涙の人



 どこかの古民家から引き取ってきた廃材を使ったという店内は、大正、明治という古い時代の趣をもったカフェだった。
 珈琲と紅茶はそれぞれの香りを楽しむのには一緒に出すべからず、という店のマスターのこだわりで、このカフェでは日ごとにメニューを変えている。
 月曜は紅茶とそれにあわせたスイーツ、火曜は珈琲とそれにあわせた軽食、と言った具合だ。
 大学から駅に向かうまでの大通りの裏手に面したカフェは、浅木のお気に入りの場所だった。
 静かなと一人の空間を提供するのが目的で、テーブルに一席ずつ設けられたソファはそれぞれ形が変わっており、そのソファに座るためだけに来る客もいるという。
 訪れた客は、クラシックの音楽に耳を傾けながら自分ひとりの時間を満喫するのだ。
 読書をするもよし、仕事をするもよし、勉強に励むもよし。
 ただ、このカフェには制限がある。耳障りな機械音はご法度で、パソコン類は使うことができない。携帯も着信音が鳴らないように設定をする。店員を呼び止める際に、声を出してはいけない。などだ。
 マスターが道楽で経営している店のため、その制限で怒って帰る客も多々いるが、逆に常連となった客も多い。
 忙しい世間の喧騒を忘れられる場所として、カフェは一部の人の間で人気の店だった。
 浅木も大学の先輩からこの場所を教えてもらい、惚れ込んだ一人だった。
 あまりに気に入り過ぎて、頼み込んでアルバイトにしてもらったほどだ。
 授業も好きだが、ここにウェイターとして立てる時間も、浅木はたまらなく好きだった。



 その日も、浅木はアルバイトに勤しんでいた。
 白いノリの効いたシャツに黒いベスト。黒のスラックスに膝したまである黒のエプロンを身に付けている。
 初めのころはこのエプロンが意外に歩きにくて悩みの種だったが、ようやく気にせずに歩けるようになった。
 空いたティーカップに紅茶を注ぎ、中身の軽くなったポットを下げる。
 それを素早く行う浅木に、初老の女性がやんわりと目元を緩ませて軽く頭を下げた。
 かしずかれて当然、という振る舞いの客もいるが、こういった客がいると嬉しくなる。
 フロアを足音を立てずに一周し、自分の手を必要する客がいないかを見回して確認した浅木は、自分の定位置であるマスターがいるカウンターのそばにぴんと背筋を伸ばして立った。
 誰か手を上げたらすぐに動けるように気を配るのを怠らない。
 周囲を眺める浅木に、マスターがぺろっとメモを差し出した。
『雨』
 指摘を受けて、そっとカフェの窓を見やる。ぽつぽつと降り出した雨は、窓を濡らしていた。
 天気予報では晴れだったはず、と外れた天気に驚きながら、浅木は素早く店内にいる人数を数えて、買い置きしてあった傘を出入り口付近に用意する。
 物は近所の100円ショップで買った安物だが、ないよりはあった方がいいというマスターの気遣いだ。
 浅木の行動に気づいた客が少し慌てた様子で立ち上がった。
 若い女性客で、その拍子にかたんとテーブルが揺れ、卓上にあった食器類が音を立てる。
 静音を何より愛する人が集まるカフェ、という性質上、音を立ててしまった女性は表情を強張らせた。
「大丈夫ですよ」
 慌てて床に落ちた食器を拾おうと手を伸ばした女性客を優しく止めたのは、いつのまにかカウンターから出てきていたマスターだった。
 本来なら声を発するのはご法度だが、それがルールを決めたマスターであれば、それを咎める人はいない。
 落ち着きのある声と柔和で優しい表情で女性客の緊張を解したマスターは、彼女が会計用の伝票を手にしていたのを見てレジに向かう。
 マスターから優しく丁寧な会釈を受けた女性は、ほっと肩の力を抜いて会計を済ませた。
 浅木は女性の動きにあわせて傘を手渡しながらドアを開ける。
「ありがとうございました。またお越しくださいね」
 一歩カフェから足を踏み出した浅木が笑みを浮かべる。店の外に出れば会話も出来るのだ。
「こちらこそ、落ち着いた時間をありがとう。......マスターにもありがとうと伝えておいて下さい」
「わかりました。お気をつけて」
 少しはにかんだように笑って、その女性は傘を差して店から遠ざかっていく。
 浅木は少しの間その姿を見送ってからカフェの中に戻った。
 だんだんと強くなる雨脚と遠くから聞こえてきた雷の音に、何人かが重い腰を上げていく。
「帰宅は少しあとの方がよろしいのでは?」
「保育園にいる息子の迎え時間なんだ。雷苦手だから、早く行ってあげないと」
 少しくたびれた様子のサラリーマンは、そう言って微笑み雨の中、傘を持って飛び出していく。
 近所に住む常連の主婦は「旦那が傘を忘れたから持って行くわ。たまにはいいでしょ」とサプライズを企み、浅木と同じ大学に通う学生は「雨漏りしてんの忘れてた。......帰りたくねえな」とぼやきながら、急いで帰路に着く。
 こう一斉に帰られると少し寂しいものがある。
 残念な気持ちで店内を見回していると、端の席に一人だけ残っている男性の姿があった。
 黒革の靴に高級そうなスーツを着こなし、凛とした涼やかな横顔。僅かに刻まれた目元と口元の皺を見て、浅木は30代後半だろうと検討をつけているが、正確な歳は知らない。
 ただ、とても紳士で、その立ち振る舞いを浅木は見惚れたこともあった。
 男性もこのカフェので、紅茶がメニューに上がるタイミングを見計らい、週に1、2度は訪れては1時間程度の一人の時間を楽しんでいる。
 大抵は読書をしていることが多かったが、今日は何も手にしておらず、物思いに耽っているようだった。
 その男性の姿を見て、浅木はぐっと拳に力を入れることで、緩みかけていた意識に活を入れた。
 いつもの定位置に戻り、ドアや他のところに視線を向けつつも、男性に気を配る。
 呼ばれることを意識してじっと見つめるのはぶしつけだろうという思いがあるからだ。
 浅木の気遣いに、マスターはふっと頬を緩ませる。
『少し、奥で休憩してくる』
 マスターは、浅木にそう書いたメモを寄越してカウンターの奥にある控え室に姿を消した。
 これで、ここにいるのは浅木と男性客のみだ。
 小さくかけられていたクラシックの音楽を打ち消すほどの雨の音からしてみても、来客は望めない。
 また残っているこの男性客も、この雨では帰りにくいだろう。
 そんなことを考えながら、男性の手元にある紅茶に視線を向ける。

