四陣-6
「ずっと寝ていて腹も空いただろう。ここに膳を用意させよう」
「うん。......っあ、そうだ忘れてた! 知春を向こうに戻さなきゃ!! しのか、俺の甥......知春は知らないか?」
『......お前、まだ気付いてないのか』
自分は永住することが決定していたせいで、すっかり忘れていた。何かを告げている志那都比古は意識の外に追いやって、経親に呼び出されていたしのかに尋ねる。するとしのかはどこか嬉しげに目を細めた。
「経親のところで会うには会った。......お前たちは良く似た美しい顔立ちをしているな」
指先で頬を撫でられ、さりげなく褒められて、こそばゆいしのかの指先を弾きたい気持ちと、そのままにしておきたい気持ちが交差する。
迷ったが結局しのかの指はそのままに、俺は少しぶっきらぼうに告げることにした。
「う、つくしいかはともかく......俺は姉とも似てるから、知春と似てるのも不思議じゃないだろ」
「そうなのか? 知春殿なら今の時間、経親と食事をされているんじゃないか。なんならそっちに膳を用意するようにするか。身内同士、話すこともあるだろうし」
何気ないしのかの気遣いに、俺はそのまま受け取って頷いた。『あーぁ』なんてわざとらしいため息を零す志那都比古は当然無視。
「あぁ......できるんならそうするかな」
「判った、伝えてくる。お前は俺が連れて行くから、無理はするなよ。それでは志那都比古様、失礼致します」
俺を甘やかすしのかの指が、優しく頬のラインを辿る。その柔らかな感触のくすぐったさに首を竦めると、志那都比古に一礼をして出ていくしのかを見送ってから、はたと気づいた。
「ん? ああもう馬鹿だな俺。知春がこっちで飯食べれるわけないじゃないか」
仕える神がいないとはいえ、知春も御使なのだから、通常の食べ物は吐いてしまうはずだ。そんな知春の前で俺だけ食事を取れるはずがない。戻ってきたらしのかにそれを伝えて食後に会おう。
そんな風に俺が考えていると、社から物凄く大きなわざとらしいため息が聞こえた。ずっと無視していた俺に対してのあてつけなのか、志那都比古はことさら大きな声を張り上げる。
『だーかーらー、俺様言ってんじゃん? ちゃんと聞けよ幸彦。お前の甥っ子、もうとっくに戻れなくなってるって』
あきれ返ったようなその口調に、俺はぐぎぎと音がしそうなほどゆっくりと首を巡らせた。
戻れ、ない......?
今度の志那都比古の言葉は聞き捨てならなかった。
立ち上がることが出来ない俺は、這うようにして社に近づき、がしっと両脇を掴む。中で琥珀がぶれたのか、ことこと音がした。
『ひっ......?』
志那都比古が、怯えたように息を呑む。
ははは、おかしいなあ、神様が俺なんかに怯えるって。......なあ?
「なに、それ。どういうこと......?」
静かな声で問いかける俺に、志那都比古は口ごもる。その鈍い反応にイラッと来た俺は乱暴に揺さ振った。
『おおおい、なにしやがんだてめぇ! 割れたら強制送還だぞ俺様?!』
「いいから! きちんと説明しろって言ってんだよッ!!」
『だから、説明も何もなくて! 知春はもうこっちでうず煮食ってんの!!』
悲鳴交じりの志那都比古の声に、俺の頭の中は真っ白になった。
俺が留まる事になったのは、しのかを助けるためにうず煮を食べたからだ。特殊な製法で作ったものだと経親が言った。
それを、もう、知春が食ってる......?
俺は知春を日本に帰すために豊葦原に来たってのに、その知春が帰れない......?
