三陣-2



 仕事を片付けて送別された金曜日。
 俺は自室で白鹿に向き合っていた。念のため、家族は移動に巻き込まれないように家の外に出てもらっている。向かう先は一度は辿りつけなかった瑞穂国の都の俺の社だ。俺はそれ以外に向かう先を知らない。
 胸の前で両手を合わせ、拍手を一つ。唱える祝詞も三度目となるとスムーズだ。
 また鹿がカタカタと震え、やがて生き物のように飛び跳ね始める。前回と同じように身体が動かなくなるが、祝詞を唱え終えた俺はその鹿を睨みつけた。
 志那都比古、どうして知春を巻き込みやがった。
 八つ当たりに近い心の中での問いかけは答えを期待していなかったものだったが、鹿はまるで声が聞こえたように俺を見て笑った。
『あいつは御使ん中でも最高級だからだ。自分が仕える神の消滅にすら耐え切りやがった。そりゃ近くにいたら引っ掴むって』
 聞こえてきた声に俺は動揺する。軽薄な口調で自信たっぷりな雰囲気を持つ声に、俺は一度は脳裏をかすめた考えが蘇る。
 お前まさか......。
『そうよ、瑞穂国が守護神、志那都比古である。ええい頭が高いわ! わっはっはっは!』
 芝居がかったセリフを口にした鹿は、ぽーんと跳ねて俺の胸に飛び込んできた。その刹那、俺は光の塊に変わる。日本にある人工的なモノが遠ざかって、広大な自然の息吹を感じさせる風が吹き荒れていく。その中で俺は叫んだ。
「.........引っ掴むってなんだよッ?! ちゃんと説明しろ! でないとぶっ殺すぞ!」
『ぷっ......御使が神を? マジで? やんこわーいサーセン! 謝るから許してくれる?』
「ふ......ふざけんなッ!」
 そのからかう口調は、俺を苛立たせるだけだった。だが声は一転して低く変わる。
『巫山戯てねえよ。こっちだって至って真面目に国救いしようとしてんだ。瑞穂国に溢れる瘴気は尋常じゃねぇんだよ。高天に帰った奴らは引退気分で助けもしねえ。西埜女はお前を呼ぶことでどうにかしようとしたみてェだが、お前程度の神通力じゃおっ死ぬのがオチだ』
 知らされる事実に、俺はどれに怒ればいいかわからなくなった。けど、西埜女は最初から知っていて、黙っていたことに少しショックを受ける。
 葛藤の見える西埜女の表情を思い出して、俺は強く拳を握った。なんだか裏切られた気分だった。
『何落ち込んでんだ。お前なんかよりよっぽど酷い目に合ってる奴らは大勢いんぞ。俺様の庇護が強いはずの都でも、物の怪が跋扈し始めて何人も死んでんだ。......っと、着くぞ! 俺様の勘違いじゃなけりゃ、今回も』
「ッ?!」
 声が途切れた途端に、身体中に感じる衝撃。アクセル踏みっぱなしの自動車にぶち当たった気分だった。
『弾かれるってなァ! はっはははぁ......てめえの守護神吹き飛ばす国がどこにあんだよちくしょうがッ!!』
 吹き飛ばされたのはこれで二度目だ。志那都比古はわかっていたようだが、俺は知らなくて身体を襲う激痛に歯を食いしばって耐えるしかない。またもやどこかの地面に叩きつけられて、俺は痙攣した。
『おーわりィな幸彦。最初っから言っとけば良かったなァ。で・も・今回は大丈夫! 俺様が無駄に散らしてねぇから神通力も満タン! さーさくっと回復して、行くぞ幸彦! 頑張れ幸彦!』
 応援のつもりなのか響く声に俺は頭痛を感じる。だが文句を言うのは回復してからだ。全然身動きできないのは辛い。
 気を巡らせて傷ついた部分を回復させて痛みを散らすと、俺は四脚で立ち上がった。気を巡らせていた名残で、鹿の身体がほんのりと発光している。
 てめえなんなんだよッ! もしかしてずっと俺の中にいやがったのか?!