 と、浅木はとんでもないものを目撃してしまった。

 ふっと目を伏せた男性の頬のラインに沿うように流れ落ちる雫。
 瞳から零れ落ちたその涙は、ただ静かに流れていく。

 浅木は戸惑った。密かに憧れるほどの大人の男の人でも、こうして泣くことがあるのかと。
 うっかり凝視してしまった浅木は、ふと視線を上げた男性と目が合い、気まずくなって顔を逸らした。
 考えてみれば、泣いている姿をまじまじと眺めるなんて性格が悪すぎる。
 自分の行動を恥じていた浅木は、男性が軽く手を上げて、浅木を呼んでいることに気づくのが遅れてしまった。
 とんとん、と軽くテーブルを叩く音を聞いて慌てて視線を男性に戻し、それから呼ばれていることを知って早足で近寄る。
 男性は、胸元からペンを取り出すと卓上に置いたままにしてあった手帳に何かを書き始めた。
『みっともないところを見せてしまったね。忘れてくれ』
 走り書きで書かれた言葉に、浅木は慌てて首を横に振った。
 目に見えて緊張している浅木に、男性は声なく笑うと、そっと指先で涙を拭った。
 その仕草を見て、浅木は咄嗟にポケットから取り出したハンカチを差し出す。
 が、差し出したところで、浅木は頬を引きつらせて固まった。
 その手にあったのは女性が好む、ネコに赤いリボンが特徴のキャラクター物のハンカチだった。
 友達が遊び半分で浅木にあげたものを頓着せずに使っていたのだが、この場で男が男に差し出すにはまったくもってそぐわない。
 それを見た男性は、瞬きをして軽く首を傾げる。
『キティちゃん、好き?』
 筆談で問われ、浅木はますます首を横に振った。
(違うんです!これはもらいものなだけで、別に好きなわけじゃないんです!......ああ、どうやって説明しよう!)
 他に客もおらず、店のマスターもいないこの状態で、ルールを破っても咎める人は誰もいない。
 けれど浅木も男性も、律儀に声を出すことはなかった。
『恥ずかしがらなくていいよ』
 心底否定している浅木の態度を、男性はそう取ったらしい。
 (違うんですってば!)と口をぱくぱくと動かすが、その必死な様がよほど可笑しかったのか、男性が小さく吹き出した。
 静かに泣いていた男性が笑ったことで、浅木は羞恥に身悶えつつもどこか安堵してしまう。
 男性は、マスターが戻ってきて問いかけるまで、声を出さずに腹を抱えて笑っていた。



