運命の日1-1



 待ち合わせにホテルのバー。見晴らしの良い最上階ではなく、地下のバーというのも珍しい。
 外資系のホテルの中は、日本人と外国人と半々だ。ひそひそと交わされる会話は色んな言語があって面白い。
 最初はそれをBGMにしていたが、今ではそんな余裕もなく俺は柄にもなくそわそわしていた。
 入ってから頼んだハイボールはもう空になっていたが、待ち人が現れる様子がない。
 待ち合わせの時間からもう15分過ぎている。俺はわずかに眉を潜めた。
 恋人の沙紀は、時間に無断で遅れるような女じゃない。それなのに携帯を見ても連絡が入っていなかった。
 なにかあったのか。
 嫌な感覚に包まれた俺は、別の客を対応していたバーテンダーを呼んだ。
「会計を」
 部屋を取っているわけじゃないからこの場で払うしかない。胸ポケットから財布を取り出していると、俺とバーテンの間を遮るように誰かがスツールに座った。
 邪魔だな。
 一瞥してすぐに離れようと思っていた俺はそいつの顔を見て動きを止める。
「遅れて悪かったね」
「高橋、......さん」
 ぬけぬけと告げた男は、俺の元上司、いや直属の上司だったことはないから、同僚か? 
 関係はどうでもいい。だが、こいつがここにいるのはどうでもよくない。
 俺の最大の天敵だった男だった。
 オールバックに上げた髪と質の良いスーツ。相変わらず口元には笑みを浮かべているが、その眼光は鋭い。
 なにかと俺に無駄なちょっかいを出してきたコイツは、営業のトップで業績もかなり上げていたが営業方針が変わり、課が解体された数ヵ月後に会社を退職している。
 盛大な送別会が開催されたが、俺は参加しなかった。
「お客様」
 バーテンが戻ってきて金額の書いてある紙を差し出したが、俺がそのメモを受け取る前に高橋がくしゃりと握りつぶした。
「マティーニ。彼には新しいものを」
 バーテンは戸惑ったように俺と高橋に視線を走らせる。だが、高橋がちらりと視線を向けると、そのまますごすごと下がってしまった。
「お久しぶりです。こんなところでお会いできるとは思いもしませんでした。いろいろお話を伺いたいところですが、私はこの後に用事がありますので失礼させていただきます」
 てめえとちんたら飲んでる時間なんてねーよタコ。という本音をオブラートに包んで、俺は笑顔を貼り付けた。
 俺の口は8割が建前で出来ている。本音をぶつけられる相手なんて、家族か恋人ぐらいなものだ。
 立ち上がろうとした俺に、高橋はぬけぬけと「早川君は来ないよ」なんて言い放った。
「あ゛あ?」
 反射的に低い声を出してぎろりと睨みつけた俺に構わず、高橋はポケットから白い封筒を取り出す。
「彼女から」
 俺はその封筒をひったくって中から手紙を取り出す。
 そこには一言。
『行けなくなりました。代わりに高橋課長が付き合ってくれるって。よかったね』
 その文字は間違いなく俺の彼女の物だが、語尾に付いたハートが憎らしい。
 一体どういうことだと考えていると、誰かの含み笑いが聞こえた。
「君のそういう顔、いいと思うよ」
 マティーニを傾けながら微笑む男も憎らしい。
 どういうことだかわからないが、結論は一つ。沙紀は来ない。
 なら俺がここにいる理由もない。
「......失礼します」
「帰ったら駄目だ。君は今日、私とスイートに泊まるんだよ」
「はあ?」
 頭がおかしいんじゃないのか。
 高橋が同性愛者だとは聞いたことがない。ただ、受付のだれそれと付き合ってる、という相手の特定できるような女との噂は聞かなかった。
 俺は嫌悪感を隠さずに男を見やる。
 最近の俺は、こういうネタを笑って過ごせるほど心が広くない。
 出来の悪い弟に出来た恋人が男だからだ。
 ともすれば消え去りそうなほど希薄だった弟を外に出したあの野郎の功績を認めないわけにはいかず、更に言えば弟が惚れているという最悪な事実があって許したが、俺はそこまでリベラルな人間じゃねえ。
 他の人間なら別だが家族が、それも弟がホモだということは許しがたい。だけど、アイツが和臣を必要だというからしぶしぶ認めてやっただけだ。
 というわけで。
「個人的な嗜好に人を巻き込まないでください。気持ち悪い。軽蔑します」
「君が何を考えているか、手に取るようにわかるけどね。そうじゃないんだ」
 俺が心底不快感を表していると、高橋はまた笑った。くそ、コイツの笑い方嫌い。
