小話詰め合わせ-12



-じゅうにかげつ-



 とある秋の日のことです。
 小さな庭のある家の縁側で、一匹の猫が日向ぼっこをしていました。
 手足と尻尾の先が白く、それ以外は真っ黒な猫です。ついこの間一歳を迎えたばかりのその猫は、家人に『ともあき』と呼ばれていました。
 小さいころ拾われたともあきはとても臆病で、窓やドアが開いていても一人で外に飛び出したりしません。
 せいぜい庭に出て一人遊びをするだけの、大変おとなしい猫でした。
 ごろりと横になったともあきは気持ちよさそうに耳をぴくぴくさせたり、時折しっぽをぱたりと揺らします。
 家の中から楽しげに話す人間のお母さんの声をBGMに、うつらうつらしていた時でした。
 がさりとした物音と、嗅ぎなれた匂いに鼻を引くつかせたともあきは、瞬時に上半身を起こすと庭先に視線を向けます。
 視線の先には、木々に隣接した壁の上を歩く黒猫の姿が見え隠れしていました。
 一部の白と大半の黒の、幼さが残る柔らかい毛を持つともあきとは違い、全身が黒く滑らかな毛に覆われた美しい猫です。
「あきひろ!」
 ともあきは黒猫に向かって走ります。ですが、黒猫はつんと顔をそっぽに向けたまま、ともあきを見ようとはしません。
 猫にしては鈍感なともあきは、壁をよじ登るすべさえわからず、がりがりと壁に爪を立てました。
「ぱとろーるしてんの? 俺もする!」 
 甘えた声で黒猫を呼び止めますが、黒猫はかぎ尻尾を揺らしたまま壁の上を伝い、どこかに行ってしまいました。
「......んだよ、あきひろのケチ。ちょっとぐらい、連れてってくれたっていいじゃねえか」
 ともあきは、うなり声でぼやきました。
 今目の前を通り過ぎた黒猫のあきひろは、ともあきの実の兄弟です。野良猫として生きるにはひ弱だったともあきを、この家に捨てた張本人でした。
 ともあきと別れたあと、兄のあきひろはまだ若いながらに近所一帯を仕切っていた猫を追い払ってボス猫に君臨しました。
 近所のメス猫には大人気で、それもともあきは複雑な気分になります。
 モテモテな兄を誇って良いのか、それとも自分の兄だからと蹴散らした方がいいのか......。
 ともあきはいつも悩みますが、外にも出れず、他の猫を見ると腰が引けてしまうので、どうしようもできません。
「つまんねえなあ、もう」
 ぶちぶち呟きながらともあきは縁側に戻ります。しゅんと垂れた耳と尾は、ともあきの気持ちを代弁していました。
 そのせいでしょうか。またがさりと物音がしたのに、ともあきはすぐに振り返ることもなく、猫にあるまじき鈍感さでとぼとぼと歩いています。
 その後姿を狙う瞳がきらりと輝きました。
「ともあきさんっ!」
「なに?! なにっ?!」
 背後からのしかかられて、ともあきはパニックに陥りました。
 自分のテリトリーの中である庭にいるはずなのに、兄がいつも脅す『くるま』が押しつぶしにきたのでしょうか。
 それともともあきを一飲みにできるという見知らぬ『化け物』が襲ってきたのでしょうか。
 ああ、短い人生だった......。
 生存本能を放棄したともあきは、服従を示すようにお腹をさらしてごろりと横になります。
 くるんと股に挟まった尻尾が哀れでした。ですが、怯えて仰向けにになったところで、自分に絡んできた相手がようやく誰か気づきました。
 自分より一回り大きい茶トラです。
 その猫を見た瞬間、ともあきの耳がぴんと立ち上がりました。
 先ほどの態度が嘘のように尻尾がぶわっと膨らみ、低い声でうなります。
「......なっ、なんだよ! 脅かすな!」
「ごめんなさい。会えたのが嬉しくて」
 短く鳴いたその猫は反省を表すように身を低くし、耳をぺたりと垂らしました。ですが尾は嬉しげにひょこひょこと揺れています。
 すりすりと甘えるように頬ずりされて、ともあきもまんざらではありません。
 この一回り大きい猫は『かずおみ』といって、兄以外ではただ一匹、親しくしている猫です。
 元はとなり町にいたようですが、少し前にこの街に住み着き、時折遊びに来てくれるのでした。
 ともあきよりも生まれは遅いはずなのですが、食べているものは違うのか、それともその環境のせいか、かずおみは大きな体でともあきに擦り寄ります。
「あーともあきさんの匂いだ」
「......変態」
「ひどい!」
 ふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐかずおみに、ともあきが少し引いてみせると、あからさまにしゅんと落ち込む仕草を見せます。
 それをみて智昭は目を細めました。
 自分の反応に一喜一憂するこの猫が、ともあきは可愛らしく感じられたのです。
 ですが、そこは家猫で引きこもりのともあきは、うまく相手にその感情を伝えられません。
 そのため少し考えたあとに言葉の代わりに、おずおずとぺろりと小さい舌で茶トラ猫の頬を舐め返しました。
