花嫁の歌声-16



 ようやくラフィタの怪我が治り、久方ぶりに戻った愛の巣は、どこかよそよそしい空気に満ちていた。
 ラフィタはまるで他人の家に来たような心境できょろきょろと視線を巡らす。どうしてそんな風に感じるのか思い当たったラフィタは少しだけ表情を曇らせた。
 テーブルに積もったうっすら白いホコリ。カラカラに渇いた水瓶、歩くとホコリが舞って空気が悪かった。
「ラフィタ、掃除をしますので少し外に出ていてください」
 閉じっぱなしで錆び付いた窓を力任せに開けて、光を取り込みながらフェリックスは振り返った。
 こけた頬に青白い顔。儚いというどころではなくまるで幽鬼のような容貌にやつれてしまった愛しい人。
 パブロがディエゴから聞いたという、フェリックスが坑道で寝泊まりしていたという話は本当だったのだろう。
 ラフィタが窓を開けた節くれてしまった手を見つめると、フェリックスはその手を背に隠してしまった。
「さあ」
 促されたラフィタは首を横に振る。
「空気の入れ替えと軽い掃除なら僕がやるよ」
「ですが......っ?」
 ラフィタは軽くつま先で床を叩いて息を吸う。
『風よ』
 ただの単語にも関わらず、歌うように呼びかけたラフィタに、風が応じて吹き荒れた。
 開いたドアと窓から風が入り吹き抜けていく。
「......」
 手で顔をかばうようにして身をすくませたフェリックスは、風がやんだところでそろりと目を開けた。
 自分まで浮遊感を感じそうなほどの強風に、一瞬で荒れた部屋を想像していたフェリックスは、卓上に置いてあったままの一輪挿しすら微動だにしていなかった現状に目を丸くした。
「フェリックスはテーブル拭いて。僕、お布団干すね」
「ラフ、私が全部やりますから」
 パタタタと寝室に走りゆくラフィタを追いかけて、そこでもフェリックスは見た光景に足を止める。
「え?これぐらい持てるよ」
 くぐもった声が浮いた布団の下から聞こえてくる。まるで布団に足が生えたようだ。
 ラフィタは自分の頭に布団を載せたようだが、そもそもどうやって乗せたのかフェリックスには検討がつかなかった。
「......それは持っているというのですか?」
「いうよー?」
 顔が全く見えていないということは、ラフィタも前が見えていないということだ。
 しかしフェリックスが布団を取り上げようとすると、その脇を難なくすり抜けてそのまま早足で駆け抜けていく。
「ラフ!転びますよ!」
「だいじょーぶ!!」
 慌てて追いかけたフェリックスだったが、ラフィタは言葉通りどこにもぶつからずに安定したまま歩いてみせた。
 フェリックスは魔力がほとんどないため気付かなかったが、魔力が強いものならラフィタを取り囲む強力な風の精霊の姿が見えたことだろう。
 ラフィタは外まで飛び出ると、いつも洗濯物を干している竿まで風で布団を持ち上げた。
「これでよし、と」
「......」
 ふわりと竿にかかった布団を見て満足げに笑ったあと、ラフィタはドアまで出てきていたフェリックスの元まで駆け戻る。
「フェリ、髪の毛ぐちゃぐちゃになっちゃった。解いてくれる?」
 相変わらずの柔らかい髪の毛は、頭の上に布団を乗せたことでいつもに増して絡んでいた。
 ラフィタはそんなボサボサの頭のままフェリックスの胸板にぽすっと顔を埋める。一ヶ月間会えなかったブランクを感じさせないその近い距離に、フェリックスは無意識に入っていた身体の力を抜いた。
 熱が下がって水宮を出てからはずっと鉱山に篭っていたフェリックスは、日の光やラフィタの柔らかさに違和感を覚える。でもそれは不愉快なものではなくて、フェリックスに胸が締め付けられるような気持ちを思い出させる。
 それは針のむしろでちくちくと刺される幸福だ。
 フェリックスはラフィタの頭をなでると、抱き上げて部屋の中に戻った。そして木の椅子に腰掛けてラフィタを自分の膝の上に座らせて、一本ずつ丁寧にラフィタの髪を解き始める。
 ラフィタはそんなフェリックスにもたれかかってうっとりと目を細めた。
「んー......フェリの匂い~」
「な......そんなに匂いますか?」
「え、いい匂いだよ?僕大好き!」
 引きかけたフェリックスに言い募ったラフィタは、そのまま背伸びをして、男の薄い唇にちゅっと口づけを仕掛ける。少しばかり面食らった表情を浮かべたフェリックスは、白い顔を少しだけ上気させて笑みを深めた。
 ラフィタがその表情に見とれていると、突然フェリックスはラフィタの頭を胸に押し付けるように強く抱きしめる。
「ふあっ?」
 急な行動にラフィタは羽をぱたぱたとばたつかせたがフェリックスは放しはしなかった。
 フェリックスは口を開閉して、言葉を紡ぎだそうとするがうまくいかない。
 やがて大きくため息を吐いて抱きしめるその腕から力を抜いた。
