花嫁の契約-3


 部屋を重く取り囲むのは沈黙。
 アルトゥールは長考に入っていた。
 ジークリードの駒は、キングとクイーンとポーンのみだ。
 盤上には、それよりもおおくアルトゥールの黒い駒が残っている。
 アルトゥールには見えていることだろう。この先どう駒が動いていくか。
「......パペチュアルチェックだと?」
 ぽつんと呟いた。
 眉間には深い皺が寄せられている。
 アルトゥールの脳内で繰り返されるシュミレーションでは、もっと駒が少なくなっているはずだ。
 そしてそこまで進んだ先に待っているのは、『3回、盤上が同じ形になったら引き分け』というルールに従った手しか残っていない。
 チェックメイトされれば、当然負けが確定する。
 しかし、それを拒否しようとすれば、引き分けに持ち込むしかないのだ。
 アルトゥールは悔しそうに唇を噛んで、それから肩の力を抜いた。
「いいだろう。今回は引き分けだ」
 局面はまだ終わっていないが、決着は既に着いた。
 そうアルトゥールは判断したのだ。
「よ、良かった......」
 紙のように蒼白になったジークリードは、ほっと胸を撫で下ろした。
 指先が氷のように冷たい。
 血の巡りが悪くなっている。
 ジークリードはボードを片付けようと手を伸ばした。
「冷たいな」
「!」
 緊張で強張って震えていた指を、アルトゥールが掴んだ。
 暖めるように握りこまれて、ジークリードは固まる。
 彼は言った。勝ちか引き分けに持ち込めば、花嫁に認めようと、これが最後の試練だと。
「寝室でも、このような指で夫に触れるつもりか?」
 ジークリードの指先が、アルトゥールの手で彼自身の唇に押し付けられる。
 官能的な仕草に、ジークリードは喉を鳴らした。
「もういい。下がれ」
 アルトゥールはふっと目を伏せるとジークリードの手を離し、退室を命じる。
「今夜は、指示があるまで起きていろ」
 待ちに待った『初夜』のお誘いに、ジークリードはぎくしゃくと強張った身体のまま退室していった。



 やっと。
 やっとだ。
 実感を噛み締めるように、ジークリードは廊下を歩いていた。
「魂抜けてるわよ、どうしたのジーク」
 中庭の見えるところにさしかかり、庭園の手入れを手伝っていたハイデマリーが、ぼんやりと歩くジークリードに気付いた。
「ハイデマリー!」
 ジークリードは嬉しさのあまりにがばっとハイデマリーに抱きつく。
「きゃっ」
「ようやく俺『花嫁』になれた!今日は『初夜』だ!」
「えええ?!おめでとう!」
 急な抱擁に驚いていたハイデマリーだったが、ジークリードの言葉に満面の笑みを浮かべてぎゅっと抱き返す。
「良かったわね、頑張った甲斐があったじゃない!」
「ありがとう」
 離れたハイデマリーにばしばしと強い力で叩かれ、ジークリードはへらっと顔を崩した。
「先、越されちゃったなあ」
 喜んでくれたハイデマリーだったが、ぽつんと呟くと少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。
「あ...ごめん、俺......」
 自分と同じように早く『花嫁』になりたいと切望しているハイデマリーに、ジークリードは気まずい表情を浮かべた。
「なあにその顔。わたしだって、立派な花嫁になるんだからね。魔法の使えない貴方より、ずうっと優秀なんだから」
 先ほどの寂しさなど微塵も感じさせないハイデマリーに、ジークリードも少しだけほっとした。
「だよな。ハイデマリーならきっとベンノ様を尻に敷くよ」
「まあ、なんてこと言うの。わたしほどの淑女はいないわよ」
「淑女?どこにいたっけ」
「ジーク!」
 軽口を叩きあって、笑っているとそこに下半身に馬の胴体を持つ魔族が現れた。
 本来なら馬の顔がある場所には、女性の上半身がついている。
 ハイデマリーの魔法の師匠であり、教育係でもある魔族だ。
「クレメント様」
 自分の師に対し、ハイデマリーは深く頭を下げた。
 ジークリードも同じように一礼する。
「ハイデマリー、ベンノ様がお呼びだよ」
「はい。今行きます。......ジーク、今夜はちゃんと身体洗うのよ?」
「わかってるって」
 釘を刺して去っていくハイデマリーにジークリードは軽く舌を出す。
 それを眺めていたクレメントは、呆れた表情になる。
「......仲いいわね、あんたたちは」
「姉弟みたいなものですから」
 上機嫌で答えるジークリードに、クレメントは微妙な表情を浮かべる。
 哀れむような、諦めたような、そんな表情だ。
「クレメント様?」
「さあ、部屋に戻りな。いつお声がかかるかわかんないよ」
「はい!」
 そうだ、今夜を素晴らしいものにするために、万全の状態でいなければいけない。
 クレメントに再度頭を下げると、ジークリードは急いで自室へと戻った。



