そのきゅう-1



 光の入らない古いアパートの一室。
 自分のささやかな家で、正座したままの春樹は持っていた紙を見つめて小さく息を吐いた。
 そこに載っているのはいくつかの数式。
 記された解答にはマルよりバツが圧倒的に多く、その点数を見て春樹は小さく唸ってしまう。
「んなの何度見たって変わるわけじゃねえじゃん。お前馬鹿?」
 そんな春樹のすぐ側で、小さい冷蔵庫からカップアイスを取り出した博也がのうのうと告げる。
 スプーンを咥えた博也はすたすたと春樹に歩み寄ると、その手から返されたばかりの数学の答案用紙を奪い去ってくしゃくしゃと丸めた。
 ぽーんと投げた答案用紙は綺麗に弧を描き、部屋の隅に置かれたゴミ箱に吸い込まれるように入っていく。
 博也の一連の流れるような動作を、春樹はついうっかり眺めてしまっていた。
「な、なんてことをするんだ」
 丸めた答案用紙がゴミ箱に落ちた音にはっとして、すぐさまそれを取りに行く。
「いらねえだろそんなゴミ」
「いる」
「いらねえじゃん。お前は」
 自分で持ち込んだ大きなビーズクッションに寄りかかりながらアイスを食べ出した博也に、春樹はぐっと奥歯を噛み締めて振り返る。
 春樹の手には、丸められた答案用紙がしっかりと握られたままだ。
 のんびりとアイスを楽しむ博也に、春樹は詰め寄る。
「ひろ、」
「ん?食うか?」
 少しばかり強く言ってやろう。
 そう心に決めていた春樹は、口を開けた途端に顔を寄せた博也に口付けされて、慌てて身を引いた。
 唇を潤すのは冷たいアイス。ミルクを纏った舌で舐められた自分の唇を、春樹は指で拭う。
 その態度が博也は気に食わなかったらしい。
「俺の与えたものが食えねえってのか」
 目を細めて苛立った声を上げる博也に気圧されて、春樹は小さく首を横に振った。
「そういうわけじゃ」
「なら口開けろおら」
 間近で睨まれては、春樹は博也に逆らうことはできない。
 戸惑いながら口を開くと、その目の前で博也は、カップに残ったアイスを全て自分の口に運んでしまった。
 博也が手放したカップがそのまま床に落ちるのに気を取られ、視線を逸らした隙に後頭部を捕まれる。
「んっ」
 口移しで、溶けたアイスを流し込まれて、春樹は堪らず博也の肩を掴んだ。
 縋るように力が入った春樹の指に、博也はふっと口元だけで笑う。
 口の中に溶けたアイスがなくなっても、博也は春樹を離そうとしない。
「っ......ぅ、ふ」
 春樹の口内を好き勝手に動く舌は、感情を高ぶらせてじんとした痺れる熱を与える。
 舌先を少し強く噛まれ、春樹は痛みに眉根を寄せるが、慰めるように舌で愛撫されて腰が震えた。
 流される。
 身を乗り出した博也にゆっくりとクッションに押し倒された。
「ひろ、ちょ、今日は......」
「ああ?嫌じゃねえよな、お前俺が好きだもんな。......きっちり開発してやるから、な」
「ッ」
 するりと下着と肌の間に入ってきた手の平に、官能を呼び起こすように撫でられて、春樹は息を飲んだ。




