8月-1


-暑中お見舞い申し上げます-



 海水浴後の水曜日。
 それはそれは、気が重かった。
「......」
 いつものように、ヤツのバイト終わりに間に合うように家を出たはずなのに、足取りが重くて、全然進まない。
 熱い、視線。
 海でのことを思い出すと、勝手に顔が赤くなる。
 なんで、あいつは俺にキス、したんだろう。
 無意識に、唇に指が伸びる。
 下唇を指先で撫でて、俺ははっとして止めた。
 会えばなんか、わかるかな。
 そう思っていても、『なにか』わかるのが怖くて、俺の足はコンビニに行くには遠回りの道を選んでいた。
 一瞬、向かわずに家に帰ってしまおうかとも思ったが、それはそれで後味が悪い。
 家には、兄も帰ってきてるしな。
 「くろんぼニートめ!」海で日に焼けて真っ黒になって帰った俺に、兄はそう吐き捨てた。
 嫌な呼び名だ。ニートなら本当のことだからまだ許せる。
 けど、くろんぼって、なんだよ。
 はあと、俺は深くため息を吐く。
 ......俺が着くまでに、あいつが帰ってたら、いいのに。
 そんなことを考えながら、俺は歩いた。
 遠回りに遠回りを重ね、俺がコンビニに着いたのは、11時をもう回った頃だった。
 壁に張り付き首だけ伸ばして、コンビニの様子を伺う。
 ......いた。
 コンビニ店員は、帰っていなかった。
 俺がいつも待つところに所在無さげに立ち、気落ちした表情をしている。
 一時間も待って、来ないんだ。
 お前、帰れよ。
 そう電波を送るが、ヤツはそこに立ったままだった。
 携帯で暇つぶしをすることもせず、ただ、俺を待っている。
 大型犬がしょんぼりとしているようで、胸が痛んだ。
 ......。
 俺はそっと壁から身体を離した。
 ゆっくりと、男に近づく。
 コンビニ店員は、俺に気付いたようだった。
 満面の笑みを浮かべるのかと思いきや、少しだけ眉根を寄せて、切なそうな顔をする。
 そんな顔、すんなよ。見たくない。
「ともあきさん」
 ヤツの声が、俺を呼んだ。
 思わず、足が止まる。
 距離はまだ遠い。でも、足が出ない。
 あいつも、俺に近づこうとしない。
 のに。
「こっちに来て」
 俺を招く。
 手が、俺に差し出される。
「一緒に、行こう?」
 なんだてめえ。用があるならお前から来いよ。
 俺は立ち止まったままだ。ヤツだって、動かない。
「来て......ね?」
 ......くそ。
 俺は舌打ちをして大股で男に近づくと、大きな手を握った。
 ぎゅっと強く握って、駅に向かって歩き出す。
「ありがとう」
 途端に、ヤツの機嫌は急上昇。
「ともあきさん、遅いんだもん。俺、もう来ないかと思った」
 じゃあ帰れ。馬鹿。
「でも、待ってて良かった。俺、ともあきさんなら、いくらでも待つよ」
 じゃあそのまま雨風に晒されて干からびてしまえ。
 ヤツは、俺と握った手をぶんぶん揺らす。
 なあ、お前の尻にはちきれんばかりに揺れる尻尾が見えるのは、俺の気のせいか?
「海、楽しかったなあ。また行こうよ」
 すらっと掛けられた言葉に、俺は体中の力が抜けた。
 なんだ、こいつはキスのことなんて気にしてないのか。
 ......俺ばっかり、変に気を回してただけなのか。
 なんだよかったと安堵して、俺はこっくり頷いてコンビニ店員に同意する。
「砂山」
「ああ、あれね。ほんと参ったよ。ぜんぜん動けねえし」
 そうか。次行くときは俺が埋めてやるからな。大丈夫、空気穴は開けておいてやる。
「今度は、ともあきさんを埋めてあげるね」
「やだ」
 即答すると、ヤツに笑われた。
「んじゃあ、マリンスポーツに挑戦してみるとか」
 ......運動能力の無いこの俺に、そんなもの勧めるな。
 ボディボードなんかどう?とか金があるならヨットかなとか、適当な話をしながら駅へと向かう。
 いつの間にか人気のない商店街を抜ける、駅に行くにはちょっぴり遠回りな道を通っていた。
「あ、そう言えば俺すごく焼けてさ、背中とかひりひりすんだよ。ともあきさん大丈夫だった?」
 顔を覗き込まれ、俺は軽く首を捻った。
 焼けるには焼けたが、あまり痛みはない。......真っ黒だけれども。
 散々兄に苛められたことを思い出して、俺は少しだけむっとしていた。
「どうしたの?」
 俺の表情が曇ったのを見て、男が尋ねる。
 ふるふると横に顔を振って、俺はコンビニ店員を見上げた。
「焼けた?」
「うん。すごく......って、ともあきさんなにしてんの」
 コンビニ店員の履いていたボトムの裾を掴み、横腹の辺りから中を覗く。
 街灯に照らされて、黒い肌と白い肌の境目が見えた。
 ほう。確かに黒くなったなお前も。
「満足?」
 ヤツは少しだけ困ったような表情で、俺の手を引き離す。
 その手を掴んで、俺はにっこり笑った。
 つられたように笑みを浮かべたコンビニ店員を見て、俺は自分のボトムに手をかける。
 俺だってすごく焼けたんだ。ほら、見てみろよこの差。
 緩めに履いていたボトムのウエストの部分を、ぺろりとめくって見せる。
 白と、黒のコントラスト。
「ともあきさん?!」
 ヤツが、驚いたような声を上げた。
「焼けた」
 こんなに焼けたの、俺初めて。海っていいもんだなあ。
 どうだ、と見上げたら、顔を真っ赤に染めたコンビニ店員がいた。
 口元を手で抑え、俺から視線を逸らしている。
 思わず、俺は固まってしまった。
 どうした?キモいぞお前。
「ともあきさん、はやく、戻して」
 顔を逸らしたまま、ヤツはそう告げた。
 言われて俺は考える。
 ......はしたなかったな。うん。
 子供のようなことをしてしまった、と反省した俺は、ボトムを履きなおしてヤツの手を握ろうと手を伸ばした。
 しかし、触れる直前でヤツが手を遠ざける。
 え。
 なんで。
「もうすぐ、駅だから」
 そう言ってコンビニ店員は歩き出す。
 いつもなら、もう少し先まで手を繋いで歩くのに。
 不満に思いながら、俺はヤツと並んで歩く。
 駅のまばゆい光にヤツはほっとしたようだった。
 コンビニ店員がいろいろと、我慢していることなんて、俺は少しも気づかなかった。


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