そのなな-7


 まだ胸の鼓動が跳ね上がったままの春樹は、そっと桜庭に近づく。
「あれ、マシュマロちゃんは?」
 中に入ってきたのが春樹1人だと知ると、桜庭は不思議そうに首を傾げた。
「山浦は、用がないから来ないと」
「ちっ。折角クッキー焼いたのに。なんで連れてきてくんないの~」
「そうなのか」
 そのことで詰られるとは思ってもみなかった春樹は戸惑ってしまう。
 答えに詰まる春樹をチラリと見た桜庭は、軽く笑いながら自分の作ったクッキーを摘んだ。
「まあしょうがないよねえ。あとで子豚ちゃんちに持ってくからいいよ」
 んまいと呟いた桜庭に春樹はその手元を眺めた。
 動物の形をしたクッキーがクッキングシートの上に乗っている。
 意外な特技を持っている桜庭に感心していると、当の桜庭が近づいてきて肩に寄りかかられた。
 近いその距離に春樹は驚いて身を引こうとするが、しっかりと肩を押さえつけられて離れることが適わない。
 いったい何事かと身を竦ませていると、ふーっと耳に息を吹きかけられる。
 春樹はびくんと一度震えて、身を強張らせながら桜庭を見た。
 青ざめた春樹の反応を見た桜庭はふふんと笑う。
「なんだ、まだやっぱり博也と最後までしてないんだぁ?」
「さく......ッ」
 そろりと股間を撫でられて、春樹は咄嗟に桜庭を突き飛ばした。
 調理室の机に腰をぶつけた桜庭は痛みに顔をしかめるが、春樹の表情を見て髪をかき上げてひらひらと手を振る。
「わんこちゃんもかっわいいけどねぇ、俺は俺のぶぅちゃんが一番可愛い」
 しれっと告げる桜庭には、自分をどうにかしようという意図はないように思えた。
 一定の距離を保った春樹は、緊張を解かずに口を開く。
「山浦と、桜庭はそういう関係ないのか」
 問い掛ける声はわずかに掠れていた。桜庭は春樹の怯えを察してか、その場でふわりと笑う。
 その笑顔は愛情に満ちたものだった。
「ふふふふふ。子豚ちゃんとはね、殴られたり罵られたり無視されたりする間柄だよ」
 嬉しそうに告げられた春樹は、不思議に思って首を傾げる。
 どう考えても、それは笑顔で言うべきことではない。
「それって嫌われているのとどう違うんだ?」
「......言うねわんちゃん」
 疑問を素直に尋ねた春樹の前で、桜庭がずんと沈んだ。だがすぐに顔を上げると、強い口調で言い放つ。
「どこが違うって愛があるんだよ!子豚ちゃんの場合は!」
「そうか悪かった。それが山浦の愛情表現なのか」
 珍しいものだと納得している春樹に、桜庭は拍子抜けしたように息を吐く。
 それから机に腰掛けて春樹を眺めた。
「ほんっと素直だな。博也が関谷に会わせたくなかったのもわかる気がする」
「用件はそのことなのか」
 関谷のことで自分を呼び出したのかと春樹は、わずかに顔をしかめた。
 合意とは言えど、望んでなかった行為を思い出してまだ身体が強張る。
 ここ数日博也とも会っていないせいで、自分が無駄なことをしたのではないかという思いが胸をかすめた。
「違うっていえば違うんだけどぉ......わんこちゃん来週末暇?」
「博也に何も言われなければ、暇だな」
「......じゃあ暇なんだ?」
「ああ」
 基本的に春樹はいつでも暇だ。山浦とは休日に一緒に外出したりする仲ではないし。殆どは博也に付き合わされることが多い。
「なんだ博也、自分で言えば良いのにぃ」
 ちっと舌打ちをした桜庭が呟いた声を、春樹は聞き咎めた。
「博也が、俺に何か用なのか」
「あ、や。その、......」
 口ごもった桜庭は春樹の顔を見てぷっと吹き出す。
「わんこちゃんすっごい嬉しそうな顔してる」
「え」
 はっとした春樹は自分の顔を押さえた。
 そんな春樹に桜庭は違うと手を振る。
「や。わんこちゃん顔には出てないよぉ。雰囲気と声が明るくなっただけ。......へえ、ほんっきで博也のこと好きなんだぁ。えっちしてもいいぐらいに好き?」
「ああ」
 桜庭には隠すこともないだろうと頷いた春樹に、桜庭は目を細めた。
 口元には優しげな笑みが浮かび、ちょいちょいと手招かれる。
 少し悩んだ春樹は警戒をなくさないままそっと近づいた。するとぽんっと頭を撫でられる。
「博也は何悩んでんだろうねえ。関谷と口を聞かなくなるぐらい好きなくせに、わんこちゃんとまだしてないんだろ?」
 ぽんぽんと、小さな子供にするように頭を撫でてくる桜庭を春樹は見やる。