 春樹の懊悩は尽きない。
 高校に登校した春樹は、深く長いため息をついて、教室内を見回した。
 女生徒の何人かと目が合うたびに色めき立った反応を取られるが、春樹の目当てはクラスの女子ではない。
 ホームルーム開始の15分前に入ってきたクラスメイトを見て、春樹はその人物に足を向けた。
「おはよう、山浦」
「おはよ!つっじー。......ど、どしたの?」
 ふっくらとした丸い頬を、わけもなくただつつきまくりたい気持ちに駆られながら声をかけると、山浦にぎょっとされた。
「なんか、やつれた?折角仲直りしたのに、またむらやんに悩まされてんの?」
 相変わらず無表情だが、春樹の目の下に出来た隈といつにない荒んだ雰囲気に、山浦はあっさりと指摘する。
「ああ。山浦に、相談に乗ってもらいたくて」
 春樹は視線を床に落としながら低い声で告げた。
 その様子に山浦はそっと心の中でため息を落とす。
 山浦の目には、ようやくいい感じになったように見えたのに、また逆戻りしたのかと、不憫な同級生に同情した。
「うん。いーよ。まとまった時間があった方がいいよね。昼休み......は、むらやんとごはんだっけ」
 2人で食事をしたい博也が、桜庭も連れずに春樹を連れ去るようになったのは知っている。
 特別教室に入り込んで昼食は2人の時間を作っているのだと、自分に纏わり付いてくるようになった桜庭が教えてくれたのを、山浦はややげんなりしながら思い出した。
「そのときでいい。頼む」
「うん?むらやんも一緒でいいの?」
 問いに春樹は深く頷いて見せた。
 本人がいる場所での相談と言うのは、少し不思議な気がして山浦は首を傾げる。
「できれば、桜庭にも聞いてもらいたい、んだが」
「............どーしてそれを僕に言うかなつっじー」
「仲良いんだろう?」
「良くない」
 山浦が嫌そうに眉根を寄せると、春樹の目がわずかに揺らいだ。
 春樹からしてみれば、自分と博也の関係を知っている人に相談に乗ってもらいたいところなので、桜庭にも聞いて欲しいのだ。
 聞いて、そしてできることなら暴走列車を止めて欲しい。
 出来るだけ他人には迷惑を掛けたくない性格である春樹は、2人を巻き添えにしてもいいと思えるほど追い詰められていた。
「俺が、桜庭を呼びにいくとその......博也が」
 口ごもる春樹。
 山浦の脳裏にははっりと不機嫌になる博也が想像ついた。
 それを宥める春樹の苦労を考えて、山浦はそっとため息をつく。
「......わかったよ。その代わり、今度数学教えてね。この間のテスト、僕赤点ギリギリだったんだ」
「ああ。俺にできることなら何でもしよう」
 春樹は緩く微笑みを浮かべた。
 見た目の変化は薄いが、それでも春樹がとても喜んでいることがわかる。
 話に決着がついたところで、担任が教室に姿を現した。


 そして、昼休み。


 博也が春樹を連れ込むという特別教室に付いてきた山浦は、目の前の光景に辟易して肩を竦めた。
「ほら、口開けろって」
「自分で食べれる」
「うるせえ。お前は俺に食わせればいいんだよ。......あっ、避けんじゃねえよ馬鹿!」
 同一の弁当を2つ並べて絨毯の床に座る博也は、隣の春樹に不自然なほど近い距離で昼食を食べさせようとしている。
 その前には山浦と桜庭がいるというのに、綺麗さっぱり無視だ。
 春樹の方はクラスメイトの呆れた眼差しを感じてか、気にする様子は伺えるものの、博也に迫られて流されるように口を開けている。
 そして上から目線の強請りに応えて、博也に食べさせていた。
 男同士だが、どこからどう見ても付き合いたての熱々のカップルにしか見えない。
「ねーつっじー、見せ付けたくて呼んだの?」
「ちが、んぐ」
 否定しようとした春樹は、口に入り込んできたから揚げを博也に睨まれながら咀嚼する。
 心底困っているのに、表情に出ない春樹の意図はなかなか汲んでもらえない。
「いいなあー。あーん!ての俺もしたい。ねえ子豚ちゃ」
「彼女にでもしてもらえば?」
「やだなもう!俺マシュマロちゃん一筋だから!嫉妬しないでいいよ!恥ずかしいなら俺がやったげるぅ!はい、あーん」
「心底うざいです桜庭くん」
 山浦は2人に向ける視線よりも、より冷たい視線を桜庭に向けて牽制する。
 が、それぐらいでへこたれる桜庭ではない。
「そのちっちゃくて可愛い唇開けて?ね、口いっぱい頬張っていいからさあ」
「っ、やめてよ触んないで!」
 抱きついてきた桜庭の腕を爪を立てて掴むが、上背のある男は抱きついてくるばかりで離そうとしない。
「食べてくんなきゃ、もっといっぱい触っちゃうよー?」
「この......、嫌だって言ってんだよ桜庭くん!」
「博也、頼むから他の人の前ではやめてくれないか」
「白豚とブタ愛好家は無視してろ。......手、止めんな。お前の手で、もっと食わせろよ」


 その場は、カオスと化していた。


←Novel↑Top