そのに-1


 自棄になっていた気持ちも、一晩経って落ち着いた。

 春樹は。
「......なんで俺あんなことしたんだろう......」
 思いっきり後悔したまま、自宅で身悶えていた。
 築35年の古いアパート。
 日差しの入りにくい1階が、春樹の住む部屋になる。
 朝になっても薄暗いそのアパートの自室で、春樹は転げまわっていた。
 物の少ない部屋の端から端まで転がり、ぴたりと動きを止める。
 根性の悪い博也のことだ。今日、学校で自分のことを『ホモ』だと言いふらしていることだろう。
 本当の性癖なら多少は我慢も出来る。だが、春樹は自分が同性愛者だと思ったことは一度もなかった。
 忙しいのと生活に余裕がないために彼女が居たためしはないが、グラビアアイドルで下半身を滾らせたこともある。
 それなのに。
 他人と唇を重ね合わせたことは、初めてだった。
 別に初めての口付けは、ロマンチックになんて考えたこともないけれども。
「......」
 よりにもよって相手があの村瀬博也ということに、春樹は深く落ち込んでいた。
 ぼんやりと、壁にかかった時計を見やる。
 7時半。そろそろ出なければ、学校に間に合わない時間だ。
 行きたくない。
 今の自分は博也と視線を合わせる勇気がない。
 嘲笑の光をともした瞳で見つめられ、指を指されて笑われたらどうしよう。
 被害者意識が強いと思われそうな思考だが、昔から自分にだけ対して振るわれる理不尽な目に見えない暴力を思い出すと、ないとは言い切れない。
 深くため息をつくと、春樹は起き上がった。
 行きたくはないが、今まで風邪を引いても休むことはなかった。
 体調が悪いわけでもないのに休むのは気が引けるし、自分のためにもならない。
 春樹は憂鬱な気分で支度をすると、いつもより少し遅れて家を出た。


 おはよう、と晴れやかに挨拶が繰り返される中を1人歩く春樹。
 何人かが話しかけようと近づくものの、1つのことに頭を埋め尽くされている春樹は気づかない。
 挙動不審にきょろきょろと周囲を見回し、博也と似た背格好の男を見つけると条件反射的に隠れる。
 しばらく観察して、本人ではないことに気づくとほっと胸を撫で下ろすのだ。
 学校に着くまでにそんな行動を繰り返した春樹は、すっかり疲れてしまっていた。
 遅刻ギリギリの時間。昇降口には人もまばらだ。
 この時間になれば、博也もいないだろうとようやく警戒心を解いて靴を履き替える。
 と、うるさい足音が背後から聞こえてきた。
「っくそ!あーもー!」
 ぶつぶつと独り言には大きい声。
 反射的に視線を向けて、春樹は固まった。
 乱れた髪に、服装。薄っぺらなカバンを床に叩きつけるようにして手放して、上履きを取り出して靴を脱ぐのはまぎれもなく腐れ縁の幼馴染。
 会いたくないと思う時に限って会ってしまう自分の運のなさを、春樹は呪った。
 つい凝視してしまった春樹の視線に気付いたのか、悪態をついていた博也は不意に身動きを止めて顔を上げる。

 視線が絡んだ。

 内心の動揺は出ずに、無表情で停止している春樹とは裏腹に、博也はだんだんと眉間に深い皺を寄せていく。
 カバンを拾って早足で近づいてくると、博也は春樹の胸倉をぐいっと掴んだ。
「!」
 春樹は軽く視線を周囲に巡らすが、他に生徒はいない。
 2人きりならきっと手が出るだろうと、春樹はそっと身構えた。
 だが。
「春樹のばーか!てめえのせいで遅刻しそうになったじゃねえか!生徒指導室に呼ばれたらどうしてくれんだ、ああ?!」
 言うが早いか博也は春樹の額めがけて、思い切り頭突きを食らわせた。
「ッ」
 春樹の目の中を閃光が走る。追って、痛みが広がった。
 思わず春樹は額を押さえて靴箱に寄りかかる。
「うっわ、やべ、ホント呼び出される!」
 時計を見たのか駆け出して教室に向かう博也。
 2人の通う学校では、連続して遅刻をするとペナルティーがある。ただ、それは5回連続してのことだ。
 あの口ぶりだと、今日の前に4回連続で遅刻していることになる。
「......八つ当たりか」
 額を押さえて立ち上がった春樹は、博也のいなくなった方向を睨みながら、その場でホームルーム開始のチャイムの音を聞くはめになった。


 学業にほどよく手を抜いている博也とは違い、春樹は普段から真面目な生徒だ。
 ホームルームの途中で教室に入っても、体調を心配されたぐらいでお咎めはなかった。
 しばらくして授業が始まる。
 春樹は博也とは別のクラスであることに心底安堵しながら、今朝あったばかりのことを反芻していた。
 遅刻が俺のせいなんて、言いがかりも甚だしいと、密かに腹を立てていたところでふと気づく。
 もしかして、博也も昨日のことが気になって寝れなかったのか。
「......なわけ、ないだろうな」
 春樹は口の中で小さく呟いた。
 連続遅刻の言い訳に自分を引き合いに出しただけに違いない。
 自分に嫌がらせをするのにいい口実を得たと思っているだろう。
 そんなことを考えた春樹は、自分の思考のネガティブさに落ち込みかける。
 自分の対応は、博也の出方次第だ。
 そう思いつつも、春樹は授業に身が入らなかった。


 そんな日が数日続いた頃。
 自分が博也を避け続けているせいで一度も会うことはなかったが、変な噂も立っているような様子もないことに春樹は気づいた。
 遠巻きな視線は相変わらず多いが、それは女の熱の篭もった眼差しが大半だ。
 軽蔑を含んだようなものは、1つも感じられなかった。
 教室で昼休みに弁当を食べながら、不思議だと首を傾げていると、ぽんと肩を叩かれる。
 振り向けば、クラスメイトの1人が立っていた。
 山浦というその生徒は、黒髪に黒ぶち眼鏡に少しふっくらした体型でオタク、という典型的な何かを持った人間だった。
 高校からの知り合いだが、春樹が博也以外で、まだ付き合いがあると言ってもいいかもしれない。
 山浦は常にマイペースで自分の都合しか考えていないところがあるため、裏表がない。
 そのため、人嫌いな春樹でもまだ付き合いやすいところがあった。
 奥二重の小さな目でじっと見据えられ、春樹は無言で見返した。
「つっじー。まだ村瀬と喧嘩してんの」
 問われた内容に、目を開く。
 周囲の人間にはそう思われていたのかと思う反面、やはりあの晩にあった接触のことは、誰も知らないのだと確信する。
「別に喧嘩という訳じゃない」
「あっそう」
 低く答えると、山浦は何が聞きたかったのか、それだけ答えて去っていく。
 人のことはあまり言えないが、普段他人を気にしないクラスメイトの行動に、気になって春樹はそっと席を立った。
 山浦はまっすぐ教室を出て、廊下を歩いていく。
 春樹はなんとなくの自分の勘に頼ったまま、その後を付いて行った。
 彼が着いたのは、人気のない外部非常階段の入り口。
 普段鍵がついて使えないようになっているそのドアから、山浦は外に出て行く。
「どうだった?!」
 追いかけてドアをあけたところで、誰かの大声が聞こえた。
 誰か、ではない。この声はよく知っている。

 博也だ。


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