 それから一部訂正しようと口を開いた。
「俺が博也を好きなだけで、博也は俺のことを好きじゃない。博也が俺に触ってくれるのは、俺が頼んだからだ」
「うん?」
 いきなり何を言い出すのだと桜庭は軽く首を傾げた。だが春樹は淡々と言葉を紡ぐ。
「博也はしょうがなく、俺の相手をしてくれてるんだ」
 小さく呟くような声とともに、僅かに春樹の顔に笑みが浮かぶ。
 だがそれはすぐに立ち消えて春樹は目を伏せた。
「......だけど、もう博也とすることはないと思う」
 桜庭は春樹の出した結論に僅かに焦りを見せた。
「ああもー......どうしてそう思うのかなわんこちゃん」
「互いに扱きあった時、俺の反応が悪くて罵られた。嫌われた、んだと思う。......声とか、出せば良かったのか?」
 不安そうな眼差しを向けられて、桜庭は戸惑ったように瞬きをした。
「や、えーっと、ちょっと待ってねわんこちゃん。......もしかして最近博也が焦ってんのってそれが原因?」
 尋ねられた春樹の方が意味がわからずに首を横に振る。
「ずっと会ってないからわからない」
「......」
 難しい顔になった桜庭は、腕を組んで軽く息を吐いた。
 春樹も博也に言われた言葉を思い出して僅かに沈み、視線を床に向けてしまう。
「......あーもー俺言っちゃう。考えんのめんどくさい!」
 ふっと視線を上げると、桜庭は半ば呆れたような苦笑を浮かべていた。
「博也ねえ、わんこちゃんと約束したからって今一生懸命にベンキョしてんの」
「え」
「そんでテストの点数が良かったら、わんこちゃん誘って遊びに行ってからホテルに連れて行くんだってさ。だから来週末空いてるか確認してこいって言われたんだよ俺」
 笑った桜庭は机から降りると、軽く春樹の肩を叩いた。
「めんどくさい事頼むなって思ってたけどぉ、そーゆーことねー。あ、今のオフレコでよろしく。俺がばらしたってことは秘密にして」
 ぴんと立てた人差し指を口に寄せて軽く片目を閉じる桜庭。
 わざとらしいが、そんな仕草も派手な外見の桜庭には良く似合う。
「えと、あの......え?」
 落ち込んで思考が逃避していた春樹は、何を言われたのか良くわかっていなかった。
 桜庭は動揺している春樹をよそに、熱の冷めたクッキーを可愛いリボンのついた袋に詰め込んでいっている。
 クッキーを詰め込み終わり、後片付けを済ませた桜庭は所在なく立ち尽くしている春樹を見ると、ふふふと口元を緩めた。
「待ってりゃいいのわんこちゃんは。博也は普段あんな感じだけど、やるときはやるし。......ただ、覚悟はしておいたほうがいいかもねえ」
「何の」
「最後までやっちゃうつもりっぽいし」
 それを聞いて、春樹は驚いたように目を見開く。
「桜庭の、勘違いじゃ」
「まーそう思いたいなら思っててもいいよお。ただちゃーんと来週土日は空けといてあげてねぇ」
 含みのある言葉を残して、桜場は春樹の隣を通り過ぎる。
 春樹は咄嗟に桜庭の手を掴んだ。
「これ以上情報渡さないよぉ......って、わんこちゃんなんか近い」
 振り返った桜庭が、間近で思いつめた顔をしている春樹に訝しげな表情を向けた。
「悪いが桜庭の言ってることを信じきれない。
 ......だけど、もしそれが本当なら、この間みたいに博也に残念な思いをさせたくない。
 感度を上げるためにはどうしたらいいか教えてほしい」
「え」
 ぽかんと桜庭は口を開けた。
 春樹の表情には切実さがにじみ出ていて、桜庭はわずかに眉尻を下げる。
「そういうことは、博也に相談した方がいいんじゃないの?」
「会ってももらえないのにか。......頼む桜庭」
 頭まで下げた春樹に、桜庭は当惑したままため息をつく。
「んじゃ俺がわかるぐらいで教えるけどぉ、代わりにわんこちゃんも俺のお願い聞いてくれる?」
「なんだ」
「うまーく博也とラブラブえっちが出来たら言う~。聞いてくれるって約束してくれたら、今はそれでいいよ」
「ら、らぶらぶ......?」
 自分と博也ではそんな状況になるとは思えない。押し黙った春樹の鼻を、呆れた桜庭は軽く摘んだ。
「ッ」
「わんこちゃんは頷けばいーの!」
「あ、ああ」
 春樹は桜庭に押し切られた形でようやく頷いた。


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