11月リクエスト-5
「転んだ拍子に地面にあったガラスに手の平をついて、ぱっくり切っただと......?」
ごごごごご、と重い雰囲気を纏った兄が、ぎろりと俺を睨んでくる。
痛い。視線が痛い。
すっと視線を逸らして、俺は聞こえない振りをする。
「相変わらずとろいな!あ?この目は節穴か!」
ぐりぐりと目の下辺りを付いてくる兄に、片手だけで抵抗するには俺に分が悪い。
しばらく、俺はこのことで兄に苛められるんだろう。
でもしかたない。連絡したら駆けつけてくれて、怒ってくれた。
金も払ってくれたし、今だって散々詰りながらも、傷ついた左手には触れないようにしてくれる。
手の傷は出血の割りに、それほど深くはなかった。
これなら後遺症もなく、殆ど傷跡も殆ど残らないだろうと医者も言った。
呼ばれた兄が、それを聞いて安堵した顔をしてくれたようだったが、それから執拗にねちねちとうるさい。
家に帰ってきてからはそればかりだ。
でも、俺の付いた些細な嘘が通用していることにほっとする。
あのガキが何歳だかしらねえが、こんなことで警察の世話になったら困るだろう。
別に意図して俺の手を切ったわけじゃあるまいし。
口裏をあわせてくれたあのおっさんにも感謝だ。
ガキは、俺には会わないようにして、同じように美術館に通っていたらしい。
ずっと絵を切り刻むことを考えていたようだ、ということだ。
が、開館中は人がいるために実行できず、閉館後も中には入れない。
そして、絵を寄贈された伝で、顔見知りだった館長のおっさんが朝建物に入るのを見計らって、侵入を果たしたとのことだった。
なんてタイミングのいい俺。......いいのか俺?
道理でうざいぐらいに絡まれたわけだ、と俺は呆れた。
「申し訳なかった」とおっさんに頭を下げられて、俺は逆に恐縮してしまった。
なんせ、俺も不法侵入を果たしている。けど、それはうやむやになってくれたからよかった。
......おにぎりは食べたろうか。
「母さん帰ってきたらこってり絞られろ」
ぐしゃぐしゃと俺の頭を撫でると、兄が捨て台詞を置いてキッチンへ向かった。
ソファに座った俺は、ぼんやりと手を見る。
明日、会えるかな。
おにぎりの具は何にしよう。
今の手では握れるわけがないことを忘れて、俺は考えていた。
だが。
翌日も翌々日も、それから先も、兄が家にいるようになったおかげで予定が崩れた。
結局、その夏は学校が始まる日を迎えても美術館にはいけなかった。
『警察の調べでは、○◇市■×の画家、一之瀬浩平さん(37)歳の運転する乗用車が、前を走っていたトラックからの落下物を避けようとしたところ、反対車線を走っていた△×市の○○町の会社員、萩野達彦さん(29)とその妻(25)と長女の羽衣子ちゃん(4)の乗る軽乗用車と正面衝突した。この事故で長女の羽衣子ちゃん(4)が脳挫傷で亡くなった他......』
兄がくれた新聞の切り抜きは捨てることにした。
ぐしゃっと握りつぶして、ガスコンロで燃やす。
知ってても絵画は見に行くだろうし、ガキに言った通り、俺には関係ないことだ。
......願わくば、ガキの気持ちが少しでも晴れるようにと思うだけ。
燃える記事を眺めながら、亡くなった子供の冥福と、残された家族のことを考えて少しだけ泣いてしまった。