11月リクエスト-4
それから一週間は、平穏だった。
翌日からガキは来なくなったからだ。
無料展示スペースには、時折人が訪れるものの、特設展示で有名な画家の絵画の展示が始まったため、ほとんどの人がそちらに流れるようになった。
俺は静かに絵を眺める。
今日見ていたのは、子供の絵だった。
子供といっても立ち座りが出来るようになった1歳程の赤子だ。
その幼児は布を引っ張りながら床に座り、視線を端に描かれたおもちゃのアヒルに向けている。
最近気付いたが、この幼児の引っ張っている布が、別に飾ってある微笑を浮かべた女性の絵の、スカートの布に良く似ている。
並んで展示されていないから気付かなかった。
きっと、この絵画の子供は、あの女性の子なんだろう。
そんな風に思えるような温かみのある絵画だった。
......こんな絵を描く人が、殺人者とか、ないと思うんだけど。
不意にガキの言葉が脳裏を過ぎって、俺は軽く息を吐く。
絵を描いた人に恨みがあって、あんなことを口にしているとは思えなかった。
泣いてたしな。
視線を時計に向ければ、もう12時を過ぎている。
ガキは来ない。
余分に作ったおにぎりは、今日もまた食べずに持ち帰ることになるのかと思うと、急に持っていたショルダーバックが重く感じられた。
それとなく、兄に美術館の絵画のことを聞いてみた。
「ああ?しらねえよ」なんてあっさりあしらわれたが、翌日になって誰もいないテーブルの上に、新聞の切抜きが置いてあった。
それは交通事故の切抜きだった。
全部に視線を通した後、なぜかいても立ってもいられず、いつものおにぎりを持って俺は美術館に走った。
美術館は10時に開館だ。今の時間着いても、開いていない。
でも、早くあの絵を見たいと思った。
そして願わくば、もう一度ガキが来てくれていればいいと思った。
「......」
運動不足の俺が諦めかけながら走りついても、やっぱり美術館は開いてなかった。
開くまで玄関前で待っていられず、うろうろと徘徊する俺。
たぶん、いや絶対不審者だ。
そう思ったが、落ち着いてられずにそわそわと公園に入り、中庭の方を覗く。
中庭には、ガラス戸があってそこから出入りが出来る。
そのガラス戸から中を見ていると、人影がちらついたのが見えた。
誰かいる!
俺は喜んで中を覗いた。
中から見たら、俺は壁に張り付くヤモリのようだったに違いない。
......あ?
暗がりで見えたのは、きらりと輝く金髪。
その光が、無料展示スペースの方に消えた。
あれ?なんでガキは入れてるんだ?
不思議に思って首を傾げていると、ガキを追いかけるように、男性が走っていく。
あの髭面見たことあるぞ。......誰だっけ?
「......あ」
館長だ。この美術館の。
夏休みの毎日の通いで、受付のおばちゃんたちとはずいぶんと仲が良くなったが、館長は普段見たことないからすっかり忘れていた。
しばらくするとガシャーンと音が聞こえてきた。
え?なんだ?
どうしよう。気になる。
悩んだ結果、そっと裏口に回った。
従業員用の通用口があり、そこのドアに手をかけた。
開いたら入る。......開かなかったら、帰る。もう、関わらない。
普段の俺だったらここまで悩んだりもしないはずだ。
勢い込んでノブを回して押す。
が、開かない。
ああ、やっぱり戸締りきちんとしてんだろうなあ。
未練がましく、引いたときだった。
「......」
ドアが開いた。
ので、勢い込んでそのまま転げそうになる。
ドアノブにすがり付いて大丈夫だったが。
ひょこっと中を覗いて、人がいないことを確認してからそろりと入り込む。
最初は恐る恐る歩いていたが、だんだんと走り出してホールに進む。
開館一時間前だ。従業員も、まだ来てないのだろう。
走って進んでいくと、見慣れた場所に出た。
ホールの中にうるさく足音が響く。
「やめなさい!」
「うるせえ!はなせーッ!」
無料展示のスペースを覗くと、おっさん館長がガキに馬乗りになっていた。
そしてその傍には、一枚の絵画が床に落ちている。
はっとして壁に視線を走らせると、かかっていた絵の一つが外れていた。
ないのは、アヒルに目を奪われていた子供の絵だ。
「どけよ!このばか!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐガキは、なにやらきらりと光るものを持っている。
それから床に視線を向けると、落ちていたのは外された絵画だった。
「あーっ!」
俺はその絵画を見て、大声を上げた。
そこにあるのは、無残にも刻まれた絵画。
カッターで刻まれたのだろうキャンパス地の絵画には、無数の線が走っていた。
絵画の酷い状態に、俺は口をへの字に曲げる。
「君、どこから......」
おっさん館長が、俺を見てそう呟く。
その隙にガキがおっさんを突き飛ばした。
「一之瀬くん!」
ガキが目指すのは、もう一枚ある人物画。
女性が微笑む絵画だ。
振りかざすカッターがきらりと光る。
おっさんは間に合わない。
振り下ろすカッターは、絵画を狙っていた。
カッターは刺さる寸前で、動きを止める。
「あん、た......」
ガキの目が見開かれる。
手がぬめる。熱い。
「絵は、関係ないだろう。どんなことがあったとしても」
「はな......っ」
「......っい」
ガキが手を動かしたせいで、俺の手の中のカッターの刃が動く。
より走った痛みに、俺は顔をしかめた。
「あんたに、関係ないだろう!」
俺が握ったままのせいで、ガキはカッターを動かすかどうかを悩んだようだった。
悲鳴のような声を上げて俺を睨んでくる。
「絵を描いた人のことは関係ないけど、絵は関係ある。俺の癒しの場を、勝手に壊すな」
「はあ?!」
「......やめろよ。良い絵、じゃないか」
じっと間近で見下ろすと、ガキの手から力が抜けた。
俺も手を開くと、血の付いたカッターが床に落ちる。
途端に、手からだらだらと血があふれ出した。
ぎゃ!
深かったのか、だらだらと血が流れる。
「きみ、大丈夫か?救急車を呼ぶから、動かさないように」
おっさんが駆け寄ってきて、布で手を包んでくれた。
手の平は怖くて見れない。
「ほら、こっち!」
しばらくすると、連絡を終えたのか館長のおっさんが俺を呼んだ。
ぐいっと引っ張られて、俺は足を踏み出す。
ガキはそこに留まったままだった。
「お、俺......おれ......」
酷いぐらい顔を青ざめて、がくがく震えている。
それを見た俺は、足を止めた。
「ちょっと君?」
動きを止めた俺に、館長は訝しげな声を出す。
おっさん、ちょっと待ってな。
持っていたショルダーバックを下ろして、無事な手を突っ込む。
ごそごそ探すと、目的のもんがあった。
「ん」
ずいっと手にした物を差し出す。
今朝作ったばかりだから、まだ仄かにあったかい。
「食え」
残すんじゃねえよ。
「それどころじゃないだろう!」
ぐいっとおっさんに引っ張られた。
あ。
俺の手からおにぎりが離れて、床に落ちる。
おっさんにずるずると引っ張られて、俺は美術館を出た。
引っ張られている間ずっとガキを見ていたが、おにぎりを拾ってくれたのを見届けられたのは良かった。
さて、次はおっさんと口裏を合わせよう。
少しずつ赤く染まっていく布を見て、俺は考えた。