3月-10
「別れろ」
「嫌だ」
ゴツ。
震える和臣の声。......泣いているのかもしれない。
「......愛してるから、別れねえよちくしょう!やめろよ......!ともあきさんやるぐらいなら俺を殴れよッ!」
その一言が、嬉しかった。
俺の気持ちをわかって、和臣は言ってくれてる。
実際に痛みを与えられている俺よりも、きっと見ているだけの和臣の方が辛いに違いない。
俺は、大丈夫だから。
昭宏は苛立ちを表して、盛大に舌打ちをする。
「......馬鹿が、今コイツがこんな目にあってんのは、お前のせいだぞ。.........別れるって言えば、やらねえのに......っ」
最後の言葉だけ、そっと囁くようだった。
和臣には届かない声。
そばにいる俺には聞こえた。
昭宏は盛大にため息を付くと、「智昭」と俺を呼んだ。
「お前はどう思う。お前和臣のせいで、こんな目に」
「和臣のせいじゃ、ない。......昭宏、俺別れないから」
窓に押し付けられたまま、くぐもった声で告げる。
すると髪から手を離されて、肩を掴んで仰向きにされた。
鋭い眼光の兄の眼差し。
ぐっと、奥歯を噛み締めているかのような表情。
目が合った途端、そのまま拳で殴られる。
後ろに車があるから逃げられない。......俺は、もう逃げない。
衝撃に閉じてしまった目をうっすらと開けると、昭宏の眉間には深く皺が刻まれていた。
不機嫌そうで、辛そうで、......悲しそうだ。
そのまま昭宏は口を開いた。
「少しは、気持ちは変わったか?」
「全然」
問いかけに、俺は小さく笑って答える。
するとまた殴られた。
唇を、歯と拳で擦って切ったのか、口の中に血の味が広がる。
もう俺の顔、見るに見れない顔になってるだろうな。
「和臣!」
俺を殴りながら荒れた声で、昭宏は和臣を呼んだ。
「別れない。......ずっと、俺はともあきさんの側にいる!!」
きっと、決意を込めた目をしてる。
それが見たいと思って、俺はあまり目が開かないことに気付いた。
瞼が腫れて重い。
くっそ、残念だ。
「......智昭ッ」
「おれも、あいしてるから。かずおみのこと」
舌がもつれた。
口の中もどこか切れたのか、上手く喋れない。
それでもきっぱりと言い切ると、深く重い一発が、俺の腹に入った。
いっ......。
意識が飛びそうになる。
痛い。でも、まだ、寝るな俺......!
反射的に身体を屈めようとして、けれど、俺に覆いかぶさってきた昭宏のせいで、そのままの状態で留まる。
ふわっと、兄が使っているフレグランスが香った。
「馬鹿じゃないかお前......いてえの嫌いなくせに」
力なく呟いた昭宏は、俺の背に腕を回す。
ぼんやりした視界の中、強く拳を握ったまま俺たちを見ている和臣が見えた。
「わかってんのか、世間はもっと酷いぞ。お前の心なんか、簡単にえぐるぞ」
低くぼそぼそと囁かれる。
「うん」
俺も、寄りかかる兄の背に手を回して頷く。
すると、ぎゅっと痛いぐらいに抱き締められた。
「母さんも、父さんも悲しむぞ。孫の顔、見せてやれねえんだから」
「......うん」
「家族みんなお前のせいで、後ろ指指されるんだぞ」
「うん。......ごめん」
謝ると、昭宏に軽くはたかれた。
「馬鹿が、もう決めてるんなら謝るんじゃねえ。男なら突き通せよ」
かすかに笑って昭宏が俺から離れた。
「あきひろ?」
俺に背を向けた兄が、まっすぐ和臣に近づいていく。
2人は、睨み合うように少し距離を置いて相対した。
ああちくしょう!殴られすぎて目が良く見えねえ。
和臣の手は、今にも殴りかからんばかりに握られたままだ。
一方の兄も、まるで見下すかの様な冷たい眼差しをしている。
「あきひろ、......かずおみ!」
2人の名前を呼んだが、反応してくれない。
車に寄りかかったままだった俺は、そのままずるずると地面に座り込んだ。
どうしようも出来ないまま、2人を見つめる。
昭宏が先に口を開いた。
「アイツは馬鹿で引きこもりで、協調性がなくてものぐさで、ろくでもない人間だ」
俺のこと、そう思ってんのか。......そりゃ本当のことだけど。
実の兄にそうきっぱり告げられて、俺は思わず視線を床に落とす。
やっぱり、駄目か。