 余裕がありますよって顔がムカつく。
 毎回毎回会議のたびにいちゃもんつけてきやがって腹立たしいから、ぐうの音がでないような計画を立ててやれば、そうやって満足したように笑うのだ。
 仕事で見なくなって清々したと思うのに、こんなところで見ることになるなんて最悪だ。
「ニートだった弟君は就職も決まり、可愛い彼女とは婚約間近。仕事では目の上のこぶがいなくなって営業の中でも売上トップ。順風満帆な人生だね、藤沢君」
「......何が言いたいんですか」
 高橋は沙紀の上司で、それなりに仲も良かった。だから場合によっては、俺の近状を伝えていても不思議ではない。まあいい気分はしないが、それは二の次だ。
 高橋は俺の視線を受けてもものともせずにゆっくりとマティーニを飲んで口を歪ませる。
 挑発するような瞳が俺を射抜く。
 見え隠れしていた、男の本性がゆっくりと露になるようだった。
 俺になにかとつっかかりはするが、全てどこか霧がかかって本心を隠していた男がそれを見せてくる。
 喉が渇いたような錯覚に囚われるが、新しいハイボールに手を伸ばす気に離れなかった。
「ぬるま湯に肩までつかった楽で面白みのない人生だと思ってね。そうは思わないか」
「俺の人生、アンタに評価される謂れもない」
 切り返した声が、わずかに掠れた気がする。それをこの男に感づかれでもしたら、俺は屈辱で死んでしまうだろう。
 だからより強く睨み据えた。
 考えろ。コイツはどうして、俺の前に出てきた。
「もしかして、これはなにかのお誘いですか......?」
「ははは、感情をコントロールするのも得意だね。だから私は君が好きなんだ」
 嬉しくねえ告白だなおい。
「ここで話するのも気が散るだろう、おいで。じっくりと教えてあげるから」
 高橋はバーテンを呼んで会計を済ませる。さらさらと用紙にサインをしている様を見ると、本当に部屋を用意していたようだ。
 二人で店を出ると、高橋はフロントに向かった。
「キーと預かってもらっていたものを出してくれ」
「かしこまりました。高橋様」
 慇懃に応対したのは確かこのホテルの支配人じゃないのか。わざわざ自ら応対している様子をみると、このホテルでは高橋は上客のようだ。
 黙って眺めていると出された荷物は旅行用カバンだった。ベルボーイが荷台を用意するのを断っている。
「ですが......」
 若いベルボーイは、僅かに支配人の様子を伺い見ている。その青年に高橋は上機嫌で笑って見せた。
「私の大事なおもちゃが入ってるんでね。自分で運びたいんだ」
「わかりました」
 引き下がったベルボーイを尻目に、高橋はすたすたとエレベーターに向かう。
 少し距離を空けて追いかけると、高橋が足を止めて振り返った。
「持ちたまえ」
 ベルボーイは断ったのは俺に持たせるためか!
 かちんと来たが、エレベーターには俺たち以外にも客が並んでいた。言い返して変に注目を集めるのも嫌だった。
 タイヤが付いたタイプの旅行カバンはずっしりと重い。
 来たエレベーターに乗り込む。俺たちと、若い男女のカップルとその荷物を持ったベルボーイだ。
 高橋が押したのは42階で、最上階の一つ下である。
 ......そういえば高橋はスイートを取ったと言ってなかったか。
「これ、何が入っているんですか」
 考えることを放棄したい気分になりながら何気なく問いかけると、高橋の笑みが深くなった。
「聞いてなかったか? おもちゃだよ、大人の。君も夢中になるのは間違いない。大丈夫、朝まで寝かせないから」
「......」「......」「......」「......」
 沈黙は四人分。
 それなりの広さはあるエレベーターの中で、声を潜めることなく言い放ちやがった。
 さりげないように見せかけて無遠慮な三人分の視線が俺と高橋に注がれる。
 高橋は表情を変えなかったし、俺も何事もなかったかのようにその視線を受け流した。
 9階でカップルとベルボーイが降り立つと、二人きりになる。
「あんた......ふざけるのもいい加減にしてくださいよ」
「ふざけてなんていないよ」
 低く唸るような声を出したのに高橋は少しも変化がない。
 帰りたい気持ちもあるが、ここで帰ったら負けたようで悔しいから帰るに帰れない。
 ちくしょう、俺何してんだ。

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