三陣-4
中は絡みつくような濃密な瘴気に満ちていて、俺は常に浄化の風を周囲に纏わせないと呼吸も出来ないほどだった。俺は慎重に周囲に気を配りながら奥に進む。境内にはなにもおらず、そのまままっすぐに神体が安置されている社に向かった。
社の入り口はしっかりと閉じられていて中の様子はわからない。
風で吹き飛ばすぞ。......神体、人質に取られてねえといいな。
『縁起でもねえこと言うなよなァ。壊されでもしたら俺様は高天に強制送還だっつーの』
黄泉の国に飛ばされるよりはマシだろ。
そんな軽口を交わしながら、俺は風を起こして一気に木で出来た戸を吹き飛ばす。何か仕掛けがあるかと思ったが、そこはあっけなく開いた。
中を見ると、そこには黒霧はなかった。だがさらに深い瘴気が満ち溢れている。煌々とした灯籠の明かりが灯されて、奥に向かって座る女の後ろ姿が見てとれた。
西埜女......? 西埜女ッ!
俺の呼びかけが聞こえたように、彼女はゆっくりと振り返って俺を見て微笑んだ。
「お越しをお待ち申し上げておりました。主様」
よかった、無事で......。
『馬鹿ッ! 行くな!』
俺は、踏み出した脚を志那都比古に風ですくわれて転びかける。
なんなんだよ! 西埜女をこっから出さなきゃ、瘴気にやられちまう!
『ちげぇよ......経親が言っただろう。もう、やられてる』
苦しげに吐き出した言葉に、俺は改めて西埜女を見つめた。
西埜女は相変わらずたおやかな微笑みを浮かべている。だが、この瘴気の中で平然とした様は確かに異常だ。俺のように浄化の風に包まれているわけでも、知春や経親のように光の結界を纏っているわけでもない。
むしろ、瘴気にぼんやりと輪郭を滲ませていた。
「どうしたのですか? どうぞお入りになって下さいまし」
脳のどこかで進むな、と危険信号が鳴りっぱなしだ。西埜女は目を細めると、そっと自分の懐から赤く丸い何かを取り出した。
「これは、わたくしがお慕いしていた宮様より頂いた鏡です。とても、素敵でしょう?」
西埜女はそれを俺に見せるように、両手で前に差し出す。鏡面がゆっくりと俺に向いた。途端に、その面から黒く粘りつく糸が俺に向かって伸びてくる。間一髪で避けて後退ると、西埜女がゆらりと立ち上がって俺に近づいてきた。
「彼の君は、わたくしにとても良くしてくださったんです。......謀反を起こして、島流しにされるまでは」
鈴を転がしたように軽やかに笑い声を零す西埜女は、社から出て足袋のまま境内に降り立った。緋袴の裾が、ざわざわと波打っている。ふと苦しげに噎せると、その口からも瘴気が吐き出た。
「......巫女となったことで無性として扱われていたわたくしを、彼の君だけは人のおなごとして見てくださいました。それがとても嬉しかった......触れ合えなくても、良かったんです」
西埜女は鏡にそっと視線を落として、それから強く胸にかき抱いた。それからまっすぐに俺を見る。
その瞳は揺らめいて見えた。透き通った透明なものにも、腐った泥水のようにも移り変わり安定しない。
「彼の君は島流しにされる前に、この鏡をわたくしにお与えになりました。いつ、どこにいようとも、これを自分と思って持ち歩いて欲しいとおっしゃられたんです。......わたくしの気配を隠れ蓑に、藤原家に仇なす呪いの品だと知っても、手放せませんでした。あの方がくださった、唯一のものですから」
