そのなな-9
9時に迎えに行くと言われた。行くといったからには、博也は来ることだろう。
「......」
布団にもぐりこんだままだった春樹は、手だけ伸ばして目覚まし時計を手にした。
時間を確認すると、時計の針は8時半を指している。予定の時間まであと30分しかない。
だが、春樹は布団に入り込んだまま出てくることはなかった。
規則正しい生活を心がけている春樹が7時を過ぎても布団から出てこないのは、普段ないことだ。
それでもしばらくもそもそと布団の中で動いていた春樹は諦めたように体を起こした。
口からは大きなため息が漏れる。顔を洗いに洗面台に行くと、目の下に酷い隈が出来ている自分の顔が見えた。
一睡すら出来なかった証拠だ。春樹は鏡に写った自分を眺めて嘲笑う。
自分での身体の開発は、結論から言えば失敗だった。
もう一度最後にと挑戦したのはよかったものの、達することも出来ずに悪戯に自分の身体を傷つけただけだった。
胸の突起は赤く腫れ上がり、衣服が触れるだけでもじんじんと痛い。性器も鈍い痛みが伴って真っ赤になってしまった。
最後は諦めて薬を塗ったものの、こんな身体を博也に見せることが出来るのかと考え始めると、次は寝れなくなった。
寝ようと焦れば焦るほど、目は冴えてしまう。
結局、無駄に時間を過ごしただけで、うだうだと寝転がった結果が今だ。
身支度を整えるために軽くシャワーを浴びて身体を洗ったが、弄り倒した部分の疼痛は消えることはなかった。
憂鬱な思いのまま服を身に付ける。
薄手の長袖シャツに使い古したジーンズ。手持ちの衣服もそれほどない春樹は、制服ではない時はいつもそんなラフな格好だ。
布団を畳んでしまうと、もうすることがなくなってしまった。
朝食は食べてないが、今から食べるには遅すぎる。博也を待たせるわけにはいけない。
「逃げたい......」
ぼんやりと正座していると、本音がホロリと漏れた。
一度は覚悟を決めたつもりだったのに、また博也に罵倒されることを怯えている。
罵倒されるだけならいい。春樹は愛想をつかされるのが怖いのだ。
未だに博也は自分を好きではないと思い込んでいる春樹は、とくんと痛む胸を押さえる。
そうして不安の中待っていると、予定の時間より少し早い時間に博也がノックもせずに飛び込んできた。
「起きてるか春樹ッ!」
上機嫌で入り込んできた博也は、部屋の中で正座している春樹を見てぴたりと動きを止める。
春樹は一度目を閉じると、ゆっくりと開いて自分を凝視している博也に視線を向けた。
気合が入っているのか黒のライダージャケットとクラッシュ加工されたデニムパンツを履いている。髪の毛もいつもより気合が入っているのが見て取れた。
「おはよう博也」
目を細めるように微笑むと、薄く赤くなった博也はむっとした表情で春樹に詰め寄る。
ずいっと近づかれた春樹は僅かに身を引いた。
「お前、寝てねえのかよ」
仰け反りかけた春樹の頬を手で包んだ博也は、そのまま引き寄せて顔を覗き込む。
暖かな手の平の感触に春樹はどくんと鼓動を高鳴らせた。
「寝れねえ程楽しみだったのか。可愛いやつだなお前」
にやりと笑った博也は、優しく春樹の目の下の隈や頬を撫でた。
楽しげな博也の顔を見ていられなくて、春樹は僅かに目を伏せる。
博也は春樹の反応には気も留めずに、自分が立ち上がるのと一緒に手を引いて春樹を立ち上がらせた。
「しっかしお前私服だっせえよな。そんな服しかないのかよ」
博也は春樹の服装を見て顔をしかめた。
確かに洗練されているとは言いがたいが、それでも体躯の良い春樹が身に付ければそれなりに見えるのだが、博也はそれでも不満らしい。
「悪い。他の服も似通ったものばかりしかない」
「そーだよな、お前貧乏だもんな」
にこやかにきっぱりと言い切られた。
暗につりあわないと言われているようで、暗くなりかけた春樹は博也に腕を引かれて顔を上げた。
「しょうがねえから服も買ってやるから、それから遊ぼうぜ」
宣言された春樹は、博也に腕を掴まれたまま家を後にした。
行きつけの店があると告げられ、まずは電車で渋谷に向かう。
他愛もないことを話しながらの移動は、あっという間に終わった。
駅を出ると、春樹は人ごみの中を博也に腕を引っ張られながら歩く。
殆ど地元から出ることのない春樹は、人の多さに目が回りそうな気分だった。
博也に引っ張られなければ、人の波に紛れて離れてしまうそうだとひっそりと考える。
「ちゃんと歩けよ」
「......どうしてこんなに人が多いんだ」
「渋谷だからに決まってんだろ」
納得できるような出来ないようなことを言われて、春樹は苦笑しながら歩いた。
スクランブル交差点を抜け、店頭のステージで催し物をしているビルの中に入っていく。
女子中高生が多いレディースフロアを抜けると、博也は目的の場所にたどり着いたのかぱっと春樹の腕を離した。
「てんちょー久しぶり」
「お、ひろくんじゃん!」
親しげに声をかけながらスタッフに近づいていく博也をよそに、春樹は何気なく一枚ジャケットを手に取り金額を確認する。
2万9800円。
「......」
他の商品も手に取り値段を確認するが、どれも春樹の感覚からしてみれば安いと思うものはない。
ユニクロとか。そういうところで買うのはどうだろうか。
それが駄目ならせめて安いものを選ぼうと考えていた春樹は、近づいてきた気配を感じて視線を上げた。
20代後半と思われるハットをかぶった青年が、春樹を見てにっこりと微笑んでいる。
ネームプレートを見て、春樹はその青年がショップの店員であることに気づいた。
博也は軽く春樹の肩を叩く。
「コイツね。あとよろしく」
「ああ了解」
そんな短いやり取りを終えた後に、博也はショップから出て行ってしまう。
「博也」
追いかけようとした春樹は、青年に腕を掴まれて身動きを止めた。
「はい、君はこっち。ひろくんならすぐに戻ってくるから大丈夫だよ」
「え?」
戸惑う春樹を青年はフィッティングルームに連れて行った。
鏡の前に立たせると、男は楽しそうに春樹の頭からつま先まで眺める。
「春樹くんだっけ?足長いしタッパもあるから着せ替えし甲斐あるなあ。
とりあえず俺の見立てた服をいくつか着てもらえる?これから遊びに行くんなら、動きやすい格好にしとくから」
「......あの?」
要領を得ずに首を傾げる春樹に青年は軽く笑った。
「君をもっとカッコよくしてやってって言うのが、ひろくんのリクエスト。まあ任せてよ」
「はあ」
「んじゃ、試着してみて」
何着かの商品を手渡され、フィッティングルームのドアが閉められる。
ジーンズに、ジャケット。思わず金額を確認してしまうのは、貧乏人の性か。
「......」
付いていた値札にひっそりと恐怖して、春樹は恐々と着替えを始めた。