三陣-5



 その瞳には当惑の色がありありと浮かんでいる。
 身体が動くようになった俺は、そっとしのかの元へ歩いた。手に鼻先を擦りつけると、震える手でしのかが俺の鼻筋を撫でてくる。
 しのか、西埜女と知り合いなのか?
 ぴいぴい鳴き声を上げた俺は、そこではたと気付く。
 にしのめと、しのか。音の響きが似ている。
『気付くの遅えよ。一文字違いだろうが。しのかの本名は西埜風、西埜女の腹違いの弟だ』
 ......え?
 初めて知ったその事実に俺まで呆然としてしまった。
 しのかの横顔を見上げ、糸をまき散らしては人間に牙を立てる蜘蛛を見やる。眼尻の紅や、その涼やかな目元はよく見るとそっくりだった。
「......あれが西埜女なら、俺が倒す」
 しばらくただ無言で見上げていたしのかは、強くナタを握り締めると前線へと身を躍らせた。
 経親に事実かどうかも聞かず、どうして蜘蛛になったかさえも聞かず、しのかは蜘蛛の命を狙ってナタを振るう。先ほどまでは冷静さがにじみ出ていたが、今は鬼気迫る勢いだ。
「経親様、ありました!」
 布に包まれた物体を持ってきた一人が経親の前に跪き、包みを差し出す。経親は一度地面に下ろした知春を抱き上げながら包みの中身を確認している。目的の物があったのか、経親は小さく頷いた。
「皆の者引け! 弓を扱えるものは火矢を放て!」
 踵を返して社から退出しながら命じる経親に、人の輪もじりりと下がり始めた。
『焼く?! やっぱ俺様んち焼かれちゃうの?! そりゃもうボロボロだけども......! ......ここにはみんなの思い出があるのによォ......』
 がっくりと崩れ落ちるさまが見えるような、無念を滲ませた声で嘆いた。
 諦めろよ。生きてる人間のほうが大事だろ神様。
 俺は志那都比古を軽く慰めると、しのかに視線を戻した。
 女郎蜘蛛は火を放つ準備をしていることを察したのか、幾人もの傭兵の足元をすくうように糸を吐き出す。
 少し離れたところからパチパチと木が燃える音が聞こえ、木々の焼ける匂いが鼻を突く。。既に外に出ている者から火を放ち始めてるのだ。
 一人がそれに脚を絡め取られ転んだのを見て、何人かが助けに向かった。真っ先にしのかが男の元に駆け寄ってナタで糸を切り落としている。すると、そのしのかの胴に糸が絡みついた。捕まっていた男は逃げ出したが、代わりにしのかが蜘蛛に引き寄せられる。
 しのか!
「来るなッ!!」
 駆け寄ろうとした俺にしのかが怒鳴った。その場で足踏みする俺に、しのかはちらりと眼差しを向ける。
「いいから早く行け」
 踏ん張ってもずるずると引っ張られているのに俺に微笑みかけるだけの余裕を見せる。それでも社を出ようとしない俺に、しのかはいはさを呼んだ。
「いはさ! 幸彦を......神鹿を連れ出してくれ」
「はいはいはい! 人使い荒いよ全く!」
 出入り口まで戻っていたいはさはすぐさま引き返し、俺の角を掴んで引き始めた。俺は鳴いて嫌がるが、何人も戻ってきた男が力尽くで、それほど大きくない俺の鹿の身体を持ちあげてしまう。
 風を使って振り払おうとするも、逆に火を巻きあげてしまい、更に社を燃やす結果となってしまった。
 いやだ! この......離せよッ!!
