5月-1
-すがすがしい青葉の季節となりましたが-桜の季節も基本引きこもりで過ごした俺は、久々に誰の言いつけでもなく、外出していた。
ほんのりと暖かい風。強すぎもない柔らかい日差し。
コンビニでの1件で、プチ対人恐怖症になっていた俺は、それこそ兄にお使いを頼まれても外に出ず、母に庭の掃除を頼まれても外に出なかった。
でもそんな日々も今日で終わり。
一年間で一番好きな季節の陽気に誘われて、少しばかり気分が浮上した俺は、ぷらぷらと人気の少ない早朝の道を歩く。
肩に背負ったリュックには、自信作の弁当。
いい年して無職の俺は、小遣いもなく、簡単に金を稼ぐ手段も持たない。
外で何かを買って食べるということはありえなかった。
そのかわりといっては何だが、家にあるものならいくらでも失敬して構わないので、今日もそうしてきた。
贈答品で貰ったハムを、惜しげもなくふんだんに使ったサンドイッチ。
新鮮な卵で作ったベーコンエッグ。
デザートは甘い香りのするイチゴ。
普段ないぐらい、豪勢にした。
それぞれの食材は、母が何か使う予定を立てていたみたいだが、俺の胃に収まる事を許して欲しい。
その代わりに早起きして朝食と、母と出張から一時期帰ってきている父と、横暴な暴君の兄が、それぞれ職場で食べれるように昼食を残してきた。
奴らは、俺に感謝して喜んで食うだろう。
ないこととはわかりつつも、感謝される自分というものを想像して、俺は悦に入っていた。
今日の目的地は、美術館と、そこに併設された奇怪なオブジェがある公園。
近所に大きな子供向けの用具がある公園があるため、ここの公園は普段見向きもされない。
せいぜい年寄りが日向ぼっこをしにきたり、犬の散歩をさせる人が来るぐらいだ。
また美術館も、時折変わった展示をするぐらいなので、普段それほど人が来ない。
まさに人との接触が苦手な俺に、うってつけの場所だった。
道端の雑草の名前を思い出しながら歩いていると、美術館に着く。
締め切られていた美術館の入り口を見て、俺は腕時計で時間を確認した。
「8時30分」
......少し、早いな。
ゆっくり歩いてきたと思っていたが、結構早く着いたようだった。
まだまだ開館時間には程遠い。
仕方ないので、俺は先に公園を覗くことにした。
こちらは市民の憩いの場を目指しているためか、年中無休で出入りが可能だ。
少し歩いて車進入禁止の柵がある公園の入り口から中に入る。
相変わらず、何を意図しているのかわからないモニュメントが立ち並んでいた。
それらの脇を通り抜け、散歩道にそって置かれているベンチの一つに腰を下ろす。
寒気がしてぶるりと身体を震わせた。
朝はやっぱりまだ寒い。
それでも昼頃の時間になれば、俺の好きな気温にまで上がるはずだ。
その気温の中、良い気分で昼寝を出来ることを想像して、俺は1人笑みを浮かべた。
そう。
俺は昼寝をするためにここまで来た。
俺のスケジュールでは、美術館で無料展示されている部分を眺め、小腹が空いてきたところで公園で弁当を食べ、そして食後の昼寝をし、寒くなる前に帰る。という予定が立っている。
肌寒い中、開館を待つ。
弁当を作るために早起きしたせいで、目がしぱしぱする。
ここで寝てしまってはもったいないと、眠気が襲ってくるのを目をこすってやり過ごしながら、俺は時間を潰していた。
無料展示の部分は、ずっと変わっていない。
俺が高校に入ったころから変わってないのだから、少なくとも7年近くそのままだ。
でも、壁の色は褪せても、絵は丁寧に扱われて埃を取られている。
絵画は全部一緒の人の作品らしい。
作者には興味がないから、覚えていない。
5、6枚飾ってある絵を、無駄にじっくりと眺めた。
それしか今はやることがない。
隅々まで見て、もう全部覚えてしまった。
風景画は、見つかりにくい森の奥に、影絵のようにウサギのシルエットや、鹿らしき動物の角のようなものが描かれている。 他には木の陰影がリスに見えるように描いていたり、鳥の影が中央の湖にだけ描かれていたり。
見れば見るたびに発見のある絵画に、昔の俺は宝物を見つけた気分だった。
またこの画家は人物画も書く。
