9月リクエスト-18


「まあいい。ほら」
「......ありがとうございます!」
 差し出された名刺を受け取って、俺は自分の名刺入れにしまう。
 これを弟に渡せば、終わりだ。
 高橋とこれ以上不毛な会話をしなくて済む。
「それじゃ」
「待ちたまえ」
 意気揚々と出ようとしたところで、高橋に止められた。
 ああ?なんだよ。もう俺はお前に用はねえんだよ。
「なんでしょう?」
 罵る内心を少しも覗かせない笑顔を作って、高橋を見る。
 すると、手を差し出された。
「名刺交換は、営業の定石だろう」
「......」
 名刺交換。
 なにが悲しくて、社内の営業同士で名刺を交換しなくてはいけないのだ。
 嫌だといいそうになるのを必死で押さえ込んで、俺は高橋に名刺を渡した。
「ありがとう。大事にしよう」
 微笑まれても、嬉しくない。
 さっさと捨てて欲しい。
 そう思いながら、俺は軽く頭を下げるとその場を後にした。
 だから、そのあとのことはまったく気付かなかった。



「......話終わったぞ。早川君」
 コンコンと、喫煙所の壁を叩く。
 喫煙所の隣は会議室だ。
 普通の壁なため、音は若干漏れる。それが人の会話であればなおさら聞きやすいものだろう。
 会議室から出てきてそっと喫煙所を覗いた早川沙紀は、若干バツの悪そうな顔をしていた。
「君、私に親戚の子が倉庫で作業しているから、様子を見てきて欲しいと言わなかったか?藤沢君に睨まれたじゃないか」
「あら課長。彼は私の親戚ですよ。正確に言えば親戚になる子、ですけど」
「......そういうことは先に言いたまえ」
 苦笑する高橋の前で、沙紀は素知らぬ顔だ。
「課長だって、会って気付かなかったわけじゃないんでしょう?藤沢さんの弟のこと。営業だからって、そう誰でも彼でも名刺ばら撒いていたら経費かさみますもの。違いますか」
 難なく指摘してくる沙紀に、高橋は軽く手を上げた。
 察しがいいとばかりに軽く頷く。
「つながりは用意しておいた方がいいからね。いろいろと考えると」
「......特課がなくなるって話、本当だったんですね。課長、独立するんですか」
 急に飛んだ話に、高橋は目を見張る。
 それから軽く笑い声を上げた。
「どこで君はそういう話を仕入れてくるんだ」
「秘書課の子とは、私仲がいいんです。藤沢さんの弟のことは総務課の子から聞きました。あの子が他の人にまで弟さんのこと言うなんて、ちょっと計算外でしたけど......。ともかく男の人は気付いてないかもしれないですけど、いろいろ手配するのって補佐の人間なんです。その分表に上がりにくい話だって聞くことありますよ」
 さらりと告げる内容に、高橋は感心するしかない。
 自分自身でさえ、指示は出すが、実際に書類をそろえるのは補佐の女性が主だ。
 そのことを思い出す。
「早川君のその情報収集能力と分析能力は素晴らしいと思うよ。どうして営業にならないんだ」
「嫌ですよ。女性の営業なんて、セクハラとパワハラの温床じゃないですか。給与面でも男性と差がついたりするし、残業だって多いし」
 不平不満を口にする沙紀。
 本人に無理に稼ごうという意思がないと知って、高橋は納得した。
「もったいない。君が営業なら年商1億も稼げるだろうに」
「年商10億稼ぐ男性に嫁ぐ予定なので、ご心配なく」
「その分だと、交際は順調そうだね」
 ぽんぽんと交わされる軽口の応酬。
 沙紀は入社して以来、高橋の下についていたため付き合いが長く、その分気軽さも増している。
「結婚式では仲人お願いしますね、課長」
「彼に嫌がられそうだな。それに私は結婚してないから無理だ」
「なら合同結婚式とか。......課長に特定の人がいないって信じられないわ」
 くすくすと笑い合うのは、友人同士ような親密さだ。
 しかし、不意に高橋は真顔になる。
「......特課解散は、現社長の指示だ。しかたない。前社長とは、また違う方針を持っているから」
「藤沢さん、引き抜くつもりですか」
 若干緊張感を持って、沙紀は尋ねる。
 じっと答えを待つ部下に、高橋はふっと笑った。
「やれやれ、弟君に渡した名刺のおかげで、そこまで読まれるとは思ってなかったな。私も、起業するからには成功するつもりで挑む。それだけだ。......まあすぐに辞表を出すつもりではないが」
「いろいろ、忙しくなりそうですね。......昭宏、早くプロレス観戦誘ってくれないかなあ」
 待ってるのに、と呟く沙紀は、恋する乙女の表情だ。
 好きな男のために、興味のなかったジャンルにも挑戦するつもりなのだ。
「それとなく聞いてみようか?」
 高橋は好意でそう告げるが、すぐ嫌な顔をされる。
「やめてください課長。課長に関わると、彼、途端にムキになるから。一時期は課長との仲を疑ったときもあったみたいだし」
「......そんなありえないことを?」
「そんなありえないことを、です」
 沙紀は驚いた表情の高橋に、力いっぱいに言い切る。
「家庭に入るのだって、ご両親と同居だって、私構わないのに。弟君に会えるのも楽しみ」
 ふふふと沙紀は上機嫌に微笑む。
「まあ......頑張りたまえ。私も、年商10億稼ぐ男は欲しい」
「昭宏もてもてですね」
「そうだな。......じゃ、私は戻る。会議の準備よろしく」
「はい課長」
 ぺこりと頭を下げる沙紀を目にして、高橋はその場を後にした。


 特課解散の話が、昭宏の耳に届いたのは3日後のことだった。


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