 暴れても多数に無勢だ。引き摺り出された俺は、燃える社を見て鳴き声を上げる。
「......わ、なにこれ?」
 経親の腕に抱かれた知春が目を覚まして身動ぎした。それをそのまま封じ込めて、経親は社を見上げる。
「都を蝕んでいた瘴気の元を断ってるところだ、すぐに終わる」
「ホント? あ、えっと......ゆきにぃ? なにしてんだよお前ら!」
 ぐるりと周囲を見回し、地面に押し付けられるようにして身動きを封じられている俺に、知春がじたばたと男の腕の中で暴れている。
「鹿が火に飛び込まないように抑えているだけだ。知春も落ち着いてくれ」
「落ち着いてるけど......ってなんで俺、経親に抱っこされてんの?!」
 今更のように顔を赤く染める知春だが、経親は少しだけ目元を緩ませただけで知春を離そうとしなかった。
 そうこうしているうちに急に社から地響きが上がり、屋根が吹き飛ぶ。火の粉が屋根の破片とともに飛び散った。何人かがそれに驚いて自分の身を庇う。
「なぎ!」
 咄嗟に身体が動いたのかいはさも俺から離れると、真っ先になぎに駆け寄って自分の身を挺して火の粉から守る。俺はその隙に起き上がって社に向かった。するとさらに上がる轟音。
 屋根を突き破って出てきたのは蜘蛛の足だ。のっそりと胴体が出てくる。攻撃を食らったのか複眼が半分は潰れ、傷口から体液ではなく瘴気をまき散らしていた。その瘴気に反応したように黒い雲が社の上に立ち込める。
 女郎蜘蛛はその黒雲に向かって糸を吐き出した。雲は糸と繋がり、その糸を伝って蜘蛛が上がっていく。
「逃げるぞ!」
「矢を射れ!!」
 風切り音が響き、矢が蜘蛛目掛けて飛んでいく。だが、それらは全て蜘蛛の糸に絡め取られて届かなかった。そのまま上って逃げるかに見えた蜘蛛が動きを止める。
 蜘蛛の背に誰かが張り付いていた。誰かじゃない、しのかだ。蜘蛛の身をよじ登ったしのかは振り上げたナタで、一気に蜘蛛の胴体を突き刺す。溢れ出す瘴気にしのかは噎せるが、それでも何度も蜘蛛の身体にナタを突き立てていた。俺は急いで風を起こして瘴気を払う。
 風に追いやられ空気に霧散していくように見えた黒い瘴気だが、ぴたりと動きを止めた。途端に、まるで形をなすようにある一点に集まっていく。
 その中心にいたのはしのかだった。
 瘴気に包まれたしのかは苦しげに悶え、バランスを崩して蜘蛛から落ちていく。
 ほとんど同時に、蜘蛛の身体もぼろぼろと崩れ始めた。蜘蛛はそのまま原型を留めずに瘴気の塊を散らしながら消えていく。
 しのか!!
 俺は夢中で地面を蹴った。しのかが落ちる先には燃え盛る社がある。落ちた高さもさることながら、あんな炎の中に落ちたらひとたまりもない。
『おい馬鹿やめろ!』
 全力で風を起こして、下から浮かし支える。だが、今の俺の力じゃ人一人支えるだけの風を起こせなかった。減速しながらも炎の中に落ちていくしのかを追いかけて、火の中へ飛び込む。
「幸兄!」
 炎が俺の身体を舐めるその前に、炎が氷の結晶となって消し飛んでいく。その氷は伝染するように社を包み、火を打ち消していった。
 知春がしたことだとわかったが、俺には振り返る余裕はなかった。そのまま奥に進んでしのかを探す。黒く焼け爛れた社の中で、白く浮かび上がった手を見つけた。
 しのか......しのかッ!
