主従の契約-8


 猫族の青年は、翌朝には消えていた。
 ラフィタは自分がいつ寝たのかさえ気付かなかった。
 しかし、青年の言葉がいつまでも心に残る。
「夢?でも......」
「ラフィタ様」
 名を呼ばれ、はっとしてラフィタは瞬きをする。
 目の前には、湯気の立つスープ。ラフィタの朝食だ。
 それを掬ったスプーンが、目の前にある。
「どうかなさいましたか?」
 いつものように淡々と給仕をしていたフェリックスが、様子の変なラフィタに尋ねた。
「う、ううん......なんでもない」
 口を開いて、スープを飲む。
 飲みながらちらりと視線をフェリックスに向けた。
「今日は僕、あんまり具合が良くないから、寝てるつもりだけど......フェリックスは、何する予定......?」
 最優先であるラフィタの世話がなければ、フェリックスは別の仕事をするはずだ。
 彼が仕事中であれば、使用人に与えられている個々の部屋に、立ち入ることもできる。
 プライベートな部屋に、本人がいないときに入るのは良心が痛むが、それでも昨晩のことが夢であることを確認したかった。
「そうですか。では私は、この間破損した屋根の修理でも」
 ラフィタの屋敷には女性が多い。そのためこういった力仕事が出来るフェリックスには、ラフィタの世話以外にもたくさんの仕事があった。
「そ、そう。気をつけてね」
「......ラフィタ様?」
 挙動不審なラフィタに、フェリックスは訝しがる。
「熱、出たかな?僕、部屋に帰るね」
 朝食もそこそこに、ラフィタは部屋を飛び出した。
 具合の悪い振りなど殆どしたことがないラフィタは、病人がそんなに走るものではないとは気付きもしない。
 自室に戻ると、ベッドに転がり目を閉じた。
 意識を集中さえすれば、魔力で気流を操り、人がどこにいるかも『見る』ことができる。
 まるで覗き見をしているようで罪悪感が先に立ち、普段は殆ど使わないが、今はそんなことに構っていられなかった。
 フェリックスが歩いて部屋を移動している。
 廊下を通り、屋敷の奥へ進んだ。
 奥にあるのは、ラフィタの部屋だ。その部屋の前で立ち止まる。
「......」
 ラフィタは目を開いてドアを見つめた。
 一枚隔てた先に、フェリックスがいる。
 中に入ってくるかとも思ったが、フェリックスはそのまま歩き去ってしまった。
「ふう......」
 ドキドキと鼓動が鳴り止まなかったラフィタは大きく息を吐く。
 そして一気に起き上がると、そっと部屋を出た。
 気流の流れを感じて、侍女たちにもすれ違わないようにしながらフェリックスの部屋に向かう。
 彼や侍女の部屋も、ラフィタを考慮して取っ手のない押せば開く、鍵のないドアだ。
 ラフィタはそっとフェリックスの部屋に入った。
 誰にも会わなかったことに、ほっと息をつく。
 それから部屋の中を見回した。
 殆ど物のない、シンプルな部屋だ。
 足を器用に使ってクローゼットの中を覗いたり、屈んでベッドの下を覗いたりする。
 ベッド脇にあるテーブルの、引き戸を足の指で引いて開け、ラフィタは固まった。
「あった......」
 確かに、小さな小瓶がそこにあった。
 身体を屈め、歯で瓶を噛んで取り出す。
 テーブルの上に置くと、その液体の入った瓶を見つめた。
「声が、出なくなれば......」
 フェリックスがそれを望むなら、ラフィタは迷うことはない。
 すっと息を吸い、小さな声で歌い出す。
 それは求婚の際に歌われる歌だった。
 自分が歌う。最後の歌。
 声が出せなくなれば、フェリックスに聞かせることも出来ない。
 一分弱の歌を静かに歌い終えると、ラフィタは両足の平で小瓶を押さえ、歯でコルクの蓋を開けた。
「あ!」
 その際に中身が零れてしまう。
 その量は、消して少なくない。
「......は、半分でも、きっと、大丈夫」
 そう自分に言い聞かせて、ラフィタは小瓶を銜えて上を向いた。
 どろりとした液体が、喉を伝う。
 途端に熱いものが、喉奥から込み上げてきた。
「な......」
 ごぼり。
 瓶が落ちた上に、ぼたぼたと落ちる液体。
 真っ赤に染まったその液体は、床に広がる。
 ラフィタは床を汚してしまったことに驚き、自らの羽を伸ばしてその液体を拭おうとした。
「が、っは......」
 途端に、また口から溢れる、鮮血。
 喉が熱い。
 両手があれば、喉を掻き毟っただろう苦しみがラフィタを襲う。
「ふぇ......り」
 もう一度多量の血を吐いた後、ラフィタは意識を失った。




 ふわふわと、柔らかいものに包まれている気がする。
 むずがゆくて、でも幸せでまどろんでしまう。
 このまま、もっと寝たい。
 意識を深く沈ませようとしたところで。ラフィタはふと気付いた。
 あれ、まだフェリックスの笑顔見てない。
 声が出なくなったのなら、歌えない自分なら、喜んでくれるはず。
 そう思ったラフィタは薄っすらと目を開いた。
「ラフィ......!」
 目の前をチカチカする極彩色の髪と羽根。
 青い瞳から、溢れる涙。
 エミリオがそこにいた。
「......?」
 どうしてそんなに泣いているのだろうと、ラフィタはエミリオを見つめて考える。
「ラフィタ、良かった!ラフィ......!」
「抱きついたりしては駄目よ。揺らさないで」
 手を伸ばしてくるエミリオが、水かきのついた手に阻まれて遠ざかる。
「ラフィタ、大丈夫?」
 優しく覗き込んでくるのは、透き通るような白い肌と、ヒレのある耳。澄んだ水色の髪を持つ女性だった。
 魚族の特徴を持つ女性は、ラフィタの首に手を翳す。
「ッ......」
 途端に走った痛みに、ラフィタは顔を歪めた。
「ラフィタ!......パトリシア、もっと優しく傷を癒してやってくれ」
「これでも精一杯やっているの。無茶を言わないで。......けれど、液体の毒でよかったわ。液体なら中和ができるもの。飲んだ量も少なかったようだし」
 固体だと助からなかったかもしれない。そう呟く女性に、ラフィタは不思議そうな顔をする。
「ふぇ......は......?」
 声を出して、ラフィタは驚く。
 掠れて酷いものになっていたが、まだ声が出る。
 これでは意味がない。
「ラフィタ。今すぐ、あの男と契約している主従の契約を解除しなさい。ヤツは罪を認めている。お前が解除さえすれば、処刑を行うことが出来る!」
「エミリオ!今は安静にしてなければ駄目なのよ?!騒ぐようなら出て行きなさい!」
 罪って、いったい何のこと?
 激昂しているエミリオが、何人かに連れ出されていく。
 残ったのはパトリシアとベッドに寝るラフィタだ。
「な、......に?」
「声は出さないで。......今は傷を癒すことを考えて。ね?」
 パトリシアが優しくラフィタの頭を撫でた。


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