7月-2
梅雨明け宣言のあった水曜日。22時にはコンビニに着くようにと、家の玄関でスニーカーを履いていた俺は、背後からTシャツの襟首を捕まれて仰向けに倒れていた。
思いっきり引っ張られたため、一瞬締め付けられた首に、嘔吐感を感じて顔をしかめる。
こんなことをするのは、家には一人しかいない。
「最近、遊びすぎじゃないのか」
案の定、上から顔を覗いてきたのは、この家の暴君。
たまに早く帰ってくることがあると思えばこれだ。
いつの頃からか、俺が出かけようとするたびに、兄はその場にいれば邪魔をするようになった。
考えてみれば「女か!女が出来たんだな?!」とプロレス技をかけて来た朝からだ。
朝っぱらから妄想も甚だしいと、最初は無視していたものの、こうも煩いと鬱陶し過ぎる。
「半人前のくせして」
じっと見つめ返してやると、兄は俺の鼻を摘んで引っ張る。
さすがに、その行為には気分を害して手を払った。
なんだよ。いいじゃねえか。昼間は基本家にいるんだし。
「土曜日も日曜日も平日も、トモくんはなにしてあそんでるんでちゅか~?」
懲りずに、兄はぐいぐいと俺の耳や鼻を引っ張ってくる。
「やめろ」
しつこい行為に、低い声が出た。
俺の反応に、兄は片眉を上げる。
「ほんと毎日毎日、どこに行ってんだよニート」
どこだっていいじゃねえか。それに毎日なんて出かけてない。
兄にそう告げようと口を開いて、俺は動きを止めた。
先週の土曜は、コンビニ店員が誘うから河川敷へ行って釣りをした。
道具はヤツが持っているからと言って、二人で一本の釣竿を眺めた。
日曜日は少し離れた山にハイキング。弁当は俺が作った。俺と、ヤツの分。
代わりに山に行くまでの交通費を出してもらった。対価交換だと言われた。
普段動かないせいか、翌日は筋肉痛が酷かった。
月曜日は、ヤツがスーツを買うというので大学が終わった頃に待ち合わせして、付いていった。
見立ててほしいと言われたが、何が良いのかわからなくて、結局アドバイスなんか出来なかった。
昨日は、いつも通りバイトが終わるのを待って公園で話をした。
たわいのない、連続ドラマの話や、クイズ番組のことだったと思う。
「......」
土曜日より前のことは......と思い出してみて、俺は愕然とした。
『今度ここ行こう』『あ、木曜日は暇?』そんな声をかけられた俺は、誘われるままにコンビニ店員と遊びに行っていたのだ。
俺が前に言ったとおり、金のかからない遊びばかり。
心なしか、俺も日に焼けて健康的になった気がする。
ここ十日ほど、俺はヤツと会わない日はなかった。
「おい?」
急に思案しだした俺に、兄は訝しげな表情を浮かべる。
遊びすぎだ。
俺は、今までにない体験ばかりで楽しかったけど、あの野郎は大学生。
俺なんかより、もっと大切にしなければいけない人付き合いがあるはずだ。
一緒にいるとき、ヤツは携帯を気にするそぶりも見せなかった。電源を切っていたのかもしれない。
コンビニ店員を友達だと言って、詫びだと髪を切った奴等のことを思い出す。
俺なんかはもう顔もおぼろげだが、あそこまで真剣に向き合える友達なんて、本当に一握りの人しか作れないんじゃないか。
それを、もしかしたら俺といるせいで失ってしまうかもしれない。
友達は価値の決めることのできない財産だと、俺は思う。
「おーい」
はっと気付くと、俺の目の前でひらひらと兄が手を振っていた。
こうしてはいれない。
俺はがばっと起き上がった。
「ぐぁっ」
ガツンと俺の額と兄の顎が当たったが、気にしない。俺もちょっと痛かったが気にしない。
油断していた兄が玄関で転げまわっているのを無視して、俺は家を飛び出した。
走って走って、コンビニについてから、自転車で来ればよかったと気付く。
ヤツと歩くために、チャリはしばらく乗ってなかった。
「あ、珍しいねともあきさんの遅刻」
既にバイトを終えた学生が、そこに立っていた。
にこにこと笑顔。
改めてみると、見目の良い男だと思う。
俺より高い身長。骨格もしっかりして、薄いシャツからでも筋肉がちゃんと付いているのがよくわかる。
顔も整っているし、なにより明るく愛想がいい。
俺なんかと付き合える根気強さもある。
「走ってきてくれたんだ、ありがとう」
行こう、と手を差し出される。
遅刻したのは俺だし、礼を言われる筋合いはない。
「......」
手にかいた汗をボトムで拭って、俺はヤツを見た。
手を伸ばして、ヤツの手を握る。
相変わらず、熱い手。
歩き出そうとした大学生は、動かない俺に気付いて足を止めた。
「どうしたの?」
「お前と、遊ばない」
言ってから、急に兄とぶつかった額が、痛み出した気がする。
男は驚いた顔をして、それから困った表情を浮かべた。
「えっと...俺、なんかした?」
言葉の意味を探るように、ヤツは問いかける。
俺は首を横に振った。
「ハイキングん時、山道でこけたの、そんなに嫌だった?」
違う。そりゃ他の人の前で転んで笑われたのは恥ずかしかったが、お前が心配してくれたから別に嫌じゃなかった。
「それとも魚が一匹も釣れなかったの、やっぱつまんなかった?」
二人で寝転がりながら空見上げて話をしながらの釣りじゃ、釣れるわけないだろう。馬鹿め、俺だって本気になれば魚の一匹や二匹釣れる。はずだ。
「じゃあ、なんで?」
ヤツの言葉にいちいち首を振っていたら、ちょっとだけくらっと来た。
「会わない。ここにも、来ない......しばらくは」
『会わない』と言った瞬間に、とても悲しそうな顔になったので、つい暫くと付けてしまった。
......俺も優柔不断だな。
「じゃ」
「待てよ!全然意味わかんねぇ......!」
手を離してくるっと背を向けた俺に、大学生が怒鳴る。
それを無視しようとすると、強い力で腕を捕まれた。
思わずびくついてしまう。
怯えたまま見上げると、余裕のない顔があった。
顔色が悪い。......俺のせいだな。
俺より、こいつの方が怯えてる。
そう思うと、ヤツに瞬間的に感じた恐怖は、どこかに去ってしまった。
捕まれていない方の手で、つんつん頭を撫でてやる。
「ともあ...」
「また、来週」
そう言って微笑んでやると、俺の腕を掴む手が緩んだ。
週一で、会うぐらいが丁度いい。
ヤツから離れて、俺は安堵しながら来た道を戻り始めた。
振り返りもしなかった。
どうせ、俺の行動に怒って帰るだろうと、そう思っていたから。