5月-2
「ちょっと、待って!」
掛けられた声は当然無視。
公園の裏手は、美術館の中庭に繋がっている。
そこから中に入って入り口から出れば、男を撒けるだろう。
......誰かと、俺を勘違い、か......?
息を切らしながら中庭に入って、ふとそう思った。
そうだ。俺には友達なんていないから、誰かと勘違いをしたのだ。
それなら逃げるなんて、無様なことをしなければよかった。
ふっと肩の力が抜け、上がった呼吸を整えながら、背後を振り返る。
「......」
ぎゃあ。
全速力というその言葉が相応しいぐらいの勢いで、男が追ってきていた。
足を縺れさせながら、俺も慌てて走り出す。
室内に逃げるはずだった俺の脚は、入り損ねて中庭を素通りして、また公園へ逆戻りしてしまった。
と、止まって人違いって言おう。そうすれば大丈夫、なはず......。
頭ではシュミレーションが出来ているが、身体は言うことを聞かない。
猛ダッシュだ。
犬か貴様。逃げてんのに付いてくるんじゃねえよ。
俺は心の中で悪態を付いた。
「逃げないで、話を聞けよ!......待てって!」
背後から聞こえるイラついたような声。
それは、俺の脚を早くすることはあっても、止める効果はまったく無い。
ああでも。
ニートの体力を舐めるんじゃねえ。
小学生にでさえ、体力勝負で勝つなんて、夢のまた夢なんだから。
「わっ」
運動不足の重い手足に加え、酸欠状態でくらくらとし始めた俺は、公園に所々生えている木の根に足を取られ、無様に頭から地面にダイブしていた。
いったぁ......。
転んだ衝撃が落ち着いた一瞬後、痛みを知覚して、じわっと涙が浮かびそうになる。
鼻の頭が、ひりひりする。
でも、こけて泣くなんて、ガキ同然じゃないかとぐっと堪えた。
痛みをやり過ごそうと身体を丸めると、俺の上に影が出来た。
「頭からいったけど、大丈夫?」
心配そうに覗き込むのは、俺を追いかけた男。
覆いかぶさるように。否、俺が逃げないように近い。
俺はぎゅっと身を縮め、男を見返した。
「ひ、ひ......」
「ひきつけ?誰か呼ぼうか」
違うってのばか。
慌てて周囲を見回す男に、俺はぐっと奥歯を噛む。
ちゃんと言えば、大丈夫。
「人違い、です......」
掠れた小さな声しか出なかったが、ちゃんと言えた。
俺は、てめえなんか知らないぞ。
「は?」
わずかにしかめられた眉間に、俺はびくびくしてしまう。
自分でも、この怯え方は異常だとわかっているが、止まらない。
身動きとれず、見上げるしかない俺を見下ろしていた男は、不意に笑った。
「人違いじゃないよ。君でいいんだ」
なにがいいんだ。詳しく述べろ。俺にわかるように短くな。
親しげに笑みを浮かべる男に、俺は警戒心を解くことはない。
まるで毛を立てて威嚇するような俺の態度に、男は苦笑を浮かべた。
「参ったな。俺怯えさせた?」
ええ。俺、完全にビビッてます。
だから早くどっか行ってください。......起き上がれない。
地面に這ったまま男が動くのを待つ。
避けてくれるのかと思いきや、男は手を俺に向かって差し出した。
「何もしないよ?ほら......」
ちょいちょいと招くように指を動かす。
その指先と、男の顔を交互に見る。
俺の緊張を解すように、男は優しそうな笑顔を浮かべていた。
「君が逃げるから、つい追いかけちゃったんだ。俺は、怖くないよ」
柔らかな声で、男は俺に話しかけてきた。
その声のおかげか不思議と落ち着いてきたが、どう反応を返していいかわからない。
戸惑いを表したまま、見つめるのみだ。
男は、俺が手を伸ばすまで、向こうから触ろうとはしなかった。
けして短くない時間が経った後。
こう着状態をどうにかしたい、とようやく俺は動き出した。
おそるおそる、その手に自分の手を乗せる。
これで、いいか?
男の反応を待った。
「落ち着いた?話、聞いてくれるかな」
男は目を細めて優しげに微笑む。
まるで褒められたような感じ。
暖かい手でやんわりと握られて、こくんと頷いていた。
......話も聞かずに逃げるなんて、考えてみれば非常識だ。
「鼻の頭、赤いよ」
右手は握られたまま、左手で鼻を触られる。
血は出てないね、と言いながら、男の手は俺の頬を辿り、顎下や首をさらりと撫でた。
「立てる?」
男がぐっと手を引っ張った。
その手に引かれてよろりと俺は立ち上がる。
男は甲斐甲斐しく、服についた草を払ってくれた。
意外に紳士じゃねえかこのやろう。
「ちょっと、そこのベンチに座ろうか」
促されるままに男と歩いて、空いていたベンチに腰を下ろす。
その間、手は握られたままだった。
えと、そろそろ離してくれても......。
男の手を振り払おうと、くっと軽く手を引いてみる。
が、しっかり握られた手は離れない。
くいくいと俺が何度も手を引いていると、男が口を開いた。
「俺のこと、覚えてない?」
問われてまじまじと男を見る。
こげ茶の短髪が、きらきらと太陽の光に光る。
すっとした彫りの深い鼻筋。きりっとした眉に形の良い二重の瞳。
いーえ。こんな美形、まったく心当たりありません。
しばらく見て考えたが、最後にその結論に達した俺は、ふるふると首を横に振った。
「マジで?俺、そんなに印象薄いと思ってなかったんだけど......」
俺の反応にがっくりとショックを受けて、項垂れている男。
知らんもんは知らんがな。
それより手が気になる。
どうにかして手を引き抜こうと動かしていると、がばっと顔を上げた男が俺を見つめた。
ち、近いぞこら。
「......」
驚いて、俺はわずかに身を引いた。
見詰め合っていると、男は血色の良い薄い唇を動かした。
「お弁当は温めますか?お箸は何膳お付けしましょう。アイスとは別の袋にお入れしますね」
......あああ?!
羅列された言葉に、俺は男の正体を知った。
4月に起こったことが鮮明に蘇ってくる。
二度と近づかないと心に決めた、あのコンビニの店員が、俺の目の前に、いた。
ダサい制服とサンバイザーがないせいで、誰だかわからなかった。
......私服だとよりいい男なんじゃないか。死ね。
「わかった?」
俺の表情から、ようやく思い当たったことを知った男は、満足したように頷く。
あのあと、つり銭を受け取らずに帰った俺は、兄に怒られた。
昔っからのプロレス好きな兄に、関節技を決めらて散々いじめられたのだ。
しばらく首筋に違和感が残った。
お前が変なことするから、するから俺は......!
プチ対人恐怖症を埋め込んでくれた当の本人を目の前に、俺はつい恨めしそうに睨んでしまう。
「これ、ずっと渡したくて。コンビニにも来なかったから気になってたんだ」
俺の思いとは裏腹に、機嫌の良さそうな男は、すっとポケットに手を突っ込むと、じゃらり小銭を差し出してきた。