「!」
 かずおみの尻尾がぶわっと太くなります。耳もぴくぴくと動き、驚きを表しているようでした。
「見、んな」
 凝視されたともあきは恥ずかしさでくるりと方向を変え、縁側に上がります。
「待ってよ!」
 かずおみも追いかけてそっと家の様子を伺いながら、縁側の上に上がりました。
 家の人はかずおみを追い払ったりはしないものの、それでも人間に対しては警戒心を持っています。
 母さんはかずおみをいじめたりしないのに。
 ともあきはそう考えながら、ごろんと横になります。すると、かずおみもその隣に横たわりました。
 暖かくて気持ちのいい午後です。先ほどのように少しずつともあきは眠くなってきました。
 隣のかずおみの体温も、更に眠気を誘います。
 何気ない幸せというのはこういうことかと、ともあきは自分の尻尾を抱きこみました。
 先だけ白い自分の尻尾を口に咥え、幼児帰りしたようにちゅっちゅっと吸い付きます。前足でふみふみと揉んでちゅっと吸うと、ともあきはなにやら良い気持ちに包まれるのでした。
 これは警戒心がなくなったときのともあきの癖で、猫のお母さんと早くに生き別れてしまったためか、未だに幼児のような行動を取ってしまうことがあるのです。
「......」
 かずおみは、そんなともあきをじっと無言で見つめました。
 ともあきは気づいていませんでしたが、かずおみの前でその仕草を見せたのは初めてだったのです。
 かずおみは、そっと自分の尻尾をともあきの口元に近づけました。ヒゲに当たったその尾に、ともあきはぱちりと目を開きます。
 するりとともあきの尻尾が口元から離れると、そこにかずおみの尾が入り込み、口元をなぞります。
 ともあきはかずおみを見つめたまま、尾の先端を口に含みました。
 自分のものとは違う毛並みに、違和感を感じながらちゅっと吸い、それから軽く歯を立てます。
 かずおみはぴくっと僅かに耳を動かしましたが、尾を引こうとはしませんでした。
 そのままちゅっちゅと尾を吸っていると、かずおみがともあきの身体の毛づくろいを始めました。
 尾がともあきの口元にあるため、かずおみはだらんと伸びた下半身から丁寧に舐めていきます。
 ともあきはその気持ちよさにうっとりと目を細めて、尻尾をぱたぱたと動かしました。
 時折かずおみの顔の前に尾を振って悪戯をします。すると、その尾まで丁寧に毛づくろいしてくれるのでした。
 よし、俺もやってやろう。
 すっかり綺麗にしてもらったともあきは、上機嫌でかずおみに身を寄せます。
 小さな舌を動かして懸命にかずおみの毛づくろいをするのですが、ともあきはあまり毛づくろいが上手くありませんでした。ですが、乱れまくった毛並みにもかずおみは嬉しそうに微笑みます。
「気持ちいいよ。ありがとうともあきさん」
「ん」
 喜ばれれば、ともあきも嬉しくなります。もっと綺麗にしてやろうとかずおみの毛並みをかき乱すのでした。


「ともあきさんは、発情期来た?」
「ん?」
 毛づくろいを終えて二匹で寄り添いながら日向ぼっこをしていると、かずおみが不意にそんなことを尋ねてきました。
 きょとんとしたともあきの表情から察したのか、かずおみはともあきの尾に自分の尾を絡ませます。
「猫が凄く鳴いてるのって、発情期なんだって。俺、交尾するんだったらともあきさんとしたいなあ」
 なんともストレートなお誘いでした。
 家猫でおっとりと飼われ、食が細く発育もそれほど良くないともあきは、まだ発情期を迎えていないせいかイマイチぴんと来ません。
「こうび? したいのか? お前なら、どの猫でも選びほうだいだろ。......俺で、いいの」
 すらりとした美猫で、兄と同等に渡り合おうとするかずおみは、その優しく楽しい性格も相まって近所の猫の間でも人気です。盗み聞きするつもりはなくとも、時折聞こえてくる噂に耳を澄ませば、それぐらい十分に分かることでした。
「したい。ともあきさんとがいいんだ」
 やや首を傾げながらした問いかけに、かずおみは真摯に返します。
 かずおみは、兄以外では自分と遊んでくれる唯一の存在です。可愛い弟分でもある彼の願いを叶えてあげたいと、ともあきは思いました。
「ん」
「え、ともあきさんこそ、いいの?」
 こっくりと頷くともあきに、かずおみが驚いたように尋ねます。
「うるせえ。俺がいいっていったら、いいんだ」
 最初は素っ気なく乱暴に、そのあとに小さな声で付け加えると、かずおみはこつんとともあきの鼻先に自分の鼻先をくっつけます。
「......嬉しい。大好きだよ、ともあきさん」
「ん」
 かずおみは素直に好意を言葉で表しますが、ともあきはやっぱりできません。その代わり、ぺろりと頬を舐めました。
「こうび、しような」
「うんっ!」
「...............なんだか物凄い気持ちわりい話してんじゃねえか」
