番外編-20
どうしようどうしよう。
回らない頭で考える。
ため息をついても、吐く息が酒臭くてやになる。
今日はともあきさんが泊まりに来てるのに。
マンションの一階の目立たないところにある非常階段に座り込んで、俺は項垂れていた。
外から見た自分の部屋には明かりが付いていた。
もうかなり遅い時間だけど、ともあきさんは起きて待っててくれている。
でも、帰れない。
「うー......」
呻いて、俺はがしがしと頭を掻いた。
ともあきさんと付き合うようになって3年。近頃ようやく、ともあきさんがうちに連泊してくれるようになった。
いわゆる半同棲のような感じ。1週間ぐらい泊まると、ともあきさんは家に帰る。
お母さんが心配だとか、2人目の妊娠でつわりが酷い兄嫁が気になるとか、いろいろ理由をつけて帰っていた。
俺としては完全に一緒に暮らしてもらえるのが一番良いのだが、ここで焦るとろくなことにならないと思うから、我慢している。
今週は、ともあきさんが来てる週だ。
普段であれば飲み会なんか参加しないで帰るんだが、世話になった会社の先輩が別会社に出向するという話だったから、ともあきさんには遅くなる旨を告げて送別会に参加していた。
大学も無事に卒業して、入ったのは小野の父とは関係ない大手企業の子会社。
仕事は楽しいし、会社の人間関係も今のところ結構円滑だ。
......明日からはどうなるかわからないけど。
「っだよあのおんな......こんらところにつけやがってよぉ......」
ろれつの回らぬままぼやいた俺は、手の中のミラーで自分の首筋を映した。
一応身だしなみのために持ち歩いているミニミラー。それに映る俺の首筋には鬱血があった。
目立つ。物凄く目立つ。
人望のあった先輩の送別会には、別の課の人も多数参加していた。
そこで、顔を何度か合わせただけの別の課の女に声を掛けられたのだ。
話がしたかったと言われて、無下には出来ない。
程よく話が合い、盛り上がって会話が弾んだ。でもそれは別にその女だけとだけじゃない。
1次会が終わり、2次会、3次会に進むに連れて減っていく人数と、代わりに上がっていくテンション。
誰かが、女に俺が恋人に溺愛していることを振った。
俺のいる課のメンバーは、俺がいつも自慢してるから恋人にメロメロで、なによりも優先していることを知っている。
そうなんだよすっげ可愛くて、と俺も調子に乗ったのがいけなかったのか。
『じゃあ恋人さんにプレゼント』
女も凄く酔っていたから、軽い気持ちでしたんだろう。それはわかる。
酔っていた俺も、擦り寄られて咄嗟に反応できなかった。
首筋に、軽い刺激。
口紅付いてるぜ色男と囃し立てられて、一気に脳が冷えた俺は、女を殴って店を飛び出した。
感情が高ぶりすぎて、訳がわからなくなりながらタクシーに乗って家に帰り、今現在に至る。
携帯に入った会社の人からの電話には、まだ出ていない。
何を言うかわからなかったし、余裕がなかった。
ともあきさんはキスマークをつけたりしないのだ。こんな目立つ鬱血があったら、絶対ばれる。
素直に理由を話せばいいのかもしれない。でも。
無駄に目に水分が集まる。
ともあきさんに関することだと、いつもこうだ。感情が暴走して止まらない。
傍にいることが慣れて落ち着くかと思いきや、昔から全然変わることがなかった。
今でも好きで好きで、愛しくて堪らない。
「......」
俺はふらつきながら立ち上がった。
いつまでもこのままではいられない。
それでもすぐに家には帰りたくなくて、エレベーターじゃなくて、階段を使って部屋に向かった。
「おかえり」
鍵を開けて入ると、ともあきさんが眠そうな顔で出てきた。
「あ、ったらいま......」
酷く動揺した俺は、掠れた声で応じながら靴を脱いだ。
立ち上がるとともあきさんにぽすっと抱きしめられる。
ともあきさんちの、お出迎えの挨拶。
一緒に暮らすようになってから、俺もやるようにと言われた。
抱きつけるなら俺だって異論はない。
だけど、今日は。
「ともあきひゃんおれさけくらいから」
「ひゃん?」
ともあきさんはろれつの回ってない俺を、珍しそうに見上げた。
それから胸に鼻をうずめてくんくん匂いを嗅ぐ。
可愛い仕草をする恋人を、俺は黙って見下ろした。
ぴんぴんと跳ねた黒髪は相変わらず。でも、表情が前より大人っぽくなった。
引きこもりで学生時代も人と関わりを持たないで、小さな世界で生きてきたともあきさんは、出会った当初は幼い表情をすることが多かったが、今では俺がその年の差をひしひしと感じるほど、成長してる。
