二陣-1



 一日歩き通しでいると、さすがに鹿の身体でも疲労を覚える。
 空腹も感じて、そのあたりに生えていた草を食んでみたが、口の中を駆け巡る苦さと痺れにすぐに吐き捨ててしまった。試しに違う種類の葉を幾つか口に含んでみるが、どれも苦く痺れがあって食べれるものはない。
 ほんっとうに何も食べられないのかー......。
 栄養補給ができないのなら、粛々と歩くしかなかった。時々休憩を挟みながら山を登り、そして降りる。そして次の山を登る。
 方向を迷わないために神通力で二度風を散らしたが、最初よりも範囲が狭まっていることで、俺の残力が減っていることがわかった。
 脳内で危険信号がうるさく鳴り響くんで、あまり使わないようにしようと決めた。ここでパニックに陥っても仕方がないから、出来るだけ落ち着けと自分に言い聞かせる。
 そのうちにどっぷり日が沈んでしまい、辺りは暗闇に包まれる。
 幸か不幸か、鹿となった俺の目は夜目が利く方で、周囲の様子は暗くても判別できた。そのまま夜通し歩き続けても良かったが、いつの間にか雨が降りだしている。
 参ったなあ......。
 天からの雫は俺の体力を奪う。毛皮をまとってはいるが、それでも冷たさは身に堪えた。しかたなく、見つけた木のくぼみに入り込んで雨を避ける。膝を折って蹲ると、身体の疲れが一斉に溢れたようで俺はすぐさま眠りについてしまった。
 次に目を覚ましたときには朝......ではなく、まだ暗闇が支配する時間帯のようだった。暗い周囲に視線を巡らす。身体はぐったりと疲れていたが、それにしては妙に神経が尖っていた。
 ゥオーン。
 狼か、犬か。遠吠えを耳が拾った。素早く周囲に視線を走らせて、俺は身体に緊張を走らせる。
 一匹。......二匹、いや、三匹。
 ぞくぞくと周囲に気配が集まってくる。遠くから来る他の気配を察した俺は、恐怖に震えそうになる身体を叱咤して立ち上がった。
 蹄で地面を蹴って走りだす。
 確か、狼も犬も夜行性じゃなかったはずだ。なのに気配は俺を逃さずに追ってくる。更にスピードを上げていくと、横から何かが飛びかかってきた。当たる瞬間に身を屈めて避けるが、その大きさにぎょっとする。
 形は狼のようだが、目は赤く光り胴は俺の倍の身丈がある。横目で捉えたその狼には、なぜか頭部が2つ付いていた。
 なんなんだ?!
 単なる獣じゃないことに更に恐怖を煽られた。
 ここで止まったら死ぬ。
 本当に命の危機を感じて、俺はがむしゃらに走った。途中何度か尻に爪がかかるが、毛皮がそれをつるりと滑らせて食い込ませることはなかった。
 残りの力が足りないなんて言ってられない。俺は神通力で風を巻き起こして狼を払った。身体中から力が抜けていく。フラフラになりつつ、俺は様子を伺うために振り返った。暗闇に狼の目の、赤い光が浮かび上がる。ほとんどの狼に致命傷を与えられなかったらしい。俺は泣きそうになりながら、未だに追ってくる気配に俺は夜明けまで走り続けた。
 狼には走りにくいだろう岩場や、流れが強い川も渡った。それでも奴らは付いてくる。
 単なる獲物として俺を見ているにしては執拗だった。
 蹄の一部が割れたのか、つま先に痛みが走った。無理やり走り抜けたせいで草や枝が俺の身体に傷を作っていく。
 苦しい。嫌だ。怖い。誰か。