「......どうして知春があの雑炊食ってんだよぉおおおお?!」
俺はいよいよ本気で社を壊さんばかりに揺さぶった。志那都比古から悲鳴が上がる。
『し、知らねえよ! 俺様、お前と一緒に向こう飛んでたしッ?! こっちに来た時にはもう......ぎゃ、ぎゃあ! マジ割れるマジ割れる! ......おかぁさーんッ!!』
涙混じりにとうとう伊邪那美大神まで呼び始めた志那都比古の社から手を離すと、抜けたままの腰で俺はよろよろと立ち上がった。このあたりは根性だったと後で思う。壁伝いに歩きながら部屋を出ると、たまたま通りかかった女中を捕まえる。
「知春はどこにいる?!」
その時の俺の形相はあまりに凄かったに違いない。両肩を掴まれた女中は、俺の顔を見て血の気を失っていた。
「ち、知春様であれば、お部屋でお食事を取られている頃かと......」
「その部屋、案内して!」
「は、はぃいい......!」
俺のあまりの剣幕に、女中は泡を吹かんばかりに驚いている。俺に急に捕まった女中には悪いと思うが、それでも俺は女中を急かして歩き始めた。
「幸彦?!」
俺の部屋に戻ろうとしていたらしいしのかが、俺の姿を見て駆け寄ってきた。
「どうしたんだ急に......」
「ちょ、どけよ!俺は知春に会いに行くんだから!」
「知春殿に?」
訝しげに尋ねたしのかは少しだけ思案した後、女中から俺を引き剥がして抱き上げた。
「わぁっ?!」
「俺が連れて行くと言ったのに......そんなに知春殿に会いたかったのか」
「どうでもいいから早く!」
「......はいはい」
しのかは俺の剣幕にわずかに眉をひそめると、俺を抱き上げたまま部屋に戻り始めた。
「しのか?!」
「今は無理だ。行くな」
「なんでだよっ!!」
今すぐにでも知春に会って事実を確かめたかった。それなのに俺は割り当てられた部屋に戻される。襖を開けて部屋に入ったしのかは、屋根の一部が壊れた社を見てそっとため息をついた。
「離せよっ!!」
「落ち着け幸彦」
「落ち着けるか!! 俺は知春に会わなきゃなんないんだよ!」
しのかを押しのけてでも進もうとする俺を、しのかはあっさりと押さえ込んだ。抱き込まれて苦しいぐらいだ。
「はーなーせーッ!」
俺が恨みがましい口調で唸ると、しのかは少しだけ視線を彷徨わせた。その頬が仄かに赤いのは、気のせいだろうか。
「今は行かない方がいいって言ってるだろう」
「理由を言え理由を!」
俺の剣幕に、しのかはわずかに口ごもったように見えた。いや、ただ単に知ったことを俺に伝えにくかっただけかもしれない。
「接吻、していた。あの二人は、恋仲らしいな。知らなかったが......今出川殿も、入らないようにと助言してくれていたのに」
言いにくそうな表情で告げたしのかを、俺はマジマジと見返した。
「誰が?」
「経親と、知春殿が」
「......え? なにしてたって......?」
「だから、接吻」
せっぷん。口づけ。......キス? 知春と、......経親が?
『西埜風お前馬鹿やろおおおおおお!!』
「ッ?!」
志那都比古が叫んだのも無理はなかった。俺の感情の起伏に応じるままに、湧き上がった風がしのかや、志那都比古の社、それに衝立や襖、天井までもを荒らしのように吹き飛ばし始めたのた。しのかはその風に吹き飛ばされたが、俺は風の中心で呆然と立っていた。
俺の中に風とともに溢れ出たのは、経親に対する深い怒りだ。
あの男はあった時から知春に対して格別の感情を見せていた。傲慢に振る舞うのがまるで当たり前のような男が、知春に対してだけ見せる優しげな表情に気遣う態度。それは単に異世界から現れた迷い子に対しては、丁寧すぎたのだ。
俺は風で気配を探ると、その気配がある方向に無言で歩き出した。
「幸彦!」
『あーぁ......ったく......』
諌めるしのかの声も、呆れた志那都比古のぼやきも俺には届かなかった。ただまっすぐに、知春のいる場所に向かう。