花嫁の歌声-10



「あーうーあー」
「ラフィタ。もう少し静かにしておれ」
「だって、パブロ飛び出していっちゃって......フェリを呼んでくれるのは嬉しいけど、迷ったりしたらどうしよう......」
 ラフィタが声を発するたびに口からは泡が発生し、上へと消えていく。
 頭上にはたゆたう水面があり、月の光を受けて反射している。
 ラフィタは怪我をした足の治療のために、ホアンの湖に来ていた。
 治療場所は湖畔ではない。ホアンが根城にしているその湖の中だ。
 湖の奥底にあるホアンの半透明の城の中で、ラフィタは大きなクッションに寝かされて患部に手をかかげられていた。
 城の外と同じように中も水が満ちているが、それでエラのない者が呼吸困難に陥ることはない。
 満ちているのが特殊な水なために、呼吸も出来、話すこともできる。
「興奮するでない。血を失っておるのだから、貧血を起こすぞ」
「うん。ありがとうホアン」
 ホアンの治療は優しくラフィタの傷を癒す。
 大量に血は出たが、パブロの対処とホアンの治療のおかげで傷は大したことはなかった。
 だが問題はほかに発生していた。
「......腱が切れている。ある程度は治療でどうにかできるが、しばらくは歩けぬぞ」
 倒れた拍子にラフィタが感じた痛みは、出血を伴う傷よりもその腱が切れたことによるものが多かったのだ。
 その事実を知らされたラフィタは、寂しそうに表情を曇らせた。
「そっか......また、僕フェリックスに迷惑かけちゃう......」
 俯くラフィタをホアンは優しくなでる。
 水掻きのついた手はひんやりとして心地よい。
 ラフィタはその手に慰められて僅かに笑みを浮かべた時だった。
「『神歌』よ。一度お前だけでも空に戻ったらどうだ?その体でここでの生活はきつかろう」
「......え?」
 はじかれたように視線を上げたラフィタに、ホアンは言葉を続ける。
「そなたの名が、空島に住む者だけしか知らぬと思っていたのか。腕のない希代の歌い手。名家の生まれもそうだが、その歌声の希少価値ゆえに鳥族が自らの至宝と位置づけ、空島から一度も出そうとしなかったそうだな」
「......やめてよそんな話」
「事故で死亡し、葬式も出したと聞いたが......生きているお前には帰る地があるだろう」
 天に戻ることを勧めるホアンに、ラフィタはむすっと口元を歪めた。
 水面では、急に湖の波が乱れ始める。ラフィタの感情に反応した風の精霊が、ラフィタの元に集まろうと水をかき乱し始めたのだ。
「『流氷王』ホアン。僕だって貴方のことを知っている。表舞台から姿を消したとは言え、貴方は有名人です。その昔竜族との争いで戦果を上げて、穏やかな魚族の為の地位を確立したことを聞いています」
 ホアンの口元にわずかに笑みが浮かび、像を結ぶことのないはずの白い瞳がラフィタを捉えた。
「それこそ昔話だ。今の私はただの老人だよ」
 見た目こそ20代後半の青年に見えるが、魔族は外見で年齢を計ることはできない。
 千年以上昔の話を、同名というだけでカマかけたラフィタは、老齢の青年を緊張を持った眼差しで見つめた。
 それでも、ここで引くわけにはいかない。
「貴方がただの老人だというなら、僕だってそうだ」
 ただの歌を歌うだけの子供。愛しい人の手を煩わせるだけの存在。
 ラフィタの歌声は、今もフェリックスの心の中には届かない。
 歌うラフィタを優しい眼差しで見守ることがあっても、それで癒されている様子はないのだ。
 自分を大事にしてくれる人に対して、何も出来ない歯がゆさを抱えているラフィタは、きつく唇を噛み締める。