 瓦礫に埋もれるように倒れたしのかは、身体は火傷も負っておらず、高所から落ちたにしては大きな怪我がなかったようだった。
 風が無事に守ったのかと、俺はしのかの無事な様子に駆け寄ろうとする。だが。
『駄目だ、幸彦止まれ!!』
 鋭い静止に、俺の身体はビクンと跳ねた。そんな俺の手前で湧き上がる、濃い瘴気。
「......うっ......ぁあああああッ!!」
 その瘴気は、身悶え苦しむしのかから吹き出していた。掻きむしる胸元にきらりと輝く、鏡面。
 西埜女が持っていた、男からの贈り物だという、赤い赤い、鏡。
 それはしのかの身体に埋め込まれ、瘴気を後から後から溢れさせていた。
『瘴気が移ったんだ......』
 移るって......どういうことだよ......?
『血の繋がりを辿ったんだ。半分は繋がってるからな』
 志那都比古の苦しげな声を聞きながら俺はしのかの周りをうろつく。だが瘴気に包まれるしのかに、これ以上近づくことが出来ない。風を起こして散らそうとするが、俺の意志に反して微風が舞っただけだった。
 そこで初めて俺は自分の力が尽きていたことに気づく。
「しのか!」
「大丈夫かい?!」
 追いかけて入ってきたなぎといはさが駆け寄ってくる。だが彼らもしのかが瘴気に包まれているのを見ると、険しい表情に変わった。
「いはさ......ッ」
 悲痛ななぎの声に応じる前に、いはさが拍手を打ち祝詞を唱え始める。しのかの身体を光の帯が包むが、それもすぐさま瘴気に消された。それでも構わずにいはさが演唱を続ける。
「ぅ、っぐああああッ!!」
 苦しんでのたうつしのかに為す術がない。俺が近づくとしのかが瘴気を吐きながら、首を横に振ってぎゅっと自らの身体を抱き竦めた。
「来る、な......っ!」
 嫌だ......なんでお前がこんな苦しんでんだよ......。
 か細い声で鳴いた俺は、そっと近づいてしのかの胸元に顔を寄せた。俺を押しやろうとする手を払って、顔を埋める。瘴気が身体に入り込んで苦痛に身を焼かれたが、この苦しみはしのかも感じているものだ。
 お前だけ苦しませたりしない。
 膝を折ってその場に座り込む俺の身体を、瘴気が包み込んだ。
 悪い志那都比古、お前まで巻き込む。
『さっさと死ぬ気になってるのところ悪いが、もうちょっと踏ん張んなァ』
 俺の中にいる志那都比古が、瘴気に呻きながらも笑い声を上げた。その言葉の意味をわからずにいると、俺としのかの身体を柔らかい水が包みこむ。水の中だというのに苦しみが途絶え、呼吸も出来た。俺はぱちりと瞬く。
 知春?
 身動きしにくい水の中で視線を後ろに向けると、歪んだ視界の中に俺にまっすぐ手を伸ばす知春の姿が見えた。
「うぅ、うー......」
「知春、無理はやめろ!」
「やだ! 幸兄死んじゃうの嫌だし!」
 怒鳴る知春は神通力の消費が激しいのか、肩で呼吸を繰り返して膝を付く。都に雨を降らせ、先ほどまで気絶していたことを考えれば、知春も既に限界を超えてるに違いない。
 知春に寄り添った経親は、眉間に深く皺を刻むと大きなため息を付いた。一度閉じた眼差しを改めて知春に向けるとそっと知春の首筋を手で抑えた。
「っ......」
 驚いた眼差しを向けて知春が暴れる。気が途切れたのか水がぱしゃりと地面に落ちた。見ればぐったりとなった知春を経親が抱き上げている。さっきの仕草でどうにかして知春を気絶させたのだろう。
「神鹿と男を、西埜風を皇居へ運べ。治療をする」
 経親の命令に、何人もが崩れた社の中に戻ってきてしのかを抱え上げる。水を纏っていたおかげか、しのかの周りに立ち込めていた瘴気が薄れていた。
 起き上がれないぐらいに体力を消耗してしまった俺も、丁寧に布に包まれて持ち上げられて運ばれる。必死に鳴いてしのかを呼んだが、しのかは目を覚ますことはなかった。


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