そのろく-9


「なんでもねえよ!来んな!」
「そうおっしゃられましても」
 おっとりと告げる家政婦の声と足音は、徐々に階段を上がって近づいてくる。
「離せ博也。ここで男との痴情の縺れのような話を聞かせるつもりか」
「言いたきゃ言えよ。俺は今のお前を一人にさせるつもりはない」
 こう言えば離すだろうと半ば脅しているつもりだった春樹は、博也の硬い声に驚いた。
 身体を捩って振り返れば、真摯な眼差しで見つめられる。そのまま、ぎゅっと抱き締められた。
「博也さん?」
 ノックとともに、そう家政婦が声を掛けた。
 びく、と春樹の身体が震える。外に出るために、春樹が先ほど部屋の鍵を開けたばかりだ。
 ドアは外側に開く。家政婦がドアノブを引けば、春樹を抱き締める博也が目撃されてしまうことだろう。
 博也もそれは知っているはずだった。だが、春樹の身体を抱き寄せる腕は、力強く拘束したままだ。
「怒鳴って悪かった。行くな。......謝らせてくれ」
 見つめあいながらそっと囁くと、それから博也は声を張り上げた。
「なんでもねぇよミチさん。ただ会話が盛り上がっただけだよ」
「本当ですか?」
「本当だ。なあ春樹」
 相槌を求められて、春樹は無言で頷く。するとふっと博也が笑った。
「声出せよ。ミチさん見えてねえんだから」
「その、少し、話が盛り上がっただけです。うるさくして、すいませんでした」
 博也が言ったことと同じことしか口に出来なかった。
 春樹が戸惑っているのを見ながら、博也は春樹の後頭部に手を回してそのまま顔を寄せてくる。
 咄嗟に春樹は身を引いたが、すぐ背中はドアだ。
 ヘタに物音を立てられず、唇を重ねてくる博也を黙って見つめるしかなかった。
「そうですか......ねえ辻本くん。お夕飯まだでしょう?よかったら博也さんと一緒に食べませんか?博也さん、一緒ならお召し上がりになりますよね」
 背後には、まだ人がいる。
 それなのに啄ばむような口付けを落としてくる博也。
 優しさが滲み出るような唇の触れ合いに、春樹は迷いながらも服の裾をそっと握った。
 途端に甘いだけだったキスが激しくなっていく。
 舌が絡み、互いの口内を舐めあうような濃厚な口付けだ。
「ああ、食べる。春樹も食うって」
 合間にそう平然と答えられる博也とは違い、キスに酔った春樹はがくがくと足を震わせていた。
 背中に回された手があるから立ってられるものの、それがなければその場に倒れてしまうことだろう。
「じゃあ用意しますから、30分経ったら降りてきてくださいね」
 声とともに、遠ざかる足音。春樹は博也と見詰め合ったまま、後ろ手に手を伸ばすと鍵をかける。
 それから安堵したように床に座り込んだ。何度も重ねた唇を手で押さえて息を吐く。
 見られて困るのは春樹よりも博也だと言うのに、その度胸に感服した。
「おい、食っていくよな」
「............ああ」
 若干不安そうに尋ねられて、先ほどとのギャップに春樹は脱力しながら頷いた。
「春樹」
 ぼんやりと床を眺めていた春樹は、呼ばれて視線を上げる。
 その春樹の前で博也が頭を下げた。
「間に合わなくて悪かった。マンション知ってたんけど部屋がわからなくて、片っ端からインターホン鳴らしたけど、当たんなかった」
 謝られた内容に、春樹は息を詰めた。
「言い訳するつもりじゃねえけど、マンションで会ったヤツとトラブルになって、全部見きれなかった。......ごめん」
 後悔を滲ませて謝罪する博也に、春樹の心の中が熱くなる。
 先ほど家政婦に話を聞いたときに感じた違和感。もしかしてと思ったことが正解だった。
 あのとき、すぐ側まで博也が来ていたのだ。
「豚と信行も、手分けして探したんだけど、あっちも駄目だったみたいで......けど、苦情が学校に行ったんだろーな。あいつらまで巻き込まれて停学だとよ」
 苦い表情で呟いた博也を、春樹は表情を変えずに見やる。
「で、俺は無期停学」
「どうして、嘘をついたんだ。学校に居たなんて」
「こんなダサいこと言えるかよ。電話が切れたとき、嫌な予感はしてたんだ。だから急いだけど、間に合いませんでしたなんて。結局行かなかったことと一緒だ」
 自分を嘲笑うような博也の手を、春樹はそっと握った。
 弾かれたように視線を向けた博也に、春樹は抱きついた。
 博也が息を飲んだことに気づくが、そのまま手に力を込める。
「違う」
「春樹」
「全然違うんだ。博也が、俺のために行動してくれたんだから」
