嘘つき! ゴムもねえのに汚ねえもん突っ込みやがって!! 腐れチ〇ポ! 変態! 死んじまえ!!」
怒鳴り散らす大声に平祐が外に出ると、少年は男を散々蹴りつけていた。気を失っていた男は、その攻撃に一度は目を覚まし、そしてまた気を失う。
それを見ると、少年は肩で息をしながらぷっと唾を吐き捨てた。
溜飲がある程度下がったのか、少年はちらりと平祐を見ると、またもやトイレの中に戻っていく。平祐は声もかけられず、ただ付いて行った。
介抱せねばという意識はあるのだが、ああも衝撃的な光景を見てしまうと、自分が何をしていいかわからなくなる。
少年はトイレの床に散らばった下着や服を手に取ると、平祐にずいっと手を差し出した。
「タオル貸して」
「へっ?」
「タオル。汗臭そうだけど我慢してやるよ」
嫌そうに顔を歪ませつつ、回答も得ずに平祐が首にかけたままだったのタオルを抜き取り、自分の肩にかけた。
そして平祐が見ている前で、洗面台に片足をかける。もう片方の足は地面についており、大股開きで下肢を隠す物は何もない。
肉付きの薄い足に、平たい尻。だらんと垂れた赤黒い性器は、顔と身体に似合わず大人と遜色ないもので、しっかりと毛も生えている。少年はその奥へと指を伸ばした。摩擦で赤くなった尻穴を指でなぞる。
「はあ......っ」
息を吐きながら少年は指を突っ込んだ。
ぐにぐにと指を動かして引き抜く。すると、ぽっかりと開いた後孔から、とろりと白濁があふれ出た。
「っさむ......あんのクソ親父、病気持ってねえだろうな。......病院とか、マジめんどい」
ぶつぶつ呟きながら、少年はもう一度指を入れて、中から残滓を掻き出していく。
指を押し込まれると内側にへこみ、そして引き抜くと赤い粘膜が引き出される。ぐぽっと抜けた穴はひくひくと収縮を繰り返して閉じていく。
カランを捻り、水でタオルを濡らした少年は、ぎゅっと固く絞ると自分の下半身をそれで清めた。一通りの後処理を終えた少年は、足を下ろして平祐を見据える。
「吉岡、携帯出せ」
「へっ」
「おら。か弱い美少年が頼んでんだから、さっさと携帯出せよ」
かよわいびしょうねん。
あまりに堂々と言うので、脳内辞書が言葉の意味を間違えて覚えていたのかと思うほどだった。
ずいっと手を差し出されたまま催促されて、平祐は考える間もなく、言われるがままに自分の携帯を乗せてしまう。
「ふっるい機種使ってんのな、今ならスマフォだろ」
どこか見下したような口調で片手で平祐の携帯を操作しながらまた個室に入っていく。
落ちていたスラックスからスマートフォンを取り出すと、携帯同士をくっ付けるような仕草をした後に、平祐に携帯を放った。
携帯は緩やかなカーブを描いて平祐の手の中にすっぽりと納まる。
少年は下着を履いてスラックスを身に付けた。シャツに手をかけて大きく舌打ちをする。
ボタンが飛んで前を閉められないのだ。
良く見ればシャツとブレザーの間にカーディガンを羽織っていたようだが、そちらは胸元が大きく開いたデザインで、少年の肌を隠せそうにもない。
平祐はパーカーを脱いで少年に差し出した。
「着ろ」
「......うっすら湿ってんだけどこれ」
指で摘むように受け取った少年は、タオルを奪った時以上に嫌な顔をしていた。
少し離れた位置からくんくんと匂いを嗅がれ、平祐はなんとなくがっかりした気持ちになる。
複雑な心境の平祐をよそに、少年は一度ぴたっと止まると一度平祐の顔を見上げた。
そんなに嫌かと眉間に皺を寄せる平祐の前で、パーカーに顔を押し付けて、すうっと匂いを嗅いだ。それから平祐に近づいてくる。
「な、んだ」
少年は自分より頭一つ低い。
口調はアレだが、確かに見た目だけは華奢で、そんな相手にずいずいと近づかれて平祐は後ずさる。パーカーを脱いだせいで、中にはタンクトップしか着ていなかった平祐は、下手をすれば変質者だ。
「おいっ」
必要以上に近づくなと睨みつけても少年は平然としている。いつの間にか壁際まで追い詰められた。
壁にぴったりと身を寄せていると、少年はくんくんと鼻を鳴らしている。
体臭を嗅がれていると思うと、何だか無性に恥ずかしかった。
耐えるべきか押しのけるべきか、いや、自分のようなガタイの良い相手が肩でも掴んだらそれは怖いだろう。そんなことをぐるぐると混乱した頭で考える。
「わ」
少年に腕を掴まれ持ち上げられた。問いかけようとした瞬間、ざりっと音がする。
生えていた短い腋毛を、舌で舐められたのだと気づいた平祐は、今度こそ何も考えられずに悲鳴を上げながら少年を押しのけた。
「な、なに、なん......!」
言葉にならない。少年から距離を置いてぞわっと鳥肌が立った腕を撫でる。
ぺろっと舌を出したままだった少年は、平祐を見てにやっと笑った。
「うん。悪くない」
「は......?」
わからない。理解できない。男にレイプされてすすり泣いていたのはこの少年だったんじゃないのか。
目の縁は赤くなり涙の名残は見えるが、無理に笑っているようには見えない。
本当に、心底、楽しそうな表情だ。
少年はブレザーを脱ぐと、カーディガンの上から平祐のパーカーを羽織った。サイズが大きすぎて、袖からは指先しか出ていない。
脱いだブレザーは、平祐に押し付けられた。
「やる。イメクラはもう懲りた。じゃあな平祐」
清々しい笑顔で平祐に軽く手を振ると、少年はトイレを出て行った。平祐はぽかんと見送ることしか出来ない。
しばらくその場で立ち尽くしていた平祐は、くしゃみをして我に返った。先ほどまでかいていた汗は引き、冬の冷気が漂う公衆トイレは寒い。寒気に自分を抱き締めながらぶるりと身を震わせる。
本当に、なんだったんだ。
まだ脳内の整理が追いついていないまま、平祐は外に出た。転がっていたはずの男は既にいなく、少年の姿ももちろんそこにはない。
「.........名前」
最後に、名前を呼ばれた。教えてもいないはずなのに。
はっとして自分の手を見る。少年が残したブレザーと、古いと笑われた携帯。
赤外線で自分の個人情報を抜き取られたことに思い当たって平祐は顔を顰める。
他になにか変わったところがないかと携帯のデータを見てみると、見知らぬ名前がそこにはあった。
最初から登録されていたように、携帯番号とメールアドレスも画面には浮かび上がっている。
「にしの、なつお......」
よくわからない少年の名前は西野奈津央というらしかった。