花嫁の歌声-15



 ラフィタは怪我が治るまでホアンの水宮で預かりとなり、またフェリックスも極度の疲労から来る高熱を出して、鉱山での作業はしばらく免除となった。
 地上に降り立ってからほとんど初めてに近い休暇とも言える時間だったが、熱があるにも関わらず鉱山に向かおうとするフェリックスにホアンは呆れきっていた。
 水中のこの宮の中では、重力がほとんどなく浮かぶように移動することが出来る。怪我の治療にはいい場所だが、動く病人を縛り付けておくには不利な場所だった。
 円形の柔らかいベッドから抜け出て、地上を目指そうとするフェリックスを、ホアンが立ちはだかって止める。
「人間よ。おとなしく寝ていろというのに」
「この程度で私は壊れたりしません。どうか退いてください」
「お前は道具かなにかか。正常な状態でなければ出さないと言っている。早く出たいのであれば、身体を治すといい」
「それでは遅いのです。私は早く遅れを取り戻さなければいけない」
 平行線を辿る言い合いに、強硬手段を取ったのはホアンの方だった。
「ジェイ」
 穏やかなはずの魚族の男は苛立ちをわずかに滲ませて夢魔を呼び、呼応したジェラルドが手だけ出現させてフェリックスの目を覆う。
「......っう」
 その手を振り払おうとしたフェリックスだが、夢魔の力にはあらがえず、気を失ってその場に倒れ込んだ。
「まったく......。お前の番はやけに強情だな」
 ちくりとした嫌みを取り混ぜつつ、ホアンはフェリックスをラフィタの隣に寝かせる。
「フェリは真面目だから、どこかで力を抜くなんて出来ないんだよ」
 ずっと黙って状況を見守っていたラフィタは、肩をすくめて少し微笑んだあと、愛しい伴侶の顔を覗き込んだ。
 やつれきった顔と不健康に痩せた身体。水中のため滲んだ汗はすぐに水に混じってしまうが、高い体温も水を伝わってくる。
 ラフィタはフェリックスの頬に自分の頬を寄せて、一度強く目を閉じた。
 すぐに目を開いたラフィタはにっこりと笑みを浮かべてホアンを見上げる。
「ホアン、ジェラルドのお仕置きタイム終わったの?」
「......終わったが」
 ホアンは言葉の持つ響きに複雑そうな表情を浮かべた。しかしラフィタは意に返さず言葉を重ねる。
「じゃあ、ジェラルドはフェリックスに悪さしないよね」
「なにを考えている?」
 訝しげに問いかけるホアンに、ラフィタは朗らかに笑って見せた。
「僕、あんな知らない人間にいつまでもフェリを渡していたくない。だから僕をジェラルドの力で、いつでもフェリックスの悪夢に入れるようにして欲しいんだ」
 そしてあの人間の悪夢を追い払うのだと告げる。ホアンは眉間に皺を寄せたまま訝しげにラフィタを見つめる。
「自らの根元に関わる魔力の譲渡は禁忌だ。ジェイが了承するはず無かろう。それに夢渡りに長ける夢魔たちならともかく、他の魔族ではその夢に捕らわれて、最悪死に至ることもあるぞ」
「それでも、僕は叶わないことを望むんだから、命を懸けるよ。......ねえジェラルド、出てきて」
「駄目だ。そんな勝手は我が許さぬ」
 姿を見せないジェラルドに呼びかけるラフィタに、ホアンの厳しい声が飛ぶ。だが、ラフィタは意に返さず、水中を意志を持った眼差しで見上げた。
「ジェラルド、君がフェリックスの記憶を食べようとしたのは、ホアンの記憶を食べないためだよね。他の人を傷つけても、どうしても優先したいことがあるのは、僕も一緒だからわかるよ。......ホアンは、昔と比べて変わった?」
「......」
 ホアンの表情に苦々しいものが浮かぶ。その表情以上に水精霊たちがホアンの内心に反応して水に流れを作った。
 ラフィタは水が風よりもねっとりと、自分の羽根を重くなでるのを感じながら、ジェラルドを捜すように視線を巡らす。
 水に歪みが出ている場所を見つけて、ラフィタは笑みを濃くした。
「君がホアンの記憶を食べたのは100年?それとも200年?......たかだか10数年生きた、フェリックスの記憶で腹を騙そうってぐらいなんだから、ここ数年で結構変わったんじゃない?」
「ラフィタ。それ以上言えば、人間ともどもここから追い出すぞ」
 低く唸るようなホアンの威嚇に、ラフィタは怖じ気づく様子もなく平然と見返した。赤く光る瞳に、無意識に畏怖を感じたホアンは、ちりちりとうなじを焼く感覚に、大半がジェラルドの胃に収まって覚えていないはずの戦争の記憶が思い起こされる。
『風よ』
「!」
 ホアンが構える暇もなかった。水宮に満ちていた水がラフィタの声に呼応した風に追いやられて一気に蒸発してしまう。残ったのは衣服や床を濡らす程度のわずかな水だ。
 宮の外は変わらず水があるが、それはホアンが心で呼びかけても中に入ってくることはなかった。
「そなた......」
 自らのテリトリーが奪われたことに、ホアンは自分の爪を硬化させ、濁った水晶体の瞳は爬虫類にも似た縦割れのものへと変化した。
 ラフィタは戦闘態勢に入ったホアンから視線を外し、歪みに視線を戻す。
「ねえ、ジェラルド。僕はなにをしたら、君は僕の願いを叶えてくれる気になるかな?」
 それは紛れもない脅迫だった。ホアンは顔を歪めて水を冷たく硬い凶器へと変えるための呪文の一文を口に乗せる。