微笑んだ西埜女の頬を涙が伝う。瞳から離れた雫は、重力に従って滑り落ちるにつれて、西埜女の肌を焼いた。
「ご神体と主様の依代には、別の者に命じて結界を三重に張らせております。危険はございません。......ご迷惑をおかけしまして、本当に申し訳ありませんでした」
鏡を懐にしまうと、西埜女は深く頭を下げる。
『最後まで自我を保つとはねぇ。俺様が都を離れなけりゃ、ここまで悪化することはなかったかもな。......幸彦、やれるか』
俺は奥歯を強く噛み締めた。身体を突き抜ける衝動のまま、地面を蹴って飛び跳ねる。理性ではわかってる。けど、感情が追いつかない。
俺は西埜女がこんな思いを抱えてたなんて、知らなかった。彼女が話さなかったことでもあるけど、もっと俺が早く聞けば、こんなことにならなかったんじゃないのか。
そう思うと悔やみ切れない。自分のことしか考えていない俺自身が歯がゆくて、馬鹿で嫌いになりそうだ。
泣いて喚いてどうにかなるんだったらそうしよう。けど、それじゃ物事は動かないことを俺は知ってる。
嫌で苦しくても、ここで西埜女を止めることが俺の役目だ。
俺が起こした吹き荒れる風で西埜女の髪や裾がはためく。一部が鋭い刃となって、西埜女の頬にうっすらと赤い線を描いた。
西埜女は目を閉じると、胸の前に手を当てている。小指の爪がぽろりと剥がれ落ち、その中を蠢く黒いモノが見えた。
せめて彼女が、醜い物の怪に化ける前に人の形のまま、送ってやりたい。
ごめんな、西埜女。
謝っても謝りきれない気持ちを乗せながらも、彼女のためにも俺は精一杯の力を込めて風を解き放った。身を切られた彼女の身体から真紅の血が舞い、胸元から零れ落ちた鏡にヒビが入る。
そのまま彼女は、後ろに倒れこんだ。
『......よくやったな。お前偉いぞ、褒めてやる』
嬉しくねえよ......。
西埜女が倒れたせいか、周囲の瘴気が急速に散っていく。周辺の瘴気がなくなると、都に張られていた結界も薄れていった。
俺はゆっくりと地面を蹴って西埜女に歩み寄る。目尻の紅を自らの涙で滲ませていたが、その美しさは変わらない。
西埜女......。
俺はもっと良く顔を見ておこうと更に近づき、頭を下げた。すると、もう永久に開かれるはずのない瞼が震える。カッと開かれた瞳には白目が消え、漆黒に塗りつぶされていた。
『逃げろッ!!』
志那都比古の静止は間に合わなかった。西埜女に角を掴まれた俺は、寝ていた女性の腕であっさりと投げ飛ばさられて社に激突する。身体中の骨がみしみしと嫌な音を立てた。
くっそぉ、無意識に手加減でもしちまったのかよ俺......。
ぼやける俺の視界に、ゆらゆらと揺れる人影が見えた。だがそれは徐々に形が崩れていく。周囲を見回す複眼、八本に別れた脚。毛に覆われた黒い身体。俺の顔を覗き込んだ軽自動車ぐらいの大きな蜘蛛は、距離を取るように大きな身体で機敏に動き、天井に張り付いた。
『女郎蜘蛛か......! おい、なにしてんだよ早く立てって......幸彦ッ!!』
そうまくし立てられても動かねえんだよ身体が。
神通力を体内に回して回復をはかるが、ダメージが大きすぎたせいか、身体が上手く動かない。
ずるりと、脚が引っ張られた。見れば黒い糸が俺の脚に絡みついてる。天井にへばり付いた女郎蜘蛛が伸した糸に引きずられ、俺は逆さまに宙吊りにされた。
するすると糸を伝って下りてきた蜘蛛に、身体を巻き取られる。そうなると、身動ぎすら出来なかった。
あ......、駄目そう......?