『ったりめェよォ。御使がわざわざこっちに来れんのは、俺らが自由に動くた・め・だ・け』
 くっそぉ......なんかすげえムカつくこいつ。俺こんなのの御使を二一年間続けてきたのか......うわ、マジでへこむ。
 項垂れる俺に、志那都比古は楽しそうに笑った。
『そう落ち込むなって。基本的には意思疎通しねぇのがルールよ。問題山積みだからなァ』
 じゃあ俺に話しかけんのもルール違反だろうが。黙れよもう。
『そうはいかねぇんだってば。今はルール違反してもしょうがねぇぐらい緊急事態だってわけ。......良い事教えてやるぜ、お前の可愛い甥っ子は瑞穂都にいる。けど俺様が弾かれたぐらいあそこはヤバい場所に変わってるから、見殺しにしたくなかったら急ぎな幸彦。ほーら、ちゃあんと道筋作ってやらァ』
 きらきらと風が輝き、遠くに伸びていく。これが都への道だっていうんだろうか。
 俺はそっと走りだした。その光り輝く場所を走ると、少しの力で大きく進める。跳躍力も格段に上がって、みるみるうちに風景が後ろに遠ざかっていった。
 知春が本当に都にいるのか? それに急ぐって、また弾かれたらどうすんだよ。
『いるいる。すっ飛ばされた時に俺様が落っことしたから間違えねぇよ。まー空が駄目じゃ、ちゃんと入り口から入れてもらうしかねぇっしょー』
 志那都比古は嬉しげに都の作りを説明し始めた。瑞穂都は風水を取り込んだ設計になっているらしく、外から入ってくる悪いものを排除する形になっているそうだ。
 それで自分まで弾かれたら意味ねえよな。
『......言うなよそれ。おっかしいんだよなー......作りが変わって、わりィもんばっかり溜めこむ都になっちまってる。お前が祝詞唱えたじゃん? 俺様が迎えに行ったじゃん? そしたらおうちに入れなくなるってどういうことよ? こんなの今までなかったのになァ』
 志那都比古がぶつぶつとつぶやいている間にも、俺は野山を抜けてかなりの距離を進む。途中いくつも山里らしき場所も通り過ぎたが、人の気配はなかった。
『見な幸彦』
 ふと通り過ぎかけた廃墟で志那都比古に呼び止められた、廃墟はまだ廃墟は真新しく、ところどころにどす黒く滲んだ汚れが、嫌なものを想像させた。俺は風で転がってきた鞠と思しき紐を丸めて作られたものを見下ろす。
『物の怪に食われた無念で人が物の怪になる。それでまた人を襲ってってなァ......ここも人がいねぇ』
 ......。
 俺はそれに答えずにまた光の筋を目印に走りだした。俺の身体の中に感じる神聖な魂の光は、悲しげに瞬く。
『みんなが人間の世話なんかしてねぇで高天に来いって言うんだけど、俺様はやっぱり母様に与えられた国を守っていきてぇんだよなァ......だってよ! 高天原の女ってマジ傲慢なんだぜ?! あんなの相手にしてたら不能になっちまぁ! それだったらせっせとやや子あやしてた方がいいってもんよ』
 瑞穂国はお前の子供か。
 力いっぱいに言い切る志那都比古に俺は少しだけ笑った。しんみりした空気が嫌いなんだろう。俺をからかう性格といい、子育て熱心な男には思えなかったが、今でも豊葦原で神をしてるってことは案外根は真面目みたいだ。
『そうよー? 俺様超子煩悩!! みぃんないい子だ。......ちょーっとオツムが弱い子もいるみてぇだけどな』
 それはどういう意味だ?
 その問いかけには押し黙ってしまった。無理に聞き出す気にもなれなくて、俺はただ無言で野を駆ける。やがて山頂近くにある切り立った崖で光の道が途切れた。
『見ろよ。俺様の都だ』
 大きいな......。
 眼下に広がる京都と似た、碁盤の目のように規則正しく整理された都が広がる。それを見て俺は素直に感嘆した。だが、全体がどんよりとくすんだもやに包まれ、ところどころ立ち上る黒い煙はどこかきな臭い。
『......なんだ? あいつ、町ん中で何を......』
 唐突に花火が打ち上がったような間延びした音が響く。見れば煙がもう一つ立ち上り始めた。
『おいおいおい?! 何してんだよ! 行け幸彦、アイツを止めろ!』
 志那都比古が焦ったように怒鳴った瞬間、後ろから強風が吹いた。油断していた俺はそのまま前に押し出される。
 お前のほうが何してんだよおおおおッ?!
 俺は必死で足裏に感じる岩を蹴って走った。ほぼ垂直の岩場を駆け下りるスリルといったらもう......言葉にならない。この時ばかりは、こいつの御使になんてならなきゃ良かったと本気で思った。
 つんのめりながらも、どうにか何事も無く地面に降り立つ。運動神経は悪いほうじゃないが、それでも転げ落ちずに地面に着いたことが奇跡だ。
『急げよ幸彦。......ほらもっと早く!』
 志那都比古が子供の癇癪のように叫んだ。その尋常じゃない様子に、俺は立ち止まることなくそのまま駆け抜けていく。遠くで全体を見た時もでかいと思ったが、近づいてくると更に大きさが際立つ。だが、近づいてくるにつれてその異様さがみてとれた。
 なんだあれ......。
 実際に都を覆う壁にだぶるように、黒いもやのようなものが浮かんでいる。時折網目のように、複雑に絡み合った文字が浮かび上がった。
『結界だ。アレが俺様を弾きやがったのか......これだけ間近でみりゃ仕組みがわかる。俺様が結界を散らすから、お前は壁を越えろ』
 簡単に言うなよもう......。今度は弾かれないようにしてくれ。
『おうよ任せとけ!』
 壁の高さは、敵からの侵入を防ぐためか、軽く見積もっても一〇mはある。俺は助走をつけるためにさらに勢いを付けて走りだした。
 近づいてくる壁のそばには、何人もの人影が見える。
 頑強に閉じられている門を、丸太でぶち当てて破ろうとしているらしい。走り近づく俺に、そのうちの一人が気づいてなにか叫んだようだった。その場にいた全員が俺を振り返る。
 間違って蹴ったりしないようにしないと。洒落になんないよな。
『ほらよ』
 結界の壁に向かって俺から光の筋が伸び、壁に当たって円状に広がる。その中心にぽっかりと穴が開いた。俺はそれを睨みながら、力強く地面を蹴り上げる。巻き起こした風でふわりと身体が浮いた気がした。何人もが見上げる頭上を、俺は一蹴りで飛び越えてその穴に飛び込む。
「幸彦?!」
 へっ?
 身体が半分入り込んだ所で、俺を呼ぶ声が聞こえた。咄嗟に視線だけ向けると、呆気にとられた表情で立ち尽くすしのかが、そこにいた。


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