「ホアン」
 ラフィタが見ていた歪みは一瞬の間に消え去り、ラフィタとホアンの間に濃紺の少年が姿を現した。その立ち位置はホアンの攻撃軌道の先で、ジェラルドの首筋に氷の切っ先が刺さるのをホアンは寸でのところで止める。
「ジェイ、下がっていろ!」
「......そういうあんたを見るの、マジ久々。ホントかっこいいよな」
「そういうことを言ってる場合じゃ......?!」
 激高したホアンが怒鳴るその口を、ふわりと空間を移動したジェラルドが抱きついて唇で塞いだ。
 目を見開いたホアンの、指先にあった氷柱にも似た氷剣が動揺に晒されてぱりんとはじけ飛ぶ。慌てて引き剥がそうとするホアンに、ジェラルドは諦めにも似た表情で笑った。
「正直ラフィタの気持ちが痛いほどわかる。あいつも、もういっぱいいっぱいなんだ。望むのは好きな奴との平穏な生活ってだけなのに、それが自分のせいで消えていく恐怖って......ホアンにはわかんないんだよ」
「ジェイ......」
 普段は飄々として自分にも減らず口を叩く養い子の、今までに見たことがない表情と心情の吐露に、ホアンは愕然として名を呼ぶことしかできなかった。
 ジェラルドはホアンの元から離れ、雛の前に立って見下ろす。
「お前の記憶を食わせてくれるなら、いいぜ。いつでもお前の旦那の夢の中に入れるようにしてやる」
「ありがとう」
 夢魔が出した条件にラフィタはほっとした表情で微笑んだ。ラフィタはとうにフェリックスと添い遂げる心づもりは出来ている。
 ラフィタには愛しい伴侶と短い時を生きるために、今まで生きてきた経験を、過去を、家族の記憶を捨てることに迷いはなかった。
 ジェラルドも、訪れるはずの絶望が少しでも延ばせるのであれば、夢魔としての身分を損ない、友人の記憶までもを犠牲にすることに異存はない。
「んじゃ、契約な」
「うん」
「二人とも待たぬか。そんなことは許可できぬ」
 ホアンの制止を余所に、二人は目配せ合う。それからジェラルドは鼻で笑い、ラフィタは肩をすくめて見せた。
「自己犠牲心溢れまくるやつに言われたくねえなあ、なあラフィ?」
「ほんと、ジェイの言うとおり。なんでもかんでも抱えちゃうもんから、僕らがぶんどって分けてもらわないと割に合わないんだよ」
 共犯とでも言うように笑い合った二人は、さっさと契約を済ませてしまう。その契約は、細い紋様を二人の首にまるで細い縄のように浮かび上がらせた。
 こうなると、契約者同士が合意の上で廃棄しなければ、契約は解除できない。
「............とりあえず、水を戻すぞ」
 ホアンは苦虫を噛み潰したような表情で大きく深いため息をつくと、不機嫌なまま指を鳴らした。
 さっきまでは呼びかけに答えることがなかった水が、するすると足下から満ちていき、見る間に天井まで覆っていく。
 重力がなくなった状態に、ラフィタはこわばっていた身体から力を抜いた。本当は風の力を借りて立っているのが精一杯だったのだ。
「愛しいからこそ身を削れるというのに......」
「だから、それはあんただけじゃないっての。俺はただ、あんたと一緒にいたいだけなんだから」
 ぼやいたホアンにジェラルドは苦笑しながら、自らの手首を軽く指先でなぞる。触れただけのはずのその行為で、ジェラルドの手首からは多量の血が溢れだした。
 その血は、周囲の水に混ざることなく揺らめきながら輪を描き、血量と比べると小さく複雑な模様が入った赤黒いリングを作り上げていく。
 血を失って青ざめていくジェラルドを見つめて、ホアンは苦しい表情で治癒の呪文を唱えた。
 自らの力を譲渡する契約は、危険を伴う行為だ。それでも契約違反をさせたり、中断させることの方が命に関わることを知っているホアンは、ジェラルドの身を案じるしかない。
 形成された不吉な色のリングは、最後に真珠のように白く輝くメッキを施されて、ジェラルドの手のひらに存在していた。
「ほら、これでお前の旦那の夢の中に入れるようになる。色はお前の合わせてやったよ。......これを首につければ、契約の紋様も隠れるだろ?」
「うん、綺麗だね。ありがとう」
 上辺だけの色を乗せたそのリングを眺めたラフィタは、ジェラルドの手で首に填めてもらって目を細める。
 それを見届けたジェラルドは、ぐらりとバランスを崩して気を失った。すぐにホアンはしっかりと腕の中に抱きしめ、額に口づけを落とす。
「まったくこの子は......しょうがない子だ」
 夢魔としての能力を無くしたジェラルドは、夢に入ることも出来ず、空間に歪みを生み出すことすら出来なくなった。そんなジェラルドの頬を愛しげになでて、ホアンはラフィタに向き直る。
 今まで向けていた優しげな光はそこにはない。
「そなたの事情も、思いもわからぬではないが、我が抱えられるのはこの子だけだ。......傷が癒えたら早々に立ち去れ。今後、人間ともどもこの湖に近づくことは許さぬ」
「わかりました。......王の慈悲に感謝いたします」
 決別の意を示したホアンに、ラフィタは深く頭を下げた。


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