じわっと目に水分が溢れる。
涙が傷に沁みて痛んだ。
「ともあきさんは、とても素晴らしい人だ。優しいだけじゃなくて、人の痛みもわかるし、度胸だってある。傍にいるだけで、癒してくれるんだ。いくらあんたでも、あの人を貶すのは許さない」
はっきりと言い切った和臣。
驚いて視線を上げる。
兄を睨みつけた和臣の手が、赤くなっていた。
拳を握った手の平から、血が出ている。
和臣。和臣。......かずおみ。
名前を呼びたくて、でも声が出なくて、じっと大事な恋人を見つめる。
兄は和臣を見返して、深く息を吸い込んだ。
「......んなことは、俺が一番良く知ってる。誰よりも傍にいたんだ。............大事な弟なんだよ。不幸にしたくねえ......!」
昭宏の顔が、苦しげに歪んだ。
切実な感情が滲む声。
「責任取れるのか。アイツを悲しませないように出来るのか、お前は」
兄の重い言葉に、和臣ははっと笑ってみせた。
「出来る。って言い切りてえけど、そんなんわかるかよ。だけど俺は、幸せにするって誓ったんだ。どんなことがあっても必ず傍にいて、最後には幸せだったって笑わせてやる!」
強い強い、覚悟を持った言葉だった。
思わず、俺は呼吸を忘れてしまうほど。
「そうか」
昭宏の静かな声を聞いて、はっと息を吐く。
「それなら.........散々邪魔をした俺が言えたことじゃないが」
「あき」
昭宏、と呼びかける暇もなかった。
「智昭を頼む」
兄はその場に膝を付いて、和臣に対して深く頭を下げた。
これには和臣もどう反応していいかわからない、というように立ち尽くしている。
あの兄が。
人に土下座。
ずりずりと這うようにして、2人に近づく。
覗いた兄の横顔は、じっと地面を見つめていた。
それを見た俺は、戸惑ったまま次に恋人を見上げる。
目が合うと、和臣は優しく微笑んでくれた。
「顔上げろよ。......あんたがそんな態度とってると、ともあきさんが動揺する」
「......」
視線を上げた兄は、ぼろぼろな状態で隣に座る俺を見る。
「頼まれなくったって、俺はともあきさんを大事にする」
「......その言葉、忘れんなよ」
低く低く、地を這うような声で脅した昭宏は、砂を払って立ち上がった。
「病院行くぞ」
普通に子供の頃のように、ふわりと身体が持ち上げられた。
......兄、俺もう成人してるんだけど。
「てめ」
苛ついたように和臣が舌うちをする。
「目の上押さえろ。......血が止まってねえ」
和臣を無視した昭宏は、俺にハンカチを手渡した。
そこで初めて、結構血が出ていることに気付く。
血を改めて認識して、つい貧血を起こしかけた。
「俺も一緒に......」
そう申し出てくれた和臣を、昭宏が制する。
「付いてくるんじゃねえよ。てめえがいると厄介だ。......これは兄弟喧嘩で済ませる。いいな智昭」
「ん」
確かに、同性の恋人との付き合いの許しを得るために殴られた、とか、説明しにくいし。
「......」
和臣は複雑そうな顔をしていたが、何も言わなかった。
車のドアを開けられ、後部座席に下ろされる。
兄は運転席に乗り込んだ。
「ともあきさん」
ドアは閉められたが、窓を開けると和臣が手を差し入れてきた。
腫れた頬を恐々と撫でられ、俺は軽く頬を擦り寄せる。
痛みは走ったが、それよりも触れ合える喜びがあった。
「てのひら、」
「ああ、大丈夫。言いつけ守るのに、ちょっとだけ強く握っただけだから」
爪の跡が残る手の平。血は止まっているようだけど痛々しい。
それを告げると、「ともあきさんのほうが酷いよ」と苦笑された。
「じゃあ、また」
「うん。ちゃんとてあてしろよ」
「喋んなくていいよともあきさん」
俺には、わかるから。
微笑まれて、俺も微笑み返す。......たぶん笑ってるようには見えないと思うけど。
俺が和臣と話している間、兄は黙って待っていてくれた。
和臣が離れると、窓が閉められる。
ゆっくりと車が走り出した。
見えなくなるまでその姿を見つめる。
曲がり角を曲がったところで、俺はほっと息を付いた。
外はかなり明るくなってきている。
......かなりの近所迷惑だったろうな。
俺はそうぼんやり思いながら、車の振動に揺られていた。