四陣-7



 節々の痛みとか、全然気にならなかった。ある意味一種のハイ状態だったんだろう、驚いた表情の女中の脇を通り抜けていくと、廊下に憮然とした表情の今出川が立っていた。
 今出川が立っている部屋の中には、知春の気配がある。目が合うと戸惑ったようだが、俺の気迫になにか不穏なものを感じたのか、今出川はその高身長で俺の邪魔をすべく立ちはだかった。
「御使殿?......っ、今は、どうかお控えくださいませ」
 そう声を潜めた今出川の背後からは、知春の声が聞こえてきた。
 豊葦原の建物は基本的に木造だ。襖の上には鳳凰と思わしき細かい木の装飾が施された欄間がある。そこから明かり取りや、室内の空気の取り込みをしていることが伺える。
 しかし、そこが空いてるってことは、中のこえもだだ漏れってわけで......。
「ふぁ......っん......ちか、ぁ」
 いくら脳内で否定しようとしても、聞こえてきた掠れた甘ったるい声は知春のものだった。
「......」
「......あの、御使、殿......」
 だんだんと俺の顔色が変わっていくのを間近で見ていた今出川の表情が引きつる。俺はぐっと拳を握ると、殴りこみたいのを我慢しつつ声を張り上げた。
「知春! いるんだろう出てこいッ!」
 怒鳴り声に反応したのか中で大きな物音が鳴った。ドタドタと畳を動きまわるような物音と、何かがぶつかる音が聞こえる。
 俺は腕を組んで仁王立ちしながら知春が出てくるのを待った。そうしている合間に、しのかが駆け寄ってくる。
「少し落ち着け幸彦」
「うっさい」
 振り返りもせずに低い声で告げる俺に、しのかは今出川と顔を合わせる。今出川が微かに首を横に振ってうなだれたのを見て、しのかは軽く息を吐いて微苦笑を浮かべた。
 そんな様子も、知春が出てくるのを今か今かと襖を睨みつけている俺は気づかなかった。
「時臣、通せ」
「経親?!」
「はっ」
 落ち着いた声と、動揺がにじみ出る悲鳴。
 今出川は即座にその場に膝を付くと、複雑そうな表情のままそっと音もなく襖を開けた。
 ......出てこいって言ったのに、出てこないとはいい度胸じゃねえか。
 俺の感情の起伏に合わせて風が服や髪をわずかにはためかせる。中に入ろうとした俺の腕を、しのかが握った。
「......んだよ」
 出鼻をくじかれた俺はしのかを見やる。
「あまり感情的になり過ぎるなよ」
「......しのかには、関係ない」
 ムカムカと腹が立ちながら、俺は顔を逸した。本当は手を振り払おうとしたのに、しっかりと手首を握られているためにそれも叶わない。しかたなくそのまま俺は部屋の中へと足を進めた。
「っ」
 中に入ると、思ってもみなかった光景が広がっていた。
 ひっくり返った一つの箱膳と、端に追いやられたもう一つの箱膳。
 そして普段は結い上げていた髪を垂らしたままの経親とその膝の上に乗って、俺を見て頬を引きつらせる知春。
 経親は服装が乱れて厚い胸板を覗かせていたが、堂々とした態度で俺を見据えていた。同じように服を乱していた知春は、懸命に服装を直そうとしているが、腰に回った経親の手が邪魔でそれはうまくいっていない。
 それどころか足をばたつかせたせいで裾がめくれ上がり、点々と小さな鬱血が残る太ももが顕になった。その足をさっと裾で隠して、血の気の失せた表情で俺の顔を見上げてくる。
「つ、経親......ほら、下ろせって.........ははは......ゆ、幸兄起きたんだ......。元気そうで、なにより、です......?」
 知春は自分の身体を拘束する手をつねったり引っ掻いたりしているが、経親は知春を手放そうとしなかった。
 そんな光景を横目に、今出川はひっくり返った箱膳の片付けに勤しみ、しのかは今にも殴らんばかりに怒りを溜め込んでいる俺の手首を強く掴む。
 殴りたい。あの悠然と笑みを浮かべた男を殴りたい。
「目を覚まされたか。ちょうどいい、御使殿に相談事があるのだが」
「あぁ?!」
「ひぃっ」
 俺がガン付けたのは経親だったにもかかわらず、膝に乗ったままの知春が小動物のように身をすくめる。ああ、そう言えばこいつは仮姿は兎だったっけ、なんてくだらないことを思い出した。
 知春は俺が怒ったところを見たことがないから余計怖いのかもしれないが、知春を怖がらせないために態度を軟化させようとはこれっぽっちも思わなかった。
「てめえの話の前に、俺に話させろ。......知春を保護してくれて助かった。それだけは感謝する。でもどうして知春にうず煮を食わせやがった?! てめえなら知春が『御使』だって気づいてたんだろう!!」
 身を乗り出して怒鳴る俺に、しのかが抑えこむ。風を巻き起こそうとするが上手くいかない。
