四陣-8
無言で見やると鼻で笑われる。......あ、やっぱ慰めるなんてねーわこいつ。
小憎らしいと思う反面、どん底まで沈んでいた気持ちが多少は浮く。きゅっと唇を結んで見上げると、男は面白そうに唇を歪ませた。
「嫁ってなんだ嫁って。知春は男だぞ」
「それは十分......知っている」
「経親!」
何を考えているのか、笑みを深くした経親が知春の腰をゆっくりと撫でる。男の手でセクハラされる知春が不憫だった。
「とりあえずこっち来い知春」
大事な甥っ子を魔の手からから守ろうと手を掴んで引く。だが知春は少し悩んだ表情は見せつつも、経親の膝上から降りようとしなかった。
「知春?」
俺の呼びかけに知春は少し恥ずかしげに膝をすりあわせたあと、上目遣いに俺を見つめた。
それは知春が欲しい物やして欲しいことがあるとよく見せる仕草で、ここでその動作が出たことに俺は嫌な予感を覚える。
「なにしてんだ、そんな変態から離れろ」
「ん......いや、その......まぁ、ね? つぅか、さっき見てたらわかんだろ」
照れたように笑った知春は膝からは下りたものの、経親の隣に腰を下ろしただけで俺の元まで来る気配はない。やがてそっと隣を見上げて、経親と視線を合わせる。
すると知春と視線を合わせた経親は今までに無いほど優しい笑みを浮かべてみせた。その明らかに通じ合っている様子に、俺は納得したいような、でも抗いたい気持ちに陥る。
「......何をわかれってんだよ」
「俺が、さ。嫌いな奴に、あんなことさせるわけないじゃん。よくわかんないなりに力の使い方も覚えたし」
知春は自分の人差し指を立てると、その指先に向かってふうっと息を吹きかけた。知春の吐息は神通力で水の塊に化けて、まるでろうそくに火を灯したような形と動きでゆらゆら揺れる。風を扱う俺が他の物体をあんな風に扱えるかは微妙なところだった。
その天性ともいえる知春の才能に俺は舌を巻く。力の属性は違うが、コントロールも潜在していた能力も、確かに知春の方がはるかに上だった。
「へえ......」
『すっげぇ......いいないいなー』
しのかが驚き、志那都比古が無邪気に羨むのも嫉妬を感じないわけではないが、相手は知春だ。得意な事があってもそれを鼻にかけたりなんてしない。今もすぐにふっと再度息を吹きかけて空気中に水分を散らすと、知春は居住まいを正した。
「幸兄」
じっと見上げてくる知春の表情は真面目だ。俺は何かと嫌な予感を覚えながら、緊張感に背筋を伸ばす。
「経親ね、実は俺を日本に帰そうとしてくれてたんだ」
「え?」
朗らかに告げた知春に思わず俺は経親に視線を向ける。だが、経親は俺と目が合う前に顔逸した。わずかに眉間に皺が寄って不機嫌そうに見える表情は、まるで俺にその事実を知られたくなかったのようにも見える。
わざと憎まれ役を買って出たとでもいうんだろうか。......こいつが?
