花嫁の歌声-9


 ディエゴがもう一度遠吠えをすると、弱々しい鳴き声が返ってくる。二人が会話をしているのだとフェリックスが気づいたのは、ディエゴが「あっちか」と立ち上がったからだった。
 地図を取り出しながら歩き出すディエゴに、フェリックスも続く。
「壁に書いてある番号は45だと言っている」
「それならこっちの方が近道です」
 地図を見ずに指さすフェリックスに、ディエゴは立ち止まる。
「お前、道覚えたのか?」
「自分の担当の場所を覚えるのとついでです。違う場所に配置されても地図を覚えていれば、すぐに出入り口までたどり着けますから」
「ふーん、凄いな」
「......別に、普通です」
 ディエゴが素直に感心していると、フェリックスは不機嫌そうに顔を逸らした。
 声にわずかに動揺が現れていたことに、ディエゴは照れているのだろうかと推測する。
 尖ってはいるが可愛らしいものだと考えていると、坑道の奥にちらつくランプの明かりが見えた。
「パブロ!」
 呼びかけながら走り出すディエゴに、フェリックスもつられて走り出す。
 どういった知り合いなのかとフェリックスが疑問に思っていると、ふわふわの羊毛の頭が見えた。
「ディエゴぉ......!」
 心細かったのか、ディエゴの顔を見たとたんにパブロはぼろぼろと泣きながらディエゴに抱きついた。
「良かった......」
 ディエゴが安堵したように抱き返し、優しげに小さな身体を大きな手でなでる。
 フェリックスはそれをじっと眺めた。
 本来は交流のない種族だ。
 羊族は、ここが犯罪者を受け入れるようになる前から住んでいる現地族だ。鉱山に働く者は基本的には関与してはいけないというのが、暗黙の了解になっている。
 にも関わらず、ディエゴはパブロと親しげに見えた。
「パブロ」
 フェリックスの眼差しに気づいたディエゴがパブロを引きはがそうとするが、パブロはディエゴの毛を掴んだまま放そうとしない。
 パブロの肩は小さく震えていて、ディエゴの胸に顔を埋めたままだ。
 無理に引き放すのは可哀想だろうと、フェリックスは軽くディエゴの肩を叩いた。
 その際に、パブロの服が汚れていることに気づく。
 暗く見にくいがその汚れは、血が黒ずんだものだと気づいたフェリックスはとっさに声をかけた。
「パブロ、怪我をしているのですか?」
「え」
 驚いたのはディエゴの方で、しがみついているパブロをあっさりと引きはがした。
 服の右側が血と思わしきもので汚れている。
「怪我してんのか?おい、泣いてたらわかんねえだろ!」
「ひ、っぐ......うぁあああんっ!!」
 怒鳴られたことでさらに泣き出してしまったパブロに、ディエゴは小さく舌うちをすると泣いているパブロの服の中に手を差し入れる。
 パブロの表情を見ながらディエゴは身体をまさぐった。
「どうだ?痛いか?」
「んっ......っふ、ううう......ったくない......」
 ふるふると首を横に振ったパブロに、ディエゴとフェリックスはほっと胸をなで下ろす。
 だが、次の瞬間にパブロの口から出た言葉にフェリックスは凍り付いた。
「......っく、......ラフィタがね、怪我して......それで、俺、フェリックス呼びに来たんだ」
 涙混じりの声で告げられたことに、フェリックスはさあっと血の気が引いた。
「ラフが、怪我......?じゃあ、この血は......?!」
 パブロの服に付いた血は、ラフィタのものかと問いかけにパブロは小さく頷いた。
「俺!俺止めたんだよ?!でも、ラフィタ、止まんなくて、こ、転ぶし......フェリックス、探して、迷う、し......っううあううー」
 パブロの小さな心の許容範囲がオーバーしてしまったのか、激しく泣きじゃくった。
「ラフィタ......!」
 パブロの言葉にいても立ってもいられなくなったフェリックスは、ランプも持たずに走り出した。
「あ、待て!」
 この場所は鉱山の中でも中腹にある。フェリックスがいくら地理をたたき込んだと言っても、明かりなしに抜け出すことはきついだろう。
「ああもう!」
 苛立ったディエゴはパブロを腕に抱いたまま追いかけた。
「パブロ、ランプ持ってくれ」
「う、うん」
 驚きで涙が止まったパブロにランプを渡し、スピードを上げたディエゴは聴覚に神経を集中させて急ぐ。
 ようやくランプの明かりでフェリックスの影を捉えた。......ところで姿がまた消えた。
 唐突な消え方にわずかに眉間に皺を寄せる。
 見失った場所まで歩み進めると、なんてことはない。フェリックスはその場に倒れ込んでいた。
 緊張と疲労がピークに達して意識を失ったのだ。急に走ったことも要因だろう。
「ふ、ふぇりっくす、し、しんじゃった......?」
 パブロが、びくびく怯えながらランプをフェリックスに向けて差し出している。
「違う。こいつも疲れてんだよ。気絶しただけだ」
 はあと大きな息を吐いたディエゴは、フェリックスを肩に担ぐと出入り口に向かい始めた。
 その通路の番号は15。出入り口は1から始まっているから、フェリックスは暗闇の中でも間違うことなくゴールに近づいていたと言える。
 その根性に感服しつつもあきれ果てたディエゴは、腕の中のパブロにちらりと視線を向けた。
「その血、鳥の子をホアンのところに連れていった時についたのか」
「うん、俺......暗くてわかんなかったけど、い、いっぱい血が出てて......っ」
 状況を思い出したのか、ぼろぼろとまた泣き出すパブロ。
 パブロを抱き、フェリックスを担いでいて両手が自由にならないディエゴは、パブロの頬に優しく頬をすり付けた。
 その仕草にパブロは、わずかに目を見開く。
「鳥の子なら大丈夫だ。ホアンが生きている者を目の前で殺したりはしない。あいつの治癒能力はここでは誰よりも強い」
「本当?」
「ああ。だからもう鉱山に入ったりするな。俺の方が冷や冷やした」
「うん。......ごめんなさい。見つけてくれて、ありがとう」
 小さく謝ったパブロはぎゅっとディエゴの首に腕を回した。潤んだ羊の目がじっと狼を捉えると、その瞳が徐々に近づいてくる。
 パブロの小さな唇が、狼の口に押しつけられた。
 柔らかな感触にディエゴは顔をしかめる。
「......やめろ」
「どうして?」
「こういうのは......よくない」
「俺、ディエゴに感謝してるだけだよ。ありがとうディエゴ。大好き」
 何度も繰り返し唇を押しつけてくるパブロに、ディエゴは困ったようにぺったりと耳を倒した。


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