 大きく舌打ちをすると『あんま責めるなって、な?』そんな声が響き、俺はしのかを睨んだ。
 感情が高ぶりすぎて気づかなかったが、しのかの胸元から志那都比古の気配を感じる。しのかは志那都比古のご神体を持ってきたのだ。
 俺が使う風は志那都比古の属性で、本人の許可がなければ力が使えないことを知って唇を噛んだ。先ほどのように唐突であれば手が打てないようだが、志那都比古は俺を抑えこむつもりでいる。
「御使だと気づいたからこそ、だ。これほどの稀有な力、逃す手はあるまい」
 にやりと唇を歪めた経親は知春を前にそんなことを吐き捨てた。驚いたように目を見開いた知春の表情は、俺の目には傷ついたようにしか見えなかった。
「ふざけんな! 知春はてめえの道具じゃねえ! しのか離せって、......邪魔すんな志那都比古!」
 殴ってやろうと思うのに、しのかは俺の両手首を掴んで離してくれない。ならば風を起こそうと思っても、それは志那都比古に阻止される。
 感情が高ぶって目頭が熱かった。
 知春にうず煮を食べさせた経親が憎い。神通力の潜在量が多いから、たまたま近くにいたからという理由で、知春を豊葦原に連れてきたという志那都比古が憎い。
 ......でもなにより、無防備に、あんな無防備に祝詞を唱えて知春を巻き込んだ俺が、一番憎かった。
 少しでも用心しておけば、巻き込まなかったんだ。俺は自分の意志で豊葦原に来た。
 たとえ野垂れ死んだとしても自業自得だけど、知春は違う。
 まだ高校生になったばかりで、将来はゲームデザイナーになりたい......なんて夢を持ってたはずなのに、一生日本に帰れないような目に合わせたのは俺だ。
 経親や志那都比古を責める前に、俺はしなくちゃいけないことがある。
「知春ごめん......俺が考えなしに、こっちに来ようとしたから、巻き込んで......本当にごめん......」
「幸彦......」
 激高は後悔と自責の念に取って代わる。俺ががくりと膝をつくとしのかの拘束が弱まった。
 だからといってもう、経親に殴りかかる元気もない。痛ましげに俺を見下ろしたしのかは、俺の背を大きな手で撫でた。
 蹲るように頭を下げた俺に、知春は経親の腕を押しやって立ち上がると、俺に駆け寄って手を握った。
「えっと......よくわかんないんだけど元気出して幸兄。俺平気だよ。さっきあんなコト言ったけど、経親、俺に優しいから」
「知春......聞いてくれ、お前がこっちの世界、豊葦原に来たのは俺のせいなんだ」
「......うん。幸兄、なんかしてたもんねあのとき」
 俺は言葉をなくしてしまった。知春は俺が原因だと知っているのに、それを責めようともしない。
 溢れる涙がただ頬を伝い、呆然とした俺に知春は慌てたように自分の身体をぱたぱたと叩いたあと、着物の裾で俺の目元を拭った。
「泣かないでよ幸兄。それに、おれちょっと......うん、こっちに来たこと、良かったかなって思えるようになったんだ。それにうず煮食べたのは、俺の意思だよ」
「え......?」
「こっちで何も食べられなくてさ、ほんと水しか飲めなくて......ほら俺って日本の現役高校生じゃん? 三日も四日も、目の前に食事があるのに食べられないなんて、したことなかったんだよなぁ」
 軟弱でごめん、なんて言って知春は照れくさそうに頭を掻いた。それを見て俺は更に涙を零す。
 俺がすぐに引き返してくれば良かったんだ。仕事なんて気にしてないですぐに豊葦原に飛んでいれば、知春だけでも帰せたかもしれない。
「ふん。過ぎたことを悔やんでなにがある」
 大きくため息をついた経親は、知春に手を伸ばすと裾を引き、バランスを崩した知春をそのまま抱き込んだ。その行動に身を捩ろうとする知春を抑えこんで、首筋に口付ける。知春はみるみるうちに顔を赤く染めた。
「つ、経親!」
「俺は知春を引き止めたことを後悔なぞしておらん。これは俺の嫁だ」
「よめ......?」
 経親の口から出た突拍子も無い言葉に俺は顔を上げた。逃れようとする知春から抵抗を封じて無理矢理に唇を奪う。呆気に取られた俺を見て目を細めると、知春の下唇を軽く噛んで唇を離した男は、壮絶な色気を振りまきながら微笑んだ。
「もし知春が御使としての知識があり、自らの力で大和に戻れたとしても、俺はどんな手を使ってでも離しはしなかった。故に貴殿もくだらぬ世迷言を告げて、知春に里心を持たせるのはやめろ」
 ......。
 不遜な物言いで相変わらずむかつく男だが、これはもしかして、俺を慰めようとしている......んだろうか。


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