花嫁の歌声-1
朝もやに包まれた早朝。
高い山の中腹辺りに広がる草原にまばらに立つ民家。
そこから、一つの人影が出てきた。
小さな身長の影は、1人うーんと伸びをすると、民家の出入り口の部分に立てかけてあった木桶に近づく。
木桶は肩にかけられるよう二つあり、しなやかな木の皮で出来たベルトのようなもので繋がっている。
腕のないラフィタは、器用に首の後ろにそのベルトをかけて、桶を持ち上げた。
行きは水の重さがない分かなり楽だ。
身軽に走って、山の下腹部にある湖に水を汲みに行く。
冷たい朝の空気が体温を奪おうとするが、ラフィタは自分の羽毛に包まれた羽根をコートのように覆っていた。
それでも鼻の頭は寒さに赤くなる。
大きな湖のほとりに到着すると、ラフィタはすうっと息を吸い込んだ。
「おっはようございまーっす!!朝だよ朝!!お水ちょうだいー!!」
桶を地面に下ろし、ばさばさと羽根を動かして大声を出す。
艶のある美しい声は、そんな内容でも湖全体に響いた。
「はーやーくっ!!お水!お水~!」
ぱたぱたと駆け回り、ときおりぴょんぴょんと飛び跳ねて、自分の存在をアピールする。
すると、湖の中央に水柱が立ち上がった。
空高く伸びた水の柱からは、1人の青年が出てくる。
白銀の長髪に、魚族特有のエラのついた耳。瞳は灰色に濁っており、その目は光をみることも出来ないのを物語っていた。
ただ、その外見は恐ろしいほどに整っている。
「おはようホアン、珍しいね。ジェラルドは?」
「......まだ、寝ている」
水の上を陸の上と同じように歩き近づいてきた青年に、ラフィタは首を傾げる。
「えっと、僕、水が欲しいんだけど......」
ラフィタは靴を脱いで、足で器用に桶を手繰り寄せる。
「私が汲もう」
目の見えないはずのホアンは、その桶を違えることなく掴んだ。
ラフィタが風を見ることが出来るように、ホアンは水の流れを見る。
目が見えずとも、生活においても支障はなかった。
「ありがとうホアン!」
汲んでくれるホアンに、ラフィタは感謝の気持ちを込めて、短い歌を歌う。
柔らかく透き通る歌声。
「ずいぶん、良い声だったのだな」
二つの桶に水を入れたホアンは、感心したように呟いた。
「ここに来たときは、全然ぼろぼろだったけどね」
照れくさそうに笑ったラフィタは再度、ベルトを首にかけて持ち上げる。
ふらつきかけたラフィタを、ホアンはそっと支えた。
「あの人間はどうした。そなたでは、この桶を持って上まで戻るのは辛かろう」
指摘されて、ラフィタは笑みを浮かべる。
「寝てる。ここに来てから寝不足みたいだから、寝せてあげたいの」
「......そうか」
いじらしいことを告げるラフィタに、ホアンは薄く笑みを浮かべて優しく頭を撫でた。
撫でられたラフィタはくすぐったそうに首をすくめる。
「ジェラルドがこれをお前に渡せと。額にかざせば良いと言ってた」
撫で終えると、懐から小さな水球を取り出す。
「あ、頼んでたの、用意してくれたんだ。ありがとう!」
水球はふよふよと宙に浮かび、ラフィタの前に下りてきた。
ラフィタは軽く呪文を唱え、気流を操って水球を自動的に自分の後からついてくるようにさせる。
「うんじゃ、僕行くね!」
「水を運ぶのが難しいようなら、無理はせずに人間を呼べ」
「人間ってやめてよね。僕の旦那さん、フェリックスって名前があるんだから」
「そうか。では、人間によろしく」
「......むう」
いくら訴えても呼び方を変えてくれないホアンに、ラフィタは唇を尖らせた。
けれど仕方がない。
「んじゃ!」
手の代わりに羽根を動かし、振ってラフィタはホアンに背を向けた。
見据えるは自分とフェリックスの愛の巣。
湖からは若干遠い。
「......よし」
すうっと息を吸い込むと、ラフィタは気合を入れて歩き出した。
水汲みから始まり、食事の用意も、住宅の掃除も、身の回りは全て自分たちで行わなくてはならない。
空にあった豪華な生活は失った。
けれど。
失われるはずだった命は、今もここにある。
「......っはあ、はあ......」
小さな身体で慣れぬ労働はきつい。
しかし、自分がやらなければ誰がやるのだとラフィタは意気揚々と山を登った。
ときおり貰った水球の存在を確認し、魔力が途切れて地面に落ちていないか確認する。
後もう少しで着くというところで、ラフィタは足元と桶に注意して足を進めた。
この前は、家に着く寸前で気が抜けて坂を転げ落ちてしまった。
たいした怪我はしなかったが、苦労してここまで運んだ水は地面に吸い込まれ、自分は泥だらけ。
さらに、フェリックスの雷が落ちて大変だった。
「ふうっ」
家にたどり着くと、ラフィタはほっと息を吐いて、水が零れないように細心の注意を払いながら木桶を地面に下ろす。
そしてそっと室内を覗いた。
元々空き家だった1人用の小屋は小ぢんまりとした狭い建物だ。空の屋敷とは比べ物にならない。
