二陣-10



 カーテンが開けっ放しになっていて、強い日差しが差し込んでくる。外から聞こえてくるのは小学生の帰り道らしい話し声だ。目の前にはごろんと倒れたままの白い鹿の置物。床に置きっぱなしにしていたはずの桐の箱は、なぜか机の上に上げられていた。
 しばらくぼんやりとそれを眺めていた俺は、外が薄暗くなってきたことを機に、クローゼットの中から服を取り出して着こむ。上下とも着古したスウェットだ。
 一息ついてから、俺は桐の箱を開けた。床に転がっていた白鹿を拾って綿に包みかけて止まり、持ち上げ直して改めてまじまじと鹿を見た。
 今までのことが夢だったように思える。この倦怠感も、なんだか心にぽっかり穴が開いたのも、全部夢のような......。
「あ......」
 どこからか落ちた雫で白鹿が濡れる。慌てて指で拭うが、それを邪魔するようにいくつも涙が零れ落ちた。
 どうして、俺は泣いてるんだろう。何がこんなに苦しいんだ。
 何も悲しむことなんかないじゃないかと言い聞かせるが、駄目だった。
 しのかのことを考えると胸が苦しい。一度目の交わりではどうとも思ってなかったはずだ。ちょっと犬に噛まれたって思ったぐらいで......いや、なんか、終わった後に俺を責めずに笑ってくれたとことか、ちょっとあれこいつ可愛いかもって思ったけど......。
 雑に尻蹴られたりとかしたけど、蛇に襲われたとき俺を助けに来てくれたところとかちょっときゅんとか思ってたけど......。二回目の時だって、命削るようなもんなのに俺のことあんなにだ......。
「抱き過ぎだったけどな!!」
 俺は気恥ずかしさから声を張り上げた。
 あーやばい。しんみりすんのやめよ。どうせすれ違うだけだった野郎だ。そう、男だ。男のことを考えてなんか切なくなる義理なんかこれっぽっちもねーや。
 無理矢理にでも俺は気分を入れ替えて、鹿の置物を桐の箱の中に戻した。クローゼットの中に箱を戻しながら、ふと思い出す。
 そう言えば最後に聞こえた声はなんだったんだ?
 俺の声だけど、俺が言ってることじゃないのははっきりしてる。
 最初に祝詞を唱えた時、鹿が俺の中に飛び込んできた。あれは単に向こうでの姿を確定するだけで他に意味はないと思っていたけど、あれが志那都比古神自身で、もし俺が向こうにいる間、御霊を持ったまま動いていたのなら、俺は物凄く無駄足を踏んだことになる。
「まさかな」
 乾いた笑いを浮かべて、考えるうちに思い浮かんだ内容の突拍子なさに、俺は首を横に降った。
 気分を切り替えて、携帯で日時を確認する。俺が向こうにいたのは三日間だ。間違いじゃなければ、今日は月曜日のはずだ。
「月曜日......だな」
 時間にズレはない。時計じゃ午後四時を過ぎた頃だった。
 誰か会社に休暇の連絡......してくれねーよな。それより不在の説明どうしよう。素直に豊葦原に言っていたなんて行ったら、理由を聞かれるのは明白だ。でもまあ......しょうがねえか。
「素直に怒られよ......」
 ため息をついて部屋を出る。無意識にキスの感触の残る唇をなぞりながら、俺は階段を降りた。
 専業主婦の母さんならリビングにいるだろうと覗いて、ぎょっとした。
 リビングにいたのは母さんだけじゃなく、祖父ちゃんと父さん、さらには伊津美もいたのだ。父さんと伊津美は俺と同じで一般的な会社員だから、平日に家にいることはまずありえない。
 まずい。俺がいないことで、もしかして凄く心配させたのか。......一発二発殴られる程度で済めばいいけど。
 俺は覚悟を決めて、リビングのドアを開けた。
「皆さんお揃いで、どうし......」
「幸彦ッ!」
 出来るだけ刺激しないようにとさり気なく声をかけたつもりが、それぞれが驚いたように俺を見て、伊津美がまず立ち上がって近づいてきた。
「今までどこにいたのよアンタ!! 子供じゃないんだから心配かけさせないでよ!」
 言い訳を口にする前に怒鳴られて、それからフルスイングで平手を頬に食らった。パァンと小気味良い音が響く。
「ご、ごめん......」