「でも、駄目だった。......本当はいろいろあったんだよ」
知春は少しだけ遠い目をして空を見つめると、ふっと閉じて改めて俺を見据えた。
「母さんがいないから......もう会えないから、代わりに幸兄に言う。俺、経親が好きなんだ。帰れないなら、経親の側に居るって決めた。そう、決めたんだ」
「......ちはる」
俺は小さく唸った。口調からはなみなみならぬ決心が感じられる。知春の言ってることは事後承諾で、決めたことをただ報告してるだけだ。
でも俺が反対したところで、言うことを聞くとは思えなかった。そしてつい最近、似たように俺も決心をしたばかりだ。
斜め後ろに座るしのかを見やると、経親が知春に向けたような愛情の篭った眼差しを向けられた。
俺は、しのかがいれば豊葦原で生きていけると思った。知春も一緒だろう。そして知春がそんな選択肢を取る要因を作った俺にも責任がある。
「知春。伊津美は、お前のはお母さんは隣国の秋津国の御使だ。依代を通す形になるが、会うことは出来る」
その話は知らなかったのか、知春は驚いたように目を見開いた。
「......え? 母さんが......?」
「ああ。こっちに来るって言って聞かなかったんだけど、伊津美はそんなに神通力を持ってなくて、来たら帰れないから残ってもらったんだ」
能力だけで見れば鳶が鷹を生んだ、ぐらい言ってもいいぐらいだと思う。今回力が強すぎたばかりに、知春は豊葦原に来ることになったけども。
「本当に、御使同士は血の繋がりがあるんだな......」
経親もつい、といった風情で口を挟んだ。知春はまだどこか呆然としていて反応が鈍い。
「俺も、俺と知春が日本に帰れなくなったことを謝りに行くから、一緒に会いに行こう」
止む終えない事情とはいえ、帰れない選択肢をしたのは俺であり、知春だ。通常なら豊葦原から帰れないことは生き別れになるのも同然だが、まだ御使である伊津美には会える。
俺の呼びかけに知春は小さく頷いた。やがてその表情に喜びが溢れていく。
「母さんに、また......会えるんだ............っ......うぁ、やば......俺......」
みるみるうちに知春の瞳に涙が浮かんだ。恥ずかしげに指で目元を拭うが、後から溢れ落ちる雫は止まらない。頬を濡らす知春を経親が抱き寄せるて自分の胸元に凭れさせると、手にしていた扇子で俺としのかの視線から隠すように知春の顔を覆った。
「良かったな」
「うん......」
経親の胸元に顔を埋めた知春は、男の着物を強く掴んだ。知春の白くて細い手がかすかに震えて、小さく嗚咽が漏れるのが聞こえる。
いくら気を張ろうとも、知春はまだ一六歳だ。それを一層痛感した。
経親は愛おしそうに知春を抱きしめると、ぱちんと扇子を閉じてその扇子で俺達を追いやるような仕草を見せた。
言われなくったって空気ぐらい読むって。
軽くにらみ返していると、部屋の端で控えていた今出川が音を立てずに動き、障子を開ける。そのまま促されて俺はその部屋を後にした。もちろんしのかも一緒に出てくる。
今出川が部屋に案内してくれるというので、俺は一度戻ることにした。怒りで我を忘れていた時とは違い、力が抜けて足元が覚束ない俺をしのかが軽々と抱き上げる。
「っしの」
「大声は出さない方がいいんじゃないか」
怒鳴りかけた俺をしのかがそう牽制したせいで、俺は下ろしてもらう間も与えられずにそのまま運ばれる。前を歩く今出川はそんな俺の様子など気にも掛けずに重そうな息を吐いた。
「知春様はずっと気を張っておられたんです。力は強いと言えど、まだお若い。細い体で民の希望を一身に受けて、無茶なこともされました。......あんな、安堵したような表情は初めて見ました」
「そう、か」
「はい」
視線を床に落とした今出川は、少し切なそうな表情で笑った。なにか含みを感じられたが、それは容易に尋ねられる雰囲気ではなくて、俺は頷くまでに留める。
「御使殿が降臨してくださって本当によかったです。知春様をどうかこれからも支えて差し上げてください」
部屋に着いて今出川は深々と頭を下げると、その場を後にした。しのかは俺が壊しかけた社に志那都比古の神体を戻している。何か志那都比古がしのかに告げているが、俺にも聞こえているはずのその声は素通りをしてただの音にしか聞こえなかった。
「知春はこっちで大事にされてるんだな......良かった」
布団に戻された俺は、今出川が出ていった襖を眺めて呟く。