 望んで、望まれている限りは。

「......僕のいる場所は、フェリックスのそばだけなんだから......!」
 ラフィタの感情の高ぶりに合わせて、水面を走る風が水底まで入り込もうと水をかき回す。
 城の外の水は、まるで嵐にあっているかのように急速に流れて渦を作っていた。
 苦笑したホアンが外を眺めると、城の中に入ろうと水を伴って丸い気泡が暴れまわるのが見える。
 『神歌』の感情に感化されて激昂する風の精霊たちを、水の精霊が落ち着かせようとしている気配が感じられた。
 ラフィタに視線を戻すと、クッションにに突っ伏して苦しげに呼吸を乱している。
 興奮しすぎでホアンが心配したように貧血を起こしたのだ。それに気づいたホアンは喉元に手をかざした。
「悪かった。そなたにはそなたの事情がある。無闇に立ち入ることは無粋だったな。大丈夫か?」
 問いかけと供に首が穏やかな光に包まれると、ラフィタは吐き気を伴うような酷い目眩が和らいだ。
「すい、ませ......あと、生意気なこと言って、ごめんなさい......」
 しおらしく謝ったラフィタに声なく笑ったホアンは、不意に水面を見上げた。
「やれ、今夜は客人の多い夜だ」
「パブロ?パブロが戻ってきたの?」
 自分の伴侶を呼びに、飛び出してしまった友人を心底心配していたラフィタは、苦しげな呼吸の中でもぱあっと表情を綻ばせた。
 ホアンはそれに対して軽くうなずく。
「少し、人数は多いがな」
 ホアンが手を踊らせるように横に動かすと、水が動いた。
 湖に飛び込んだらしい人物が大きな気泡をまとって城に降りてくる。
 窓からそれを見ていたラフィタは、入ってきた人物に目を丸くした。
「水は......苦手なんだ」
 しかめ面でぼやいたのは大きな狼男。その腕にはパブロが抱かれてラフィタに手を振っている。
 微笑み返してから、ラフィタはディエゴが担いだ人間がフェリックスであることに気づいた。
「フェリ!」
「こら、寝ておれ」
 押さえ込もうとするホアンの手を素早くすり抜けて、自由に動く片足で水を蹴り、フェリックスの元へと急ぐ。
 が、なかなか前に進まない。それを見たパブロが身を乗り出して、ラフィタの身体を引き寄せた。
「ありがとうパブロ!」
 一気にフェリックスの元に近づいて、ラフィタは笑顔を浮かべる。
 しかし、ディエゴが担いだフェリックスは身動きもせずに目を閉じているのを見て、ラフィタは動揺を見せた。
「フェリ?フェリ大丈夫?」
「......フェリックス、気絶しちゃったんだって」
 心配そうにフェリックスの顔をのぞき込むラフィタに、パブロがそっと囁く。
「フェリ............ホアン!フェリのこと治療し、んぐ」
 ラフィタはバッと振り返ってホアンを見上げるが、その瞬間にベッドに引き戻されてしまう。
「そなたも動くなと言うに。人間は隣に寝かせるから、もう動くでないぞ」
 水かきのついた手を軽く振るうと、ラフィタが横たわるクッションが楕円形に膨らむ。
 膨らんだ部分に仰向けに寝かせられたフェリックスに、ラフィタは寄り添うように身を近づけた。
「こいつに鉱山の労働はきつすぎるんだろうな。まだ慣れてないのに無茶しやがるから」
 ぼやきのような低い声に気づいて、ラフィタは改めてディエゴを見やる。
「ディエゴさん。フェリックスを連れてきてくれて、ありがとうございました」
 身体を起こすことはホアンに視線で咎められてしまい、横になったままラフィタは感謝の歌を歌う。
 それは水の中でもとても澄んで聞こえた。
 歌に反応するように城の周辺で気泡を作った風の精霊は、月の明かりをその気泡に反射させて、まるで星のように瞬かせる。
「きれぇ......」
 ディエゴにしがみ付いた状態のパブロは、うっとりと輝く光の泡に見惚れる。
 歌い終わるとその瞬きはゆっくりと消えていった。
「俺なんかにはもったいないぐらいの礼だ」
 目を細めて喜びを表すように太い尾を揺らす。その反応にラフィタは笑みを浮かべた。
「さて」
 和やかな空気を打ち切るようにホアンが一歩足を踏み出す。
「パブロ、今日はもう遅い。家まで送ろう」
「え?俺ディエゴに送ってもらう!」
「この馬鹿。駄目に決まってるだろう」
 ディエゴは困ったように耳を伏せた。
「やーだー!」
 離れないというようにぎゅっとディエゴに抱きつくパブロの首根っこを、大きな手が引き剥がした。
 それは当のディエゴで、ずいっとパブロをホアンに突き出す。
「ディエゴ!やだ!ディエゴってば!」
 じたばたと暴れるが、それを邪魔するように水が手足に絡みつく。
 そのまま押し出されてパブロはホアンの胸に飛び込んでいた。それでも諦めずに暴れるパブロに、ホアンは苦笑する。
「ジェイ」
 小さな呼びかけに反応したようにホアンの背後の暗がりからすっと白い腕が伸びた。
「ジェラルドッ......?!」
 その手を見たパブロは悲鳴のような声を上げるが、すぐに目を閉じてこてんとホアンに寄りかかる。手はそのままそろりと暗がりに戻って消えた。
「じゃ、俺は行く」
 ホアンの腕の中で眠るパブロを見たディエゴは、軽く手を振って背を向ける。
「ああ。ご苦労だったな」
「おやすみなさい」
 ホアンとラフィタに見送られ、ディエゴは狼の屈強な足で床を蹴って城から飛び出る。そのまますぐに姿が見えなくなった。
「私はパブロを送ってこよう。ラフィタ、そのままフェリックスと寝ておるのだぞ」
「わかってる。......ねえ、なんで狼さんたちと仲良くしちゃ駄目なの?」
 すやすやと眠るパブロを見て、ラフィタは言いにくそうに口を開く。
「それは明日説明してやろう。......ジェイ、ラフィタにも穏やかな眠りを」
「ちょ、......あ、」
 白い手がにょきっとクッションから生えてくる。その手は、ラフィタの視界を覆った。
 強制的に与えられる眠りに引きずられ、ラフィタは意識を手放した。


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