風景画に混じってかけてある女性の絵画。
この綺麗に微笑む椅子に腰掛けた女性。
その女性のドレスの裾には、引っ張っているような不自然な皺がある。
まるで絵の枠外に裾を引っ張る誰かがいるようだ。
......例えは子供とか。
そんなつい、想像を掻き立てられる絵画ばかりだった。
この絵を描いた人物は、なかなか遊び心があるように思える。
なんて、絵心のない俺に思われたってしょうがないか。
存分に眺めて満足すると、俺は展示物から離れた。
「11時45分」
ホールにある大きな時計は、昼前を指していた。
軽やかな女性の声や、子供の声もある。美術館にも人が増えてきたようだ。
今はなにやら新しい展示物があるらしい。
俺が見ていた無料展示の部分には、殆ど人がくることはないが、幾人かの声は聞こえてくる。
もう、そろそろ腹も空いてきた所だし、移動するか。
たくさんの人のざわめきから逃れるように、俺は美術館を出た。
さて。楽しみにしていた昼飯だ。
うきうきと、俺は公園の奥まったところにある芝生に、持ってきていたブルーシートを広げて座った。
一つ一つ、持ってきたランチをその上に置く。
サンドイッチはハムが挟んだもの以外にも、俺が楽しめるようにいろんな味があった。
マスタードを塗ってソーセージを挟んだもの。ポテトサラダと野菜を挟んだもの。他にも垂涎ものばかり。
どう見ても一人では食べきれない量だ。
普段はそれほど食べるほうじゃないが、今日は別。
苦しいほどお腹いっぱい食べて、そして苦しいと思いながら午後の陽気に包まれて眠るのだ。
「いただきます」
食べ切れなくて残った分は持って帰れば済むことだし。と、さっそく俺はサンドイッチを口に運ぶ。
母が秘蔵にしていたハムは、適度な噛み応えと絶妙な塩加減が美味しい。
ああなんて贅沢。
ベーコンエッグの卵の部分は、子供用の小さなスプーンですくう。
掻き込んで食う、なんてことはしない。俺はちまちま食うのが好きなのだ。
いつになく、俺は上機嫌だった。
気分がいいと、少しは前向きになってくる。
俺だって、これでも居場所の無さと肩身の狭さに、苦しんでいるのだ。
でも今はそんな苦しさから開放されて、なにやら周囲に応援されている気にさえなる。
ちちちと煩い雀、酸性雨で若干輪郭がぼやけた銅像。集団で歩いている若い男女。
それらが俺を応援し......。集団の男女?
「......」
あまり人の入ってくることのない公園に現れたその男女に、俺は顔をしかめた。
1人、上がっていたテンションが極端に落ちていく。
男が二人に女が二人。平日の昼間にダブルデートだなんて不健全だ。
羨ましくなんてないぞ、と自分に言い聞かせながら、俺は全神経を彼らに向けていた。
こっちに来るなと電波を発して、もそもそとサンドイッチを口に運ぶ。
視線は向けない。目が合ったらどうするんだ。
幸いにも、どうやら俺のいる方には来ないらしい。
遠ざかる声にほっとした、その時。
「あーっ!!」
遠ざかった声が、なにか叫んだ。
何なんだ。うるさいぞ。
俺は眉根を寄せて顔をしかめながら、声の方向を見た。
ただ、純然たる興味だった。
声を上げる程のものが、なにかそっちにあっただろうかと。
「......」
俺は向けた視線を、ぎこちなく外した。
なぜか、男女のうちの1人の男が俺を見ている。
気のせい。きのせ......。
そう言い聞かせはするが、ざっざっざ、と芝生を歩く足音は紛れもなく、俺の方に近づいてきている。
ちら見すれば、一直線に男が俺に向かってきていた。
まるでファッション雑誌から出てきたような、男前。
遠目でも、人目を引くような外見であることがわかった。
男の眼差しを辿って後ろを振り返るが、そこには何も無い。
首を捻ったところで声が聞こえた。
「ねえ君!」
「!」
......俺か。俺なのか。
男の目的が自分にあると知り、ビビりな俺はブルーシートから腰を浮かせていた。
早足で近づく男は、なにやら気迫に満ちている。
あんなごうごう燃えるような雰囲気の人間に近づいたら、引きこもりで俺の繊細な肌が溶けてしまう。
俺はすっくと立ち上がると、弁当もブルーシートもそのままに、その場を逃げ出した