部屋の中にはベッドとキッチン。小さなテーブル。
2人で暮らすには、少し手狭だ。
けれどラフィタはこの小屋が気に入っていた。
狭ければ狭いほど、身を寄せ合える。
ラフィタは部屋に入ると、フェリックスの寝ているベッドに近づいた。
貰った水球を風を操りフェリックスの額に持っていく。
透明だった水球は青、紫、赤、黄と色を次々に変えると、やがてフェリックスの額にぴたりと張り付き、吸い込まれていった。
ジェラルドに聞いたところによると、このまま一週間ほどしばらく放置しなければいけない。
身体には害はないと言っていた。ので、ラフィタは信用して、寝入るフェリックスの顔を見つめる。
愛しい旦那様は静かに眠っていた。
屋敷にいるときより、シャープになった顔立ち。
反逆罪で捕まっていたことも原因の一部だが、地上に落ちてここで生活するようになってからは、肉体労働が増えた。
そのため、ずいぶんと筋肉もついたように思える。
「ぎゃふ!」
ぼんやりと昨晩抱きしめてくれた腕を思い出し、ラフィタは赤面してベッドに顔を伏せた。
狭い部屋にあるのは、もちろん狭いベッドだ。
2人はそのベッドで夜を供にしていた。
「ラフ......?」
ラフィタの声を聞きとめたフェリックスが、ぼんやりと目を覚ます。
フェリックスのの目の下には、うっすらと隈が出来ていた。
その原因をラフィタは良く知らない。一緒に寝るようになって、寝不足が酷いようだと言うことには気づいた。
時折うなされている姿も目にすることがある。
心配になって起こしても、フェリックスは力なく笑うだけで教えてくれなかった。
「ま、まだ早いから寝てて」
起こしてしまった、とラフィタは小さな声で囁く。
寝ているうちに朝食を用意してあげるのが、ラフィタの目標だ。
フェリックスが起きては意味がない。
囁きにフェリックスがどう思ったのか。
上半身を起こしかけた状態で動きが止まる。
フェリックスは枕元に立つラフィタを見つめると、手を伸ばし、ベッドに引き込んだ。
「ぅわ!」
ぎゅうっと寝起きの暖かい身体に抱きしめられ、ラフィタは声を上げる。
「外に、出ていらっしゃったんですか」
ラフィタの纏う、朝の清々しい空気に気付き、フェリックスは首筋に顔をうずめる。
「う、うん。ちょっと朝の空気を吸い」
「嘘ですね」
先ほどまでどこか柔らかい声だったものが、一気に硬質化する。
ラフィタはびくっと身体を揺らした。
フェリックスに視線を向ければ、これまた鋭い眼差しに射抜かれる。
「手も、足も冷たい。......また、水汲みに行かれたんですか」
言葉のまま手を握られ、足も擦り合わされる。
密着されて、ラフィタは真っ赤になった。
「い、いいいじゃない!それぐらい!」
「よくありません。お怪我をなされては困ります」
「怪我なんてしないよ!」
実際に怪我をしてしまったのに、言い切ってしまうあたりがラフィタの性格を物語る。
強情なラフィタに、フェリックスは微笑ましく思いながら手を伸ばして、外気で冷えた柔らかな髪を撫でた。
「貴方は、なにもしなくていいんですよ。全て、私がしますから」
ふわりと微笑む顔は、ラフィタがずっと見たがっていた優しい笑顔。
けれど、フェリックスの口にした言葉に、ラフィタはむうっと唇を尖らせた。
「僕だってできるよ。フェリの、お、お嫁さん、なんだから......」
それを告げるのは、なんだか照れくさい。
夫婦になったのだから、二人で協力し合って生きていきたいと、ラフィタは思うのだ。
だがフェリックスの意見は、ラフィタと少し違うようだった。
少し考えるように目を伏せ、口元に浮かんでいた笑みが消える。
しかし、すぐにまた優しい光を灯した瞳でラフィタを見た。
「可愛い妻に苦労をかけさせる夫などには、なりたくないのですよ」
「別に、苦労じゃ......てか、可愛くは、ないし......」
「ラフ」
呼びかけられて、ラフィタは口ごもる。
でもまだ不服そうなその顔に、フェリックスは声に出さずに笑った。
「では、奥方様の朝のお仕事をお願いします」
「......!うん!僕何するの?!」
張り切ったラフィタはきらきらと光る瞳でフェリックスを見つめる。
鳥族の歌姫の夫となった男は、自分の唇を指差した。
「目覚めの挨拶をいただけますか」
「え、あ......」
フェリックスの意図を理解したラフィタは、かあっと顔を赤くした。
今まで冷たく当たられていた分、このような触れ合いは慣れていない。
それでも、望まれているのだから、とラフィタはフェリックスに抱きしめられたまま、もそもそと背伸びをした。
黒の麗人の薄い唇に、そっと自分の唇を重ねる。
「おはよう......フェリックス」
「おはようございます。ラフィタ」
にっこりと微笑んだフェリックスに、お返しとばかりに口付けをされる。
それは朝から交わすには濃厚すぎるもので、ラフィタは蕩けそうになってしまった。