「社会人ならごめんで済むわけ無いことぐらい知ってるでしょ! アンタ馬鹿?! もうちょっとで警察に届けるところだったんだからね!!」
 怒涛に声を張り上げる伊津美に、同じように椅子から立ち上がった出遅れた父は気が抜けたように座り込んだ。
 だが伊津美は怒鳴るだけ怒鳴ると、俺を突き飛ばして廊下に出ていってしまった。
 残った俺は、どうしようもない場の雰囲気に頬が引きつる。父はかけていた眼鏡を一度外し、布で拭いてからもう一度かけると、居住まいを正した。
「それでお前どこに......」
「ちょっと!!」
 父さんが仕切り直した問いかけを、戻ってきた伊津美がかき消した。伊津美はいつにない慌てようで俺の胸ぐらを掴む。
「知春どこ?!」
「ち、知春? 知春がどうしたんだよ」
 クエッションマークが脳を埋め尽くす。質問の意味がわからなくて俺は首を傾げた。伊津美は今にも泣き出しそうな表情で手が白くなるぐらいスウェットの襟を掴んでいる。
「知春と、一緒だったんじゃないの?」
「違う。ずっと俺は一人で......知春いないのかよ?」
「知らないの? いないのよあの子......どうして」
 俺が嘘をついていないことを表情から知ったのか、伊津美は力尽きたようにそばにあった椅子に座り込んだ。いつも身だしなみには気をつけている姉が、化粧もせず髪も乱したまま憔悴しきっている。
「土曜日からずっと帰ってこないの。あの子が勝手にいなくなるなんて今までなかったから、てっきりアンタと一緒だと思ったのに......」
「土曜日から?」
 その奇妙な符号に俺は胸騒ぎを感じる。父さんが立ち上がって伊津美の肩を叩くと、「警察に連絡しよう」と呟いた。誰もそれに反論はなくて、無言で父さんがキッチンのすぐそばにある電話台に向かう。
「待って」
 受話器を持ち上げたところで俺が止めた。すぐさま俺に視線が集まるのがわかる。俺はそわそわと落ち着かないまま、母さんを見た。身体が震えて止まらない。
「知春がいなくなったのって、いつ? あいつ、土曜はうちに来てたよね」
 俺の問いかけに、母は難しそうな表情で言い淀みながら口を開く。
「幸彦が出かけるって言ってたじゃない? あの時、もう梨を切り終わってたから、一つぐらいなら食べるかなと思って、ちーちゃんに頼んだのよ。そしたら、幸彦と一緒にいなくなったでしょ。二人共一言ぐらい言い残してくれればよかったのにって思いながら、母さん一人で梨食べて......だから一緒だと思ってたんだけど」
 「幸にぃ。ばあちゃんが梨切ったから、出かける前に食えって」確かに知春はそう言って、俺が豊葦原に行くために祝詞を唱えてる最中に入ってきた。......そのあと知春を見てない。俺は豊葦原に飛んだから。
「まさか......」
「なにアンタ、何か心当たりあるの?!」
 俺が零した呟きに激高した伊津美が俺の肩を強い力で掴んできた。痛みに顔を歪める俺に、父さんと母さんが止めに入る。
「ちょっと落ち着きなさい伊津美!」
「だって、あの子が......」
「それで一体どこにいるんだ」
 母さんが伊津美を引き剥がして、代わりに険しい表情の父さんが俺に問いただす。
「俺、土曜日に豊葦原に行こうとしてて......儀式してる最中に知春が入ってきたんだ......俺は、向こうで一人だったから、ずっと一人で、豊葦原に来たと思ってて......」
 父さんが息を呑む。部屋の中がやけに静かで、俺は俺の呼吸音ばかりが大きく聞こえて、煩わしかった。
「......どういう、こと?」
「知春......向こうに、豊葦原にいるのかもしれない」
 豊葦原のことをなにも知らない知春が、一人で。
「うそ......」
 俺の答えを聞いた伊津美の目がぐるりと上を向く。そのまま天井を見上げると、足元から崩れるように倒れこんでしまった。
「伊津美ッ!」
「お姉ちゃん?!」
 気絶した姉に父と母が駆け寄る。俺はその状態を見ながらただ立ち尽くすしかなかった。


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