『縁起でもねぇこと言うなッ! 踏ん張れよ!! 言うこと聞かねえと黄泉国に落っことすぞ?!』
志那都比古の起こした風が、金色に輝いて俺の身を守ろうとする。だがそれは何十にも絡みついた糸に、あっけなく打ち消されてしまった。
俺を心配して喚く志那都比古の声が悲痛で、ちょっとだけ可哀想になった。豊葦原では自分の体を持たないで御使の身体にしか入れない。多少の能力があっても、声すら俺にしか届かないのだ。
糸に包まれた俺に接近した蜘蛛が大きく口を開き、鋏角を突き立てようとしたその時。
風を切る音が俺の直ぐ側を通り過ぎた。蜘蛛が糸を揺らして天井へと逃げていく。
「幸彦!!」
弓矢を手に持ったしのかが、社に飛び込んできた。しのかはいくつも蜘蛛を狙って矢を放つ。それを援助するように、別の角度からも矢が飛んだ。
「わー鹿の簀巻き」
「余計なこと言ってないでアンタも働きな! 飯抜くよッ?!」
開け放たれた出入り口に立って矢を放ったのはなぎだ。その影からこそこそと入ってきたいはさが、俺の真下までやってきてパチンと拍手を打つ。
いはさが祝詞を唱えると、黒い糸が燃え上がった。だが、その炎は俺を焼かずに糸だけを燃やしていく。耐久性がなくなった糸はぷっつりと切れ、俺は床に落下した。
「大丈夫かい?」
残った糸を払ってもらいながら、俺はようやく立ち上がる。頭に血が下がりすぎて少しだけ目眩を感じた。
気づけばしのかやいはさたちだけじゃなく、武器を構えた男たちが社の中に入ってきていた。一部は似通った格好をしているが、ほとんどは統一性がない。それでもそれぞれ連携を取って蜘蛛に攻撃を仕掛けていた。
そっか......結界が消えたからみんな都に入ってこれるようになったのか......。
回復に神通力を使いながら、俺は周囲を見回す。蜘蛛は半壊した社の天井を素早い動きで矢を避けている。天井に張り付いているせいで、刃物は届かない。
時折糸を吐き出した蜘蛛は、絡めとった人をそのまま引き寄せて食らい尽くしていた。
「幸彦、大丈夫か?」
蜘蛛に矢を放ちながらしのかは俺に駆け寄ってきた。
しのかはなんでいるんだ? 国外れで妖怪退治してたんじゃねえのかよ。
ピィピィ鳴いても通じない。しのかは「無事でよかった」と俺の額に自らの額をくっつけて一度目を閉じる。それからすぐさま踵を返して戦線に加わった。
俺はこんな状態にもかかわらず、しのかのその仕草に胸が高鳴ってしまった。
『ダァリンと盛り上がってる場合じゃ......』
わかってるってッ!!
志那都比古の小言に怒鳴り返した俺は、みんなを手伝おうと風を巻き起こした。風は蜘蛛の脚を一本飛ばし、ぐらついたところで更に強風で蜘蛛を床に振り落とす。
「せやぁああああッ!」
弓を投げ捨てたしのかが、腰からナタを引き抜くと斬りかかった。それに釣られたように、何人もが斬りかかる。そうなると今度は俺が下手に手を出せない。
どうにかできないかと様子を伺っていると、また一人社を覗く人影が見えた。濃い紫色の着物を纏った長身の男......経親は気を失った知春を抱き上げていて、俺の姿に気づくとやや不機嫌そうな表情を浮かべた。
だが、すぐに視線をそらすと駆け寄ってきた男に命じた。
「ご神体を探せ。琥珀だ。見つけ次第持ちだして、あの蜘蛛ごと社を焼く」
その声を聞いた男のうち、二、三人が女郎蜘蛛を無視して奥に向かって走りだす。見ればどれも似通った烏帽子を身につけて上品な服装をしていた。
蜘蛛に相対していたはずのしのかが、同じように声に反応して後ろを振り返る。
「げ、経親......」
呟いたしのかの声が耳に入ったのか、経親はしのかを見て目を見開いた。
「.........にしの、か?」
「......」
しのかはそわそわと落ち着かない様子で視線を外すと、蜘蛛に向き直る。何事もなかったかのように剣を構えたしのかに、経親は眉間に深いシワを寄せると知春をその場にそっと下ろした。
大股でしのかに歩み寄ると、ぎゅっと握った拳をしのかの後頭部に思いっきり振り下ろした。
「っ~~~ってえええええな! 何すんだよ、ちか!!」
「うるさい! それはこっちのセリフだ! どうしてお前がここにいるんだ?!」
「見りゃわかるだろ、退治屋してんだよ俺は」
言い切ったしのかに、経親は唖然とした表情を浮かべた。その隙に走りだそうとしたしのかだが、すぐに経親に襟を掴まれ引き戻される。
「んだよ、今お前と喧嘩してる時間はねえだろうが!!」
「お前がこの十年以上、どこで何をしていたかは後で聞かせてもらおう!」
「だったら......」
「良いから聞け!」
攻撃されている仲間を気にしてか、しのかが視線を蜘蛛に戻そうとするが、経親はそれを更に大きな声で遮った。しのかを見つめるその表情には苦々しいものが浮かんでいる。
「......あの蜘蛛は、西埜女だ」
「.........え?」
しのかはひどく狼狽したような、途方にくれた子供のような表情で女郎蜘蛛を見上げた。