 ラフィタが顔を上げると、どこか疲れたような表情でフェリックスは微笑む。ささくれ立った指が、ラフィタの柔らかい頬を壊れ物のようになでた。
「さあ、昼食にいたしましょうか」
「うん」
 促されたラフィタは頷いてフェリックスとともに遅めの昼食を取った。
 その後、不在にしていた間の片付けと掃除を行う。夕食は少量で済ませて、早めに就寝した。
 小屋のベッドは相変わらず狭く、二人は寄り添うようにして眠る。
 風が子守唄のように草花を揺らす音が聞こえる中、乱れた呼吸音にラフィタはゆっくりと身体を起こした。
 長身を折り曲げ胎児のように膝を丸めて眠るフェリックスの横顔には汗が浮かび、苦悶の表情を浮かべている。
「フェリ」
 小さく呼びかけても声は届かない。ラフィタは一度降り立つとハンカチ替わりの布を持ってきて口で咥え、フェリックスの汗を拭った。
「大丈夫。もう怖くないよ。ここには、君を傷つける人なんていない。だから、大丈夫」
 耳元で歌うように、少しでも癒されるようにとラフィタは囁き続ける。だか、フェリックスの表情は変わらず、苦しげに喘いだ。
「......」
 自分の声が届かない奥底で、今もフェリックスは苦しんでいる。それを感じ取ったラフィタは自分の首を飾る装飾品を意識した。
 白く艶やかな文様が刻まれたリングは真っ黒に色を染め変える。自分の身体をめぐる魔力を意識すると、急に足元から床の感覚が消えた。
 ふわりと浮遊感を感じて周囲が一気に真っ暗になる。フェリックスの姿も闇に飲まれて見えなくなった。
 しばらくそのままで周囲の様子を伺う。上も下もわからない状態だったが、不意に下からあかりが漏れてきた。視線を向けると、うすぼんやりと風景が浮かび上がっている。
 雑草の生い茂った庭園。中心には噴水があるが、中心からは水が湧き出ていない。荒れ放題の中庭に降り立ったラフィタは周囲を見回す。
 一ヶ月前に見た、フェリックスを苦しめている人の世界の城が、そこにあった。中庭に面した通路に人影が見えて、ラフィタは僅かに息を詰める。
「役立たずめ!図が高いぞ、這って歩け!」
 子供特有の甲高い声で怒鳴ったまだ幼い少年は、傲慢な表情のまま足元に蹲る小さな子供を足で蹴って笑う。
 黒く艶やかな髪とその輪郭は見間違えることがない。
 ラフィタはきゅっと唇を真一文字に結ぶと、大股で歩いて二人に近づく。ラフィタの足音に気づいた少年はじろりと不機嫌そうな眼差しを向けるが、相手が誰かわかるとはじかれたように後ずさった。
「暴力はダメだよ」
 奴隷の子供とフェリックスの間に立ちはだかったラフィタは、自分より身長の低い少年に静かに告げる。
「鳥の、子......なん、え、ゆめなのに......あ、私は......なんで」
 ラフィタを捉えた瞳には動揺と恐怖が浮かんでいた。背後にじりじりと下がるフェリックスの輪郭がぼやけ、一回り大きくなる。
「見ないでください......!こんな、醜い......ッ」
 何度もゆらめきを繰り返しながら、フェリックスは大人の姿を取り戻そうとしていた。
「フェリ」
「近づくなッ!!」
「っ」
 腹の底からの慟哭に、ラフィタは吹き飛ばされた。地面をごろごろと転がって噴水の縁の囲み石にぶつかって止まる。
 ラフィタはよろけながら立ち上がる。フェリックスに魔力はない、ないが、これは......。
「お前は誰だ。どうしてその姿をしている。私の大事なものを汚す気か......ッ!」
 フェリックスの周囲に泥のように闇が溢れ出した。憎しみを持った眼光に、ラフィタは気圧される。だが、萎縮しそうになる身体を止めて、ラフィタは微笑んだ。
「僕は、僕だよ。ねえ帰ろう?」
「......そうか、敵国の幻影か。その姿を騙ったことは万死に値する」
「フェリ!」
「その顔で私を呼ぶなッ!!」
 怒鳴り声とともに、泥の闇がラフィタへと牙をむく。意思を持った生き物のように飛び出してきたその闇は、咄嗟に飛び退いたラフィタがいた箇所を、まるで氷を割るかのように簡単に破壊した。
「ったぁ」
 囲み石が壊されたせいで水が溢れ、弾け飛んだ破片がラフィタの頬を傷つける。痛みに顔をしかめつつラフィタは視線をフェリックスに戻すと、フェリックスの姿がどろりととろけ落ちた。
 その醜悪な様に流石にラフィタも息を飲む。
 ただでさえ荒れていた庭は、泥に包まれ原型を留めていなかった。足元を見れば、どす黒い泥はラフィタを飲み込もうとじわりじわりと円を縮めてくる。
「フェリっ、フェリってば!」
 闇の泥に呼びかけても返答はない。周囲には泥と形容できるもの以外は全くなくなっていた。自分も泥に飲み込まれれば、フェリックスに会えるかもしれないとラフィタは一瞬考えるが、なんお根拠もない思考をすぐさま打ち消す。
 仕方なくラフィタは『夢魔』の能力を使って、フェリックスの意識の外へと逃げ出した。




←Novel↑Top