4月
-桜花爛漫の候となりましたが-花粉を運ぶ風が吹き荒れる4月。
自宅に引きこもるようになって、早一ヶ月。
大学を卒業しても、さらなる修学も就職もしなかった俺は、所謂カタカナのニで始まって、トで終わる存在だ。
「おい」
「ぐぇ」
リビングで、まだ片付かれていないままのコタツに、ぬくぬくと籠もっていた俺は、うるさい声に後頭部を圧迫されてくぐもった声を上げた。
「コンビニ」
端的に用件を告げられる。
後頭部の圧迫は、どうやら声の主の足らしい。
強弱をつけて踏みつけてくる。
く、苦しい。
「......」
座布団に顔を埋めたまま、俺は手のひらを上に向けた。
「クリスピーサンドが三個。ラムレーズンな」
言葉と一緒にカサリと落ちてきたのは、質の良い紙。
お札だ。手触りでわかる。
注文の内容からすれば、千円札だろう。
圧迫がなくなったところで顔をあげると、兄の後ろ姿だけが目に入った。
軽く息を吐いて起き上がる。
いい年して家に寄生している俺は、今のところお使いに行くしか能がない。
薄手のジャケットを羽織り、千円札をそのままポケットに押し込むと家を出た。
風に吹かれて、髪の毛が乱れる。
引きこもりになってから、見た目なんて殆ど気にならない。
......まあ、なる前も気にしたことはろくになかったが。
風が遊ぶまま、乱れるままにして、俺は自転車に乗った。
一番近くのコンビニには、兄ご指定の商品はなかった。
次も、そしてその次も。
自転車でぶらぶらとコンビニをハシゴする。
五件目も欲しいアイスがないことに、俺は深いため息をついた。
意図して向かうことのなかった、自宅から3番目に近いコンビニへ、重い足を向ける。
まだ冷たい春の風が、その足を後押しするように俺の背を押した。
「いらっしゃいませ」
自動ドアをくぐると、店員の軽やかな声が耳をくすぐる。
その存在を一瞥して、すぐに店内の奥に進んだ。
アイスの入っている冷凍の棚を見て、手を伸ばす。
だがその途中で、俺はぴくりと動きを止めた。
中には、クリスピーサンドが2個。しかし、必要は3個だ。
足りない分はまたコンビニに探しに行かなければならないのかと考えると、ちょっと憂鬱だった。
しかし、ここで買い逃して、次に行くコンビニにあるとは限らない。
どうか溶けませんように。あと次で最後の1個が見つかりますように。
ため息をついて、2個だけ板状アイスを掴むと、仕方なくレジに向かった。
今日も、こいつか。
うんざりする気持ちを感じながら、俺はレジに立つ。
商品をカウンターに乗せると、レジの男はにこやかに笑みを浮かべた。
「今日は、レーズン?」
男の質問に、じわりと手のひらに汗が浮かんだ。
指を擦り合わせると、手が冷えているのがわかる。
なにかと、毎回アイスを買いに来るたびに、話しかけてくるこのコンビニ店員。
親しみを込めた眼差しを向けてくるようになったのは、いつ頃からか。
......甘いアイスばかり買う男が珍しいのか。
悪いが甘いのが好きなのは、俺じゃなくて兄だ。
だけど、兄はそう周囲に思われるのが嫌だから、ニートで引きこもりの俺を使ってるんだこのやろう。
とは、言えない。
そもそも、それだけ人と話せるなら、俺は他の人と同じように就職なりなんなりできるだろう。
高校、大学と、卒業できただけでも俺にとっては奇跡だ。
どう反応して良いかわからず、兄から預かった千円札をポケットから出していると、商品を見てレジの男が呟いた。
「数、足りなくない?」
いつも購入数は3。
それを、この男は覚えていたのだろう。
「アイスの棚になかった?」
首を傾げられて、俺は無言で頷いた。
「ちょっと待って」
男は、レジを途中のままカウンターから離れてしまう。
なんなんだ?
店内には、俺以外に客はいない。
店員も、レジの男以外、今はいないようだ。
不用心じゃないのかと他人ごとながら考える。
俺が商品をパクって逃走するとか考えないのか。
......しないけれども。
しばらく待っていると、男は店の奥から戻ってきた。
「はい、これ」
男が出してきたのは、俺が求めていた最後の3つ目。
貰っていいのか?
戸惑って男を見ていると、男はふにゃりと笑った。
サンバイザーで良く見えないが、警戒心のない笑顔。
「あんたがいつもこのシリーズを買っていくから、そんなに美味しいのかと思って買ってみたんだ」
いちいちニートの買いもん、見てんじゃねえボケ。
俺の思うことは、口には出ない。
無言で滑らかに動く男の口元を見るのみだ。
「普段、こんな高いアイス買わないんだけど、食べてみたくてさ」
ずいぶんと、親しげに話しかけてくるじゃねえか。
レジの男は警戒する俺には構わず、袋に3個のアイスを詰めると、「588円です」と告げた。
そこでようやく、俺は口を開く。
「金額」
「え?」
「金額、違う」
俺が低い声で指摘すると、男はきょとんとした表情になった。
このアイスを良く買う俺は覚えている。
クリスピーサンドは税込み1個294円だ。588円では、2個分の値段にしかならない。
袋に入れられたアイスを1つだけ取り出して、返すような仕草をすると、ようやく男は俺の意図がわかったようだった。
「ああ、俺が買っちゃったから、もうレジ通した後だし」
ならその分、お前がレジから金を貰えばいいだけだろう。
俺はすっと目を細める。
コンビニ店員は、不機嫌そうな俺にも態度は変わらなかった。
「あ、気にしなくていいよ。いつもご贔屓にしてくれるお礼」
ごそごそと、俺が出したアイスを袋に戻される。
「412円のお返しになります」
有無を言わさないような、にこやかな笑顔で、男はつり銭を握った手を伸ばしてきた。
男を、じっと見返す。
短めのツンツン立てた茶色の髪。人好きするような柔らかな物腰。耳障りの良い声。
目の色は......色づきサンバイザーのせいでわからない。
コンビニの制服はださいけど、170cmの身長もない俺より、頭1つ分ぐらい高い。
ニートで引きこもり、黒髪の跳ねまくってぼさぼさした髪の俺とは、対極な位置にいる男だと思った。
「......」
少し考えた俺は、アイスの入った袋を手にする。
俺の心を読む男と会話をする気はない。そのまま背を向けた。
「あ、ちょっとおつり!」
手を差し出したままだった男は、慌てたように俺を呼び止める。
俺は、それを振り切るように飛び出して、自転車に乗って逃げた。
今度は絶対違うコンビニで買おう。そう思った。