 自分のために無期停学という状態まで追いやられた博也に、春樹は愛しさが込みあがる。
 だが博也は納得していないようだ。
「結果が全てだろ」
 そうぼやく博也に、春樹は身体を起こした。
「......それなら」
 それなら、自分はどうなのだ。
 春樹は眉間に皺を寄せたまま一度深く吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「関谷とは、入れられたけど最後まではしてない。途中で逃げたんだ。でも博也がしたって言えば、俺はあいつとセックスしたことになる。けど、博也がそれは違うって言うなら、その」
 自分は何を言うつもりなのだと、春樹は冷静な脳の一部で考える。
 けれどもう、止まらない。
「は、初めては、博也がいいと、......思う」
 自分で言った言葉の内容に、春樹は顔を真っ赤に染め上げた。
 見た目も普通に男の自分がこのようなことを告げても、気色が悪いことは違いない。
 それは十分に判っている。
 反応のない博也に居た堪れなくて、春樹は火照る頬を片手で押さえながら、博也から身を引くために立ち上がろうとした。
 が、そのタイミングで腕を引かれて博也に覆いかぶさるように倒れこむ。
 両手を博也の顔の脇につき、身体を跨ぐように四つんばいになった春樹は、自分の立てた物音に身を竦ませた。
「何をす」
 派手な音に家政婦が来ないかとドアを眺めていると、両頬を博也の手が包み込んだ。
 視線を戻すと、真面目な顔で博也が自分を見ている。
 恥ずかしいことを告げた自分を、そうも見つめられると堪らない。
「博也、手離せ」
「マジでいいのか。ならもう遠慮せずにお前のバージンもらうから。入れてやるから感謝しろよ」
 上半身を浮かせた博也が軽くリップ音を立ててキスをする。
 わざと雑な物言い。けれどこれが博也だ。
「......ああ」
 女扱いされることに複雑になってしまう反面、自分を『処女』と表現されたことに嬉しい春樹は、苦笑を浮かべて頷く。
 そんな春樹の顔を引き寄せられて、博也はもう一度唇を重ねた。
 キスを繰り返す合間に、立てられた膝に股間を刺激される。
「ッ」
 明らかに性的に意識された行為に、春樹は息を弾ませた。
 唇を吸われて、甘噛みされて身体を支える手が震える。
 前に触れられた時はまったく感じなかった身体が、なぜだか判らないが今は急に火照ってきた。
 自分の変化に、春樹は困惑の色を見せて視線を彷徨わせる。
 そんな春樹を野獣のような眼差しで眺めた博也は、春樹の唇をねっとりと舐めて笑った。
「怖くねえなら今でもやりてえところだけど。あと20分で終わる自信がないな」
「いや、ここではちょっと」
 他に人がいるのだ。かといって自分の部屋を想像してみても、壁の薄さに唸るしかない。
 自分たちの立場では、男女交際以上に気を使わなくてはならないところだ。
 言葉を濁した春樹に博也は眉間に皺を寄せる。
「なんでだよ。俺言質取ったからな。絶対ヤる。今更嫌だなんて言ったって」
「わかってる。していいから......捲くし立てるな」
「春樹......!」
 そっと頬に手を置くと、首に腕を回された。
 自分の体重だけでなく博也の重みも加わり、耐え切れずに春樹はそのまま潰れる。
「かっる!お前軽い!ケツも薄いよな、腹もなんか筋肉あるけど薄くね?」
 言いながらべたべたと身体を触りまくる博也。その手は色香を含むものではなくて、くすぐったさに春樹は身体を捩らせる。
「ひろ、ちょ」
「お、なんだお前ここ苦手なのか。へえー......」
「やめろこら、......っあ、ッはは!」
 シャツに手を入れてくすぐる博也に、堪らず春樹は声を上げて笑う。
 殆ど春樹の笑顔を見たことがない博也は、これに目を爛々と輝かせた。
 もっと笑うところが見たいと、逃げを打つ春樹に迫る。それに春樹は頬を引きつらせた。
「ほ、ほんと、まっ」
「へへへ......うりゃ!」
「博也ッ!!」
 ドダバタと足音を立てて逃げ回る。

 先ほどとは違い、笑い声が上がる騒音に下で食事の用意をしていた家政婦は、幼い頃の二人のやり取りを思い出して笑みを浮かべる。
 その後降りてきた不機嫌そうな博也と、頬を赤らめて俯くばかりの春樹に、いったい何があったのかと不思議に思いつつやんわりと食事を勧めた。


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