そのご-3
しばらくそうして春樹に噛み付いていた博也は、呼吸が落ち着く頃にゆっくりと首筋を舐め出した。
まるで親ライオンが、子ライオンを宥めるような、そんな動き。
ずきずきと痛む首筋に、春樹はもう博也に抵抗すらしない。
ただ黙って床を眺めるだけだ。
やがて博也が拘束を緩めると、春樹は膝から崩れ落ちた。
倒れこむ前に、博也が抱きとめてゆっくりと座らせる。
虚ろな眼差しで呆然としている春樹に、博也は唇を噛み締めるとぎゅっと拳を握った。
「......わりい」
掠れた声での謝罪。
春樹は視線を定めないまま、手の平で噛まれた首筋を押さえた。
出血はしていないようだが、翌日にはさぞかし酷いあざが残ることだろう。
鏡でどのようになっているか確認したい気持ちもあるが、見たくない気持ちもある。
春樹はそっとため息を付きながら、自分と同じように座った博也の悲しげな表情を見やった。
そんな表情を見ても、次の瞬間にはまた怒り出すのではないかと思うと身体の芯が震えた。
今では体格の差も殆どない2人だが、長い年月の間に互いの心に根付いた力関係は、そう簡単に変わるものではないのだ。
それを思うと、春樹は物悲しい思いに囚われる。
少しは、変われるのではないかと思っていた。博也も、......そして自分も。
「春樹」
自らの思考の渦に陥っていると、唐突に博也が呼んだ。
弾かれたように視線を向けると目が合った瞬間、博也が勢い良く服を脱ぎ出す。
上着を投げ捨て、シャツも乱雑に脱ぎ捨てる。
あまりに急ぎすぎて、ボタンが弾かれたのを春樹は見た。
春樹と同じように上半身裸になった博也は、人差し指で自分の首筋を指差す。
「噛んで」
「え」
「俺、わかんねえから。噛んで」
何がわからないと言うのだろう、と春樹の方が戸惑った。
なだらかな胸板。自分よりも白い肌を晒した博也に、春樹は視線を彷徨わせる。
「お前と同じ痛みを感じないと、俺きっとまたやる。だから噛めよ。......頼む」
言い切った博也は目を閉じて、自らの急所を晒すように僅かに顔を上向きにする。
その動作はよどみなく、博也の覚悟が窺い知れた。
かすかに上下する喉仏。それを眺めた春樹は、乾いた唇を舐めて濡らして口を開いた。
「噛んでも殴らないか」
「殴らない」
「本当に?」
「ああ」
それきり、会話がなくなる。
殆ど動かずにいる博也の腕に、春樹は困惑したまま手をかけた。
その刺激に博也がぴくりと身体を揺らし、その揺れに驚いて春樹は手を引く。
だが、それでも博也は動かずにいる。本当に、春樹が噛み付くのを待っているのだ。
おそるおそる、春樹は博也を抱きしめる。首筋に顔を寄せるには、それが一番楽な体勢だ。
「噛む、から」
春樹はそう断ると、顔を傾けて博也の首筋に寄せた。
薄い体臭が鼻をくすぐる。
迷いながら、それでも春樹は口を開いた。
すぐに肌理の細かい肌に歯を立てるのは躊躇われ、舌先を伸ばして軽く舐める。
ニ、三度舌で肌を濡らし、それから逡巡したのちに春樹は歯を立てた。
肉を食む感触に眉根を寄せて、すぐに口を離す。そのまま身を離そうとすると、博也の腕が春樹の背に回された。
「もう一回。全然弱い」
確かに春樹が噛んだ博也の肌は、薄く色づいたのみだ。
「早く」
急かされた春樹は、もう一度博也の首に食らいつく。
だがそれも、博也が春樹に施した行為には遠く及ばない。
「春樹、もっと強く......」
ぐっと博也に強く腕を掴まれ、噛み付いた歯の力を徐々に強めていく。
「ッ......う、」
博也の呻く声に春樹が身体を離しかけると、背に回っていた手が後頭部に回った。
「頼む......ちゃんともっと......っうあ」
痛みに乱れる呼吸。けれど博也は春樹の身体を離そうとはせず、より強く抱きしめる。
博也は身を捩りそうになるのをこらえ、より首を傾けて噛みやすくしていた。
噛み付く春樹は前のめりで、そのまま博也を床に押し倒す。
「博也、もう」
どさりと倒れた博也に、春樹は覆いかぶさるような状態で見下ろした。
眉尻は下がり、噛み付いていた春樹の方が泣きそうな表情になっている。
博也はうっすらと目を開いて、緩く首を振る。
「駄目だ。お前、痛かったんだから。俺の方はもっと痛くないと」
「凄く痛かった。けど、それを人に与えるのも、痛い」
ぽろりと目の縁から水滴が溢れ、博也に飛来する。
頬に当たったその雫を博也は指先で拭い、舐めた。
そのまま持ち上げた手を春樹の首に回す。
「春樹」
「......博也」
博也は催促のために春樹を呼び、それに対して春樹は拒絶を表すが博也は聞き入れない。
「もう一回だけでいい。......痛く噛んで、くれ」
命令というよりも、懇願に近い声色。
春樹は更にぽたりと水滴を博也に落とすと、本当にこれきりになるよう願いながら、そっと晒された首筋に噛み付いた。
しんとした室内。
横たえた博也の首に顔を埋めたまま、春樹は動かない。
博也もそんな春樹の頭を撫でたり肩を撫でたりしていたが、ふと動きを止める。
「......ックシュ!」
博也の口から出た小さなくしゃみ。
それもそのはず。まだ暖かいとは云え、素肌を晒したまま2人で寝転がり、既に一時間以上は過ぎている。
身体はすっかり冷えていた。
くしゃみに反応して、春樹が身体を起こす。
視線が軽く彷徨い、博也の首筋に止まると顔が歪んだ。
肌の色が変色し鬱血した歯型の跡が、そこには残っていた。
一度に力を入れて噛んだ博也の歯型とは違い、何度も噛み付いたせいで、鬱血の大きさは博也の方が酷くなっている。
「シップ、取ってくる」
博也から離れた春樹が、薬品の入れてある戸棚に向かった。
すぐさま戻り、上半身を起こした博也の首に、大きいままのシップを貼り付けようとする。
その手の首を博也は握って止めた。
「ひろ、」
呼びかけた春樹の唇に、博也が唇を重ねる。
触れ合いはすぐに離れて、春樹はそのまま引き寄せられた。
向かい合って抱き合うその体温が心地よい。
「俺が殴ったら、お前も殴っていいから」
春樹が安堵した気分でゆっくり息を吐いていると、博也がそんなことを口にした。