10月-3


 鼻が痛い。
 思いっきりぶつかったせいだ。
 ぬるっとした感触があるから、きっとまた鼻血が出てる。
 ......俺の鼻の粘膜弱くねえ?
 どうやったら鍛えられるんだこれって。
「ともあきさん」
 現実逃避している俺に、声が掛けられた。
 びくっと反応してしまうが、起き上がれない。階段の踊り場で、ぺったりしゃがみ込んだままだ。
「触ってもいい?」
 その声は間近で聞こえた。
 泣きそうな気分になりながら、そっと俺はヤツを足、胴体の順に徐々に上がって見ていく。
「......鼻血出てるよ」
 ぷっと吹き出された。
 しゃがみ込んで、ポケットからティッシュを取り出して拭いてくれる。
 ああよかった。また舐められたら、俺もう絶対立てない。
 ぐしぐし拭いてもらいながら、俺はほっとしてヤツを見た。
 ......そして、見たことを後悔した。
 ヤツは、ぺろりと自分の唇を舐めて俺を見ていた。
 ぞくぞくするような、熱を孕んだ眼差しを向けられる。
 間違いなく、この男に火をつけたのは俺だ。
「俺んち、行こうっか。立てる?」
 手を差し伸べられて、俺はその手を掴む。
 が、立ち上がれずにすがり付いてしまった。
 腰が抜けていた。
 マジ俺、なさけねえ......。
「ぅわ!」
 俯いた俺を見て、ヤツは俺を軽々と抱き上げた。
 俺の背中と膝の下に手を通して抱く抱き方、姫抱っこというやつで......。
 ぼんっと俺の顔が赤くなる。
「な......おろし、て!」
「うん?でも立てないんでしょともあきさん」
「でも、嫌だ!」
 じたばたと暴れる俺に、コンビニ店員はふわっと笑う。
「名前呼んでくれたら、下ろしてもいいよ」
「!」
 名前って......コイツの......?
 小野和臣。コイツは俺の名前は呼んでも、俺は呼んだことがない。
 タイミングを逃したら、なんと呼んでいいかわからなくなった。
 俺も気にしてたけど、コイツはもっと気にしていたに違いない。
 俺は何も言うことが出来ず、じっと見つめた。
「呼んでくれないなら、このままね」
 目を細めてヤツが少し笑う。
「ちょ......」
 俺を抱いたまま、ヤツは一度屋上に戻った。
 さっきのいたところに、俺を膝の上に乗せたまま座り込む。
 な、なんだ?
「ともあきさん、全然食べてないから。俺んち行ったら、何も食べれないと思うし」
「あ......ッ」
 背中を撫でられて、俺はヤツの首に腕を回して抱きついた。
 ひいいいい。俺キモい。なんだこれ。
 俺の動揺をよそに、男は嬉しそうに笑っている。
「......そんな風になってんの、俺のせいだよね。前は、このぐらいじゃ全然反応しなかったし。ずいぶん、敏感になったね」
 男は凄い上機嫌だ。鼻歌すら歌いかねない気がする。
「お、ろせって、ば」
 膝上に俺を乗せたまま、さっき俺がしたようにサンドイッチを俺の口元に差し出す。
「名前」
 うぐ。
 悪戯っ子のように俺を見つめた。
 俺は無言で、口を開く。
 むぐむぐむぐ......。
 じいっと見つめながら餌付けされる。
 俺は口いっぱいにサンドイッチを頬張った。
 これなら、俺は喋れない。
「そんな難しいことじゃねえのに」
 少し呆れたように呟いて、ヤツも弁当を摘む。
 別に、呼ぶのが嫌なわけじゃない。
 ......若干気恥ずかしいだけで。
 それから俺はヤツの膝に乗ったまま、二人で黙々と飯を平らげた。
「立てるようになった?」
「!」
 いやらしくケツをなでてくるものだから、俺は飛び上がって離れる。
 さっきまで動けなかったのに、今では歩けるようになっていた。
 よし。逃げ......。
「どこ行くの?」
 背を向けた俺に、ぎゅうっと抱きついてくる男。
 俺の首筋に顔をうずめてくる。
 吐息が首にかかって、ぞくぞくと来た。
「よかった」
 は?
 黙って男の様子を伺う。
「ともあきさん、俺に少しは性的欲求感じてくれたんでしょ?俺ばっかり、夢中になってて、ともあきさんはそういうの、嫌いなんだと思ってた」
 ぼそぼそと呟くような小さな声。
「俺のことは嫌いじゃないのはわかってる。けど性的なことって、ともあきさん嫌がるから」
 そっと頭を撫でてやる。
 俺より大きいくせに、こういうときはやけに小さく見える。
「ずっと、無理させてんのかと思ってた」
 少し声が震えているような気がした。
 よもや俺が拒んでいるのを、そこまで考えているとは思ってもみなかった。
「お前の、誕生日の日、その、手で......したぞ?」
 そうだ。あの時は頑張った俺。
 服脱ぐのは嫌だったから、局部だけ出したけど......た、互いに、触ったし。
「男だもん。触ればそりゃ勃つよね」
 ......そういうもんなんだろうか。
 他人に触られたことが、こいつ以外にないかわわからない。
「でもさっきは、普通にいちゃついてただけだったよね」
「......」
「俺、変なことしてなかったもん。......ねえ、ともあきさん」
 ふっと、男が顔を上げた。
 頬に息が掛かる。
「連れてっていい?俺、うんと優しくするから。......抱いていい?」
 ぐいっと肩を捕まれ、振り向かされる。
 熱い欲情も混ざっているが、真摯な眼差しだった。
「大好き。愛してる。もっと深く、ともあきさんに触りたい」
 そっと頬を撫でられ、キスを落とされた。
 額と、鼻先と、唇と。
 くすぐったくて、俺は軽く笑った。
「お前は」
「うん?」
「あまり、喋らない方がいいな。......こういうときは、少しぐらい強引に来いよ。俺も、お前に触りたくない、わけじゃない」
 ただ、ちょっと気恥ずかしいだけだ。......たぶん。
 でなきゃ、エロい夢見て、朝に勃ってたりとかしない。
 触られて、こんなに身体が熱くなったり、しない......。
 少しだけ深く息を吸って、体内の熱を逃がすように吐き出す。
 やっぱり、俺も変態になったらしい。
 ......コイツ限定みたいだが。
「ともあきさんは、今みたいにもう少しお喋りになってもいいと思うな」
 ああ?うるせえよ。
 頬をぎゅっと引っ張ると、痛がってはいたが嬉しそうに、抱きつかれた。
 昼食の残りを片付けて、俺は小野と一緒に美術館を出た。


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