あんな風に泣く知春を見たのは初めてだったのは俺も同じだ。怪我をして大声を出して泣くことも、喧嘩で怒りながら泣くのも見たことはある。だけど声を堪えて泣く知春に、俺は何をしてやれるだろう。
無言で考え混は、俺の側で膝をついた。俺の顔を覗き込んだしのかが、俺の頬を包んで自分の方に顔を向けさせる。
「なんて顔をしている」
「............」
俺はわずかに顔を横に振ってしのかの手を押しやろうとした。だがしのかは離してくれようとはしない。
「思い通りにならないことは、世の中いくらでもある」
「けど......っ」
目の前が歪みかけて、俺は慌てて瞬きで水分を散らした。
駄目だ。俺が泣いたらいけないんだ。知春はもっと辛いんだ。
しのかの手を嫌がり続けていると、軽く息を吐いた男に抱きすくめられる。俺を慰めようとしてくれていることは嬉しいが、その好意を素直に受け止められるほど俺は若くない。どうしても、意地を張りたい。
「離せって......」
抗おうとする俺にしのかは強引に口付けを交わして俺をそのまま押し倒した。俺の顔の両脇に手をついた男は、何やら機嫌が悪そうにしかめっ面をしている。
「しのか......?」
戸惑う俺に、しのかは人差し指を立ててとんと俺の胸に押し当てた。
「知春殿が幸彦の甥であることはわかったが、心を占領されるのは気分が良くないな」
さっきまで静かに話を聞いていてくれたしのかの、思わぬ心情の吐露についぽかんと見つめてしまった。俺の視線を受けたしのかは、ややバツが悪そうに口をへの字に曲げるが、俺の上から退こうとしない。
「それとこれとは話が違うだろう?」
俺はしのかを恋愛感情で好きだが、知春はまた違うベクトルで好きだし大事に思っている。この地では唯一の家族だ。
そう訴えてもしのかは納得しなかった。
「違わない。知春殿には経親がいる。ああ見えて経親は小さい頃から情は深いんだ。知春殿は、大和で生きる以上に豊葦原で幸せになるだろう。だからお前はお前で、俺とのことを考えてくれ」
「って言われても......」
何を考えろと言うんだ。
ピンとこない俺が視線を彷徨わせていると、しのかは大きくため息をついた。
『意外に鈍いんだから、きちんと言ってやれよ』
志那都比古がそうのんびりと声をかけると、しのかは俺を見つめながら頷く。
「そうですね......」
な、何を言われるんだ俺は。
「俺は幸彦の実姉に紹介してくれないのか」
「あっ」
身構えていた俺は、しのかのため息混じりの言葉に口元を抑えた。
すっかり忘れてた......なんて言ったら怒られそうだ。だけど俺の態度から察したらしいしのかは、そのまま力尽きたように倒れこんできた。完全にしのかに乗られて俺は喚く。
「わ、馬鹿重いぞ」
「お前は本当に天女のようだ。捕まえたと思ってもいつの間にかすり抜けていく」
少しトーンの落ちた声で呟いたしのかは、その太い腕で俺を胸に抱き込んだ。身じろぎしようとするが、少しも身体を動かせない。抜け出せないなら仕方が無いかと、俺はそっと抱き返す。
「すり抜けてなんかないだろ。お前が今しっかり捕まえてるじゃねえか」
「身体はな。心はまだだ」
しのかはなんだか悔しそうにぼやいたが、よくわからない。
重いと言ったが、しのかはあまり俺に体重をかけないようにしているせいか、それほど息苦しさを感じない。筋肉質な男の体温が高くて案外心地良かった。口に出しては絶対言えないが、力強さにちょっと安心を覚えた俺はそっと目を閉じる。
いつまでもこんなことしていられない。......だから、今のうち、だけ。
瑞穂国は今秋津国とは国交断絶しているはずだ。それをまずは復交してもらわないといけない。伊津美の巫子のことはあんまり知らないけど、手紙でも書いて会いに行くことを伝えてもらおう。すぐには行けないかもしれないけど、必ず知春を連れて行って会わせてやらないと。
都の復興のこともある。物の怪を都から追い出したが、他の地域はどうだろう。せっかく便利な能力があるんだから、せめて普通の人じゃどうしようもできない部分は俺が片付けるべきだ。それから......。
「幸彦?」
俺の反応がないことに気づいたのか、しのかが訝しげに呼んだ。
疲労が残っている俺の身体は、いつの間にか眠りの準備を始めている。空腹もなんとなく感じる意識はまだ起きているけど、目を開くことが出来ない。
「......寝たのか」
そっと優しく手で頬を撫でられる。それから額や目尻に触れる柔らかい感触。最後に唇にも触れた。離れがたく何度も甘く啄む口付けを受ける俺は、しのかの服をゆるく掴みながらつかの間の幸福なまどろみの中へと落ちていったのだった。