 誰が助けて。

 枝が多い箇所をわざと走り抜けていると、急に視界が広がった。登り始めた太陽の日差しが地面を照らし、穏やかに続く斜面には緑が広がっていた。ところどころ朝露に濡れた小さな花が花弁を風に揺らしている。
 さらにその先に立ち上る煙と、民家が連なるのを見て俺は喜んだ。
 あそこまで行けば......!
 最後の力を振り絞って駆ける。だが、近くなった民家の状況に俺は絶句した。
 表に出てきているのは見るからにまだ幼い子供と、桶を持った若い少女だった。山から聞こえる音を捉え、顔を上げた少女と目が合う。その表情に戦慄が走った。
 悲鳴を上げて逃げようとし、足元を縺れさせて転んぶ。その少女の声に何人かが家から出てきたが、老婆や子連れの母親と思しき女性など、戦力になりそうな人は皆無だった。てんでバラバラに悲鳴を上げて逃げようとしているが、明らかに足の速さが俺や狼たちとは違う。
 俺がこのまま走り抜けたら、彼女たちはどうなるだろう。
 俺の代わりに食われてくれるかもしれない。......そうすれば俺は助かるかもしれない。
 もう全身痛いんだ。俺はあれだけ恐怖を味わったんだから、もういいだろう。
 助かりたい一心で、そのままスピードを緩めずに走る。起き上がれずにいる少女の隣を横切った。
「さえッ!」
 村の中央へと向かう俺と、竹槍と思しきものを持った若い少年がすれ違った。横顔が知春に見えて思わず視線で追い、足を緩める。
 少年は少女を庇うように前に立った。明らかに大きく震えてへっぴり腰だ。少年の先には俺を追いかけてきた狼が、村はずれにあった鶏小屋と思われる小屋を、あっさりと体当たりでぶち壊しているのが見える。
 あんな脅威に、少年がどれほどのことができるのか。
 .........ああもう......くそがッ!
 俺は踵を返し、地面を強く蹴って少年と少女を飛び越した。奴らが追ってくるのは俺なのだから、俺が、どうにかしないと行けないんだ。
 こんな所に来なければよかった、少年なんか気にせず逃げればよかった。すぐにそんな様々な後悔が俺の中を駆け巡る。でも、疲れ果てた俺は後悔を考えることすらもう面倒だった。
 獰猛な牙を見せて走ってくる狼めがけて、頭を下げて向かう。走り抜ける勢いで狼にぶち当たると、そのまま首を振り上げて角で狼を跳ね飛ばした。倍ほどある狼が空を舞う。それを横目に、村から少しでも離れようと元来た道を走った。
 村を出かかったところで、顎のすぐ真下に激痛が走る。他の狼が俺の首に噛み付いたのだ。それから逃れようと暴れるが、残ったもう一頭が俺の動きを封じようと胴体に爪を立てる。
 喰い込む爪が痛く、気道を塞がれて呼吸が出来なくて苦しかった。暴れる力もなくなっていく。
 目の前が霞み、涙が溢れ落ちた。誰も知らない異世界の地で死ぬ自分が憐れで、どうしようもなかった。
 かすれる意識の中でビュンと風が鳴った。すると、俺の首に齧り付いていた狼が離れる。急に取り込めるようになった空気に俺は後ろ足で思いっきり下肢にへばり付いた狼を蹴り上げた。
「しのか!」
 狼が離れたことで、俺は懸命に走った。
 もうどこでもいい。ここじゃないところに行きたい。
 地面を蹴ったつもりだったが、失敗したらしい。気づけば横になった俺の鼻先を白花がくすぐっていた。その花の向こう側には、狼と、人がいた。
 若い男だ。張りのある右腕を晒し、振り上げた剣......というよりも大振りのナタを振り下ろして狼の首を切り落としている。もう一つの頭が男に噛み付こうとすると、どこかからか飛んできた矢が目を貫いた。矢の軌跡を追えば、その先に一人の女が矢を構えて立っている。
 それから......とさらに視線をめぐらそうとした所で、男が切りかかっていたのとは別の狼が起き上がった。矢を何本も身に突き刺さった状態でふらつきながら、俺に向かって駆けてくる。狼の動きがスローモーションに見えた。
 俺の何が、狼の気に触ったんだろうか。
 でもどうせ殺すつもりなら一息で決めてくれ。
 歯の数さえ数えられそうな、大きく開けられた狼の口を見つめて俺はぼんやり思った。
 しかし、その口は完全に俺を死の闇に飲み込むことはなかった。狼の目から生気が消え失せていく。わずかに動かした視線の先で不思議なことに狼の胴体から赤く濡れた刃が出ていた。それがするすると胴体に消えて行くと、鈍い音を響かせて狼が横に倒れていく。
 そしてその先に立っていた男が見えた。男はナタを手にしたまま自分の、細いとは言えない顎を汗を拭っている。俺の視線に気づくと、じっと見下ろしてきた。
 成長しきった身体は一〇代のものではない。
 黒髪は逆立っており、切れ上がった瞳。形の良い鼻の下には少し厚めの唇があった。男らしく凛々しいと表現できそうなその顔に、色香を添えているのは目尻に添えられた紅だ。左腕はじゃらりと鱗のように何枚も重ねた金属の板を見につけ、胸にはは黒くがっしりとした胴当てをつけている。ナタを振るっていた右腕だけは筋肉の張りがわかるほど露出されており、両手には肘までの小手と、黒いグローブのような手袋をしていた。
 男はナタを軽く振るい鮮血を飛ばすと腰の鞘に納めて、俺の顔を覗き込んできた。
 伸した手でゆっくりと頬を撫でられる。
 それは、一晩中の殺意と恐怖に冷え切った俺の心を熱く溶かした。
「神鹿か......いはさ! 村の奴ら呼んでくれ!」
 生きてる。俺、死ななかった。
 ぽろりと涙が零れ落ちる。俺が意識を保っていられたのはそこまでだった。


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