 入浴剤には、乳液の入った柔らかいものを使った。
 自分の世話をしてくれている小鬼たちが、丁寧にエステやパックをしてくれる。
 エステなど好きではないが、かさついた肌では抱き合ったときにアルトゥールに嫌われる。
 つま先から髪の毛までつやつやに磨かれて、ジークリードはソファーに座って呼ばれるのを待っていた。
 日はとっくに暮れている。
 そわそわ、そわそわ。
 どうにも落ち着かず、ドアを見ては時計を見る。
 緊張しっぱなしで、指先が冷えていることに気付いて、ジークリードは両手を口元に当てると、はあ、と息を吹きかけた。
 熱を与えて、逃がさないようにとタオルで包む。
 意識して手を温めていると、コンコンとドアがノックされた。
「ジークリード。準備はいい?」
 ひょっこりと顔を出したのは、アルトゥール付きの侍女だ。
 接する機会も多いため、もう既に顔なじみである。
「もちろん!」
 きらきらとまばゆい笑顔を振りまいて、ジークリードは立ち上がった。
 身体は、白い清潔な長衣だ。腰の紐を外せば、すぐに脱げられるようになっている。
「じゃあ付いて来て」
 全身を見て一度頷いた侍女は、先立って歩き出した。
 その後を、ジークリードはついて行く。
 高鳴りすぎる心臓が痛い。ベッドの上にアルトゥールがいると考えると、鼻血が出そうだとジークリードは思った。
 実際に鼻血を出しては堪らないから、できるだけ気をそらそうといろんなことを考える。
「ここよ」
 長いようで短い移動時間は終わり、一つの重厚な扉の前で侍女は立ち止まった。
 そこは、アルトゥールの部屋ではなかった。
 『初夜』は『花嫁の契約』を完了させるために必要な儀式の一つだ。
 場所も普段使用している場所ではなく、特殊なんだろうと考えて、ドアノブの手をかけた。
「ジークリード。いいこと、この部屋に入ったら、夜が明けるまで出てきては駄目よ。それから性交はちゃんと最後までやること。いいわね?そうすれば、契約は完了して貴方の村は助かるの」
「はい」
 むしろ夜明けが来ても、アルトゥールを離さないかもしれないともやもや考える。
「じゃあ、頑張って」
「......?」
 少しだけ残念そうな笑みを浮かべて、侍女はジークリードを送り出す。
 その微妙な反応が少しだけ気になったが、それよりも待ちに待った時間が始まることに、ジークリードはドアを開けた。
 鼻をくすぐるのは、甘いわずかな花の香り。
 部屋には、魔法で作られた仄かな光を放つ球体が浮いていた。
 そして中央には、キングサイズのベッドが一つ。
 天蓋から伸びるベールに包まれている。
 その中で、身じろぎする人の気配。
 少しは、アルトゥールも緊張しているのだろうか。
 自分が入ってきたことがわかっているのに、一言も発しない。
 ジークリードは、そっとベッドに近づいて、ベールを上げた。
 中にいた人物に近づき、肩にそっと手をかけようとして。
 そして止まった。


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