 ストラップ。ボールペン。消しゴム。根付。
 男性がカフェを訪れるたびに浅木にくれたものだ。
 時折客がチップ代わりに小物をくれることはあるのだが、男性からそれらを手渡されるたびに、浅木は頬を膨らましてしまう。
 どれもこれもが、可愛らしいネコのモチーフが付いたものばかりだからだ。
 好きではないと何度も否定しているのに、顔をあわせるたびに男性は浅木に手渡してくる。
 嫌がっても最終的に受け取ってしまう自分が恨めしい、と浅木は思った。
 これを受け取ると、男性はとても嬉しそうに笑うのだ。
 その笑顔に見惚れているうちに、返すタイミングを見逃してしまう。
 おかげで浅木の家の一角には、キティちゃんスペースなるものが出来上がっていた。
 もらうだけもらって捨てればいいという友人もいたが、どれも男性からもらったものだと思うと手放すことができない。
 今日も、男性を見送るためにカフェの外に出たところで、小さな包みを差し出された。
 透明な袋にラッピングされたそれは、どう見てもタオル地のハンカチだ。

 ......もちろんあのキャラクターの。

「あの、こんなに毎回受け取れません」
 今日こそはきっぱり言わねばなるまい、と浅木は気合を入れて男性にその包みを付き返した。
 驚いたように目を見開いた男性は、ハンカチと浅木の顔を交互に見る。
「気に入らなかった?」
「違います。俺、別にコレそんなに好きじゃありません」
「そう......」
 男性は僅かに視線を地面に落とした。その悲しげな様子に浅木は怯みそうになる。
(......いや、でも負けちゃ駄目だ!)
 今度こそかわいいアイテム好きのレッテルを剥がしてやると、浅木は手を引っ込めそうになる意思と戦う。
「あのとき君にハンカチを差し出されて、本当に嬉しかったんだ。その感謝の気持ちを表したかったんだが、迷惑だったね」
 寂しそうに笑った男性が、包みを掴む。軽く引っ張られたが、浅木は手放すことが出来なかった。
「め、いわくだなんて......言ってないじゃないですか」
「本当?じゃもらってくれるね」
 ぱっと手放し、先ほどの意気消沈振りが嘘のようににこにこと微笑まれた浅木は、ぎっと男性を睨みつける。
 その視線を受けても、男性は笑みを浮かべたままだ。
「柏野さん、性格悪いって言われません?」
「おや。今頃気づいたのか?遅いよ浅木くん。さ、早く店に戻ったらどうだい?」
 客の見送りとはいえ、バイト中に長時間外に出ているのはよくない。戻るように促された浅木は、わざとらしくため息をついた。
「また柏野さんが泣いてたら、ハンカチ貸してあげますからいつでも言ってくださいね!」
 背を向けながら嫌味をいう。だが、その程度では男性には堪えなかった。
 浅木が開けかけたドアを押して閉じさせ、そっと耳元で囁く。
「じゃあ俺が泣いていたらいつでも来てくれるのか。ベッドの中で泣いて、君が来るのを待つかな」
「ッ」
 低く甘い声のせいで、浅木は背筋がぞくりと来るのがわかった。悪寒ではなく、腰に響くような甘い痺れ。
「柏野さん!」
「またね、浅木くん」
 ばっと振り返ると、男性は既に浅木に背を向けて歩き出していた。その背中が小さくなるのを睨みつける。

 大人の男の、単なる悪ふざけ。
 そう思いつつ、浅木は胸の鼓動が高鳴るのを抑えきれずに、もらった包みを胸に押し付けて、小さく息を吐いた。


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