 喜色満面で頷きあう二匹の間に、不機嫌な鳴き声が割り込みました。
 ともあきがはっと庭先に視線を向けると、黒猫が一匹こちらに向かって歩いてきます。
 先ほどともあきを綺麗さっぱりに無視した兄です。
 尾を膨らませ、威嚇するように背を丸める兄に、ともあきは戸惑いました。隣では既にかずおみが臨戦態勢に入っています。
「ともあき、交尾は雄と雌がするもんだ。お前ら雄同士だからできねえぞ」
「え、そうなのか?」
 兄の言葉に、ともあきは驚きました。慌てて隣のかずおみに確認します。
「愛があれば出来る!」
 かずおみはきっぱりと言い放ちました。
 そもそも交尾がどういった行為を指すのか分かっていないともあきは、どちらの言い分を信じていいかわかりません。
「ふざけたこと抜かしてるとこの街から追い出すぞてめえ」
「ともあきさんがいいって言ってるんだからいいだろ!」
「ああ? 俺の弟に手ぇ出そうとしてること事態おこがましいんだよ!」
 なぁご、なぁあご、なあああご、と低い鳴き声がだんだん間延びしていきます。
 これから喧嘩するよ、という猫特有の鳴き合いです。睨みあってしまった猫は、喧嘩を避けることはできません。
 あきひろとかずおみの間に緊張感が走ります。
 もう少しでバトル開始、というところで、不意にともあきが動きました。
「あきひろ」
 二人の間に割って入り、ともあきは低姿勢のまま兄の様子を伺います。
 あきひろはこのあたりのボス猫です。かずおみを本気で追い出そうとすれば、できないことはありません。
 ですが、ともあきはかずおみに出て行って欲しくはありませんし、あきひろに無駄な喧嘩もしてほしくありませんでした。
「......」
 あきひろは威圧的な視線をともあきに向けますが、ともあきはその視線を受けずに伏せます。
「けんか、すんな」
 普段は臆病で怖がりな、ともあきの精一杯の反抗でした。
 びくびくと見るからに震えながら、ともあきはかずおみを危険に晒さないために懸命に訴えます。
「かずおみとは、こうびしない、から。だから、かずおみを追い出さない、で」
「ともあきさん!」
 背後でかずおみが悲痛な鳴き声を上げますが、智昭は振り返りません。
 兄の怒りが収まることを祈りつつ、身を縮めていると、不意に兄の影が自分にかかります。
 ボス猫に逆らった腹いせに、このまま噛み殺されても仕方がない立場です。
 ああ、やっぱり短い人生だった......。
 本日二度目の諦めの境地に達していたともあきでしたが、優しく背中を舐められる感触に、少しだけ顔を上げました。
「......」
 ですが、やっぱり見下ろしてくる視線は怖いままです。
「おいクソガキ」
 あれ? 気のせいだった? と、内心首を傾げていたともあきをよそに、あきひろはかずおみを呼びました。
「無理やりコイツに変なことしたらぶっ殺すからな」
 兄の口から出た言葉は、追い出すよりも恐ろしい言葉でした。震え上がるともあきをそのままに、兄はぷいっと顔を逸らすとさっさとどこかに走り去ってしまいます。
 威圧的な兄の気配がなくなったことで、ともあきはへにゃりとへたり込んでしまいました。
「ともあきさん......」
 元気のなくなったかずおみがそっと駆け寄り、ぺろぺろと毛づくろいをしてくれます。ともあきも自分の落ち着きを取り戻すためにも、かずおみに毛づくろいを仕返しました。
「ごめんな」
「え?」
「こうび、しないなんて、勝手に約束して。けど俺、けんかして欲しくない」
「......あきひろさんは、ともあきさんのお兄さんだもんね」
「違う! かずおみにけがして欲しくなかったから、だから俺......!」
 残念そうに呟いたかずおみに、ともあきは咄嗟に怒鳴りました。
 もどかしい想いが身体を駆け巡ります。
「す......っき、な......やつが、けがするの......見たく、ない、から......!」
 ほろりと零れ落ちた言葉にかずおみは目を見開きます。ともあきはかずおみの頬にそっと頬擦りしました。
「こうび、しなくたって、お前がいればいい。......お前は、や?」
「そんなことないよ!」
「よかった......」
 すぐさま否定してくれたかずおみに、ともあきはほっとした表情で微笑みます。
 かずおみはその表情に見惚れて、それから僅かに照れたような表情で鼻先をくっつけます。
「ともあきさんからそう言ってくれるの初めてだよね。俺マジで嬉しい。......愛してる」
「ん」
 こっくりとうなづいてリラックスした表情で寄り添います。かずおみはそんなともあきの身体をゆっくりと尾で撫でると、耳に軽く口付けをしました。
 互いに側にいれればいいと想い合った二人でしたが、後日互いに発情期を向かえ、どうじようもない情欲に悶々とすることになることなど、この時は知るよしもありませんでいた。



←Novel↑Top