番外編2(パロディ)-2


-夢のまた夢-



 酷く疲れた。
 ここ三日ほど家に帰れず、仕事でずっと会社や出張先の取引会社との往復だった。
 時には工場に出向いて、ラインの確認だ。
 ぐったりと疲れた俺は、歩くのさえも面倒になって駅からタクシーで自宅に帰った。
 今日は、ようやく契約も完了し久々の帰宅だ。
 この仕事に関わっていない同僚から祝いの言葉とともに酒に誘われたが、それより早く帰って眠りたかった。
 会社には申請して、明日はもう有給を取ってある。
 惰眠を貪ってやると考えながら、俺はタクシーの運転手にチップを含めた金を支払い、家に入った。
「ただいま」
 低い声で家の中に声をかけると、トトトと軽やかに駆け寄ってくる足音。
「おかえりなさい」
 出てきたのは弟だ。いい歳して、大学卒業後はずっと家に引きこもっているニート。
 ぴんぴんと跳ねた黒い髪。黒い瞳は俺をじっと見つめる。
 ぱっと開かれた腕。
 もはやうちの家族の儀式のようになっている、送り迎えのハグだ。
 あしらうのも面倒で、上半身を弟に傾ける。
 ぎゅうっと抱きしめられた。
「ニート。家にいるからって風呂入らないのいい加減にやめろ。汗臭い」
 額をこん、とノックするように指で叩き、俺は身体を離した。
 今は、コイツに構っていたくない。疲れた。もう寝たい。
「昭宏、ぎゅうは?」
「は、牛?」
「違う。昭宏、ぎゅってしてない」
 ......面倒だ。抱擁し返してないのを、弟は不満に思っているらしく、無駄に纏わりついてくる。
 邪険に払っても伸びてくる手に、俺はむっとして智昭を見下ろした。
「ん」
 両手を伸ばしてにこにこと笑うニート。

 うぜえ。

 俺は一つため息をつくと、持っていたカバンを放り投げ、ネクタイを緩める。
 上着を脱いだところで、顔を青くした弟は逃げた。
 ほう?最近は勘が良くなってきやがったな。
「逃がすか、よ」
 伸びきったシャツの襟ぐりを掴み、引き寄せた。
 そしてそのままドラゴンスリーパーを仕掛ける。
 弟はすぐに降参の意思を持って床を三度叩くが、それでこの俺が許すはずもない。
 フロントネックロック、腕ひしぎ逆十字など、いくつも技を仕掛けていくうちに、弟のしまりのない顔がふにゃっと歪んだ。
「あきひろ......」
「!」
 舌ったらずに名を呼ぶ弟に、俺は慌てて離れる。
 なんか、ちょっと、ヤバい。
「......キモい声出してんじゃねえ」
 背筋がぞくっとくる感覚を覚えた俺は、ニートの頭を一発殴って俺はリビングに入った。
「お帰りお兄ちゃん。......トモくん、お兄ちゃんが帰ってくるの、ずっと待ってたのよ?なのに、また苛めたでしょう」
「ただいま。苛めてねえよ別に」
 風呂上りらしい母に、そう窘められて俺は視線を逸らす。
「飯は?」
「あるわよ。用意するからちょっと待っててね」
 ため息をついた母が、キッチンに立つ。
「母さん、もう寝るんだろ?いいよ。......智昭!」
 俺の鋭い声に、よれよれになった弟は、俺が廊下に放り出したカバンとスーツの上着を持って入ってきた。
「飯」
「......ん」
 眦に浮かんだ涙を拭いながら、弟はこっくりと頷き、キッチンに向かう。
 しばらく弟は母と話をしていたようだった。
 俺はソファーに座ってテレビを眺める。
 しばらくこうしてゆっくり座ることもなかったせいか、倦怠感に包まれて眠気に誘われた。
「お兄ちゃん。じゃあ母さんもう寝るけど、トモくんに酷いことしないようにね」
「はいはい」
 リビングを覗いた母にじろりと睨まれて、俺は首をすくめる。
 俺だって、別にしたくて苛めてるわけじゃねえ。
 あの馬鹿が近づいてくるのが悪い。
 無言で俺の夕食を用意した弟。
「いただきます」
「めしあがれ」
 手を合わせて俺は食べ始める。
 つけたテレビでスポーツニュースを見ていると、右側にぽすっと程よい重さがかかった。
「食べにくい。よりかかんなボケ」
「ん」
 ソファーの上で膝を抱えた弟は、頷きつつもよりかかるのをやめようとしない。
 俺は弟の肩を掴んでソファーから押し出した。
「って」
 床に落ちた智昭から小さく声が上がる。
「臭いって言ってんだろ。シャワー浴びて来いニート」
 見もせずに告げると、のろのろと立ち上がる気配があった。
 そのままリビングを出て行く。
「......」
 箸を置いて、俺は深く息を吐く。
 あの馬鹿が寄りかかっていた肩に、そっと触れる。
 そこだけ、なぜだか熱い気がした。
 今日は、もう寝てしまおう。
 起きているとろくなことが起きない気がする。
 俺は夕食を掻き込むと、食器を片付けて洗った。
 風呂は明日入ればいい。今日は寝るのが一番だ。
 歯を磨こうと洗面台を覗く。
 洗面台は、浴室の脇にある。
 弟は、俺に言われた通りに髪を洗っているようだった。
 不透明になっているすかしガラスに細いシュルエットが浮かぶ。
「ちっ」
 揺れ動くその影をじっと見つめてしまい、はっとして俺は舌打ちをした。
 飲みに行けば良かった。
 馬鹿騒ぎして、浴びるほど飲んで女を抱けば、こんな気持ちになることなんてなかったはずだ。
 おざなりに歯を磨いて、出ようと戸に手をかけた。その時。
「昭宏?」
 背後で浴室のドアが開く気配。
 掛けられた声は無視して、そこを出る。
「待って」
 追いかけてくる馬鹿を無視して部屋に向かう。
 急いで階段を上がって、自分の部屋のドアに手をかけたところで、ぼすっと背中に何かが引っ付いた。
 腹に細い腕が回される。水滴を纏っているせいで、俺の服まで濡れる。
「家を出るって、ホント?」
 弟の口から漏れた言葉に、俺は奥歯を噛んだ。
 出ることを相談したのは両親だけだ。コイツには言わないように口止めしたのに。
「ああ。俺もいい加減に、誰かのお守りはウンザリなんでな」
「嘘」
「あ?なにいってやがる」
 ぎゅうっと更に強く抱きつかれる。
「嘘だ。昭宏は、俺に触りたくなるのが怖いんだ。だから、逃げる気なんだ」
 弟は普段殆ど喋らないくせに、時折滑らかに話し出す。
 今も、そうだった。
「......黙れ」
 低い声で牽制しても、馬鹿の口は止まらない。
「兄弟だから、昭宏の考えてることわかるよ。ねえ、昭宏。俺も、昭宏のこと、す」
「言うな」
 俺は拘束した腕を引き剥がし、振り返って細い首を掴んだ。
 驚いたように見開かれる瞳。下肢に纏っていたタオルがはらりと落ちる。
 ろくに身体も拭かず、俺を引き止めるために、浴室から飛び出してきたんだろう。
 引きこもってばかりで、ろくに日に当たらない白い身体。
 見ていられず視線を逸らす。
 ああちくしょう。


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