「臭い」
「だから、いっらのに」
ああ、こんなこと言いたいわけじゃない。もっと言わないといけないことが。
首元は、きっちりとシャツを着込んでいるから今は見えないと思う。
見つけられる前に自分から言おう。
そう思っても喉が渇いて、声が出なかった。
「シャワー行け。臭い」
言い切ったともあきさんは、ぐいぐい俺の服を脱がし始める。
「いく、行くから!」
服を脱がされるのが嫌で、すぐに俺はバスルームに逃げ込んだ。
「風呂は入るなよ。シャワーだけにしろ」
あとあんまり熱い湯でシャワーを浴びるなと、外から声を掛けられる。
「あああ......」
言いたかったのに、言えなかった。
落ち込みながら軽くシャワーを浴びる。
視線の端に映った小さなビニール製のアヒルのおもちゃを手に取った。
アヒルの口に水を含ませて噴射させて遊ぶ、幼児向けのもの。
センセの、昭宏さんの第一子が、これで遊びすぎて真面目に風呂に入らないと言って、ともあきさんが仕置き変わりに奪ってきたのだ。
ずるい。俺も一緒に風呂入りたい。と言ったら呆れた顔をされた。
基本、俺たちは別々に風呂に入る。ベッドは一緒だけど。
ベッドまで拒否されたら泣くところだった。
「どうしよ......」
アヒルに相談しても、しょうがない。
覚悟を決めてバスルームを出ると、部屋の中は既に暗くなっていた。
あれ?普段は起きててくれるのに。
足を縺れさせながら寝室に向かう。
ベッドを覗き込むと、ともあきさんは既に寝ていた。
起こしてまで、告げるべきか。
言わなくてはと思うが、可愛い寝顔を見ているだけで、気分が消極的になってしまう。
悩んで悩んで、結局告げる勇気をもてなかった俺は、そっとベッドに入り込んだ。
眠るともあきさんを背後から抱きしめて、目を閉じる。
明日だ。明日になったら謝って説明しよう。
そう思いながら、酔いも手伝って俺はすぐに眠りに落ちていった。
だから俺が寝息を立て始めた頃に、寝たふりをしていたともあきさんが振り返り、俺の首筋を撫でていたことには気づかなかった。
翌朝。
「ってぇ......」
俺は立派な二日酔いになっていた。
今日は休みだ。だからしばらく寝ててもいいけど、ともあきさんがいるのに寝ているのはもったいない。
目を覚ました俺は、布団の中で手を動かす。
大事な温もりを探したけど、見つからなかった。
ガンガン響く頭を押さえて起き上がる。
すぐにともあきさんを探したけど、その姿はない。
『篤希が熱出した。ちょっと見てくる』
リビングにあったメモを見て脱力する俺。
ともあきさんちは、父親が長期出張、母親も不定期休みの仕事についている。
センセは職を変えたらしい。海外を飛び回る仕事で、忙しくてなかなか会えないと言っていた。
家にいつもいるのは、兄嫁とその子供。実は、この子供が曲者だ。
ともあきさんと風呂には入るし一緒に寝るし、ハグもすればキスもする。
2歳といえど侮れねえ。
甥っ子を可愛がるともあきさんだが、俺はやつが将来の脅威になりそうで、今のうちからどうにか排除できないかと画策したことがある。
ともあきさんが篤希に奪われていいのかてめえと、父親であるセンセに電話で訴えたが、鼻で笑われて終わりだった。
俺の優先順位はともあきさんが一番。でも、ともあきさんの優先順位では俺が一番じゃない。
「ともあきさん......」
よりいっそう頭痛を感じながら、俺はそのメモすら愛しくてそっとキスを落とした。
少し頭痛が落ち着いてから、昨晩着信のあった先輩の携帯に電話をする。
殴った女の傷は、たいしたことはなかったそうだ。
俺がどれだけ恋人が好きか、いつも惚気を聞いてくれるその先輩は複雑そうな声を出しながらも、謝りに行くよう勧められた。
警察には通報せずに済ませてくれたことはありがたかったが、正直言って謝りたくない。
鏡を見てみても、鬱血はしっかり残ってる。
過剰反応過ぎなのはわかってる。ともあきさんにはばれなかった。......気付かれなかった。
自分で隠しておきながら、詰られなかったのは少し寂しいと思うのもお門違いだ。
「あ、駄目だ」
沈む。
自分勝手な思考に、酒でやられた脳が沈み始めた。
とりあえず顔を洗い、身支度して外に出る。
違う人が付けた跡は見せたくなくて、ハイネックのカットソーを着た。
憂鬱な気分のまま菓子折りを買って、先輩がセッティングしてくれた女との面会に向かった。