そのご-4


 思わず春樹は、眉根を寄せて博也を見やる。
「嫌だ。したくない」
「しろよこの偽善者。別に、仕返ししたりしねえよ」
 ふんと鼻を鳴らして笑みを浮かべる博也に、春樹はカッと腹の奥底が熱くなった。
 その言い方も腹が立つが、何事も暴力で済まそうとするその根性が気に食わない。
「しろって言ってんだよこの俺が。てめえは黙って頷けよ」
「......」
 先ほどの殊勝な態度はどこいったのだと突っ込みたくなるような、相変わらずの上から目線。
 暖かくなりかけた心が、瞬時に凍えてしまう。
 いつもの通り、この男の気に入るように動けばいいのだ、と冷えた心で僅かに頷きかけた春樹は、ふと山浦の言葉を思い出して留まった。
 博也に寄りかかっていた春樹は身体を起こし、両手を博也の頬に添える。
「春樹?」
 博也は春樹の行動に目を見開く。
 命じて触れさせる事はあるが、こうして春樹が動くことはあまりない。
 驚いて見つめる博也の前で、春樹はゆっくりと顔を寄せた。
 柔らかく押し付けられる唇。
 口付けを受けた博也は、春樹の自主的な行動に、衝撃のあまり微動だにしなかった。
 それを良いことに、春樹は博也の手をぎゅっと強く握る。
「山浦が、言ってたじゃないか」
「......え?」
「博也は、俺の言うことも聞けって。俺は博也を殴りたくもないし、殴られたくもない。もうしないって約束してくれ。......お願いだから」
 博也だけ、変わらせようとしても駄目だ。自分から、変わらないと。
 怯えの見え隠れする瞳を真っ直ぐに向けて、小さな声での精一杯の懇願。
 瞬きより、長い時間の停止だった。
 ドキドキしながら待つ春樹に、博也が口を開いた。
「は、」
「聞いてくれるのか?」
 『は』の次は、『い』が来るのかと思った春樹は、淡く笑みを浮かべる。
 普段博也はあまり見ることのない、春樹の笑顔。
 それが博也に止めを刺した。
「春樹ぃッ!!」
 怒鳴った博也がその勢いのまま、春樹を押し倒した。
 ぎらぎらとした瞳で覆いかぶさる幼馴染に、春樹は慌てふためく。
「え、あ?ひろや、急に、なっ......」
「クソ!てめえなんでそう可愛いんだっ」
 可愛い。
 それは身長も180cm近くあり細くはあるが、生来の恵まれた体格のある自分に対して向けられる言葉ではないだろうと、春樹は訝しげに博也を見た。
 そんな春樹の制服のスラックスに、博也は鼻息荒く手をかける。
「博也っ」
 現在2人とも上半身は裸。更に博也は春樹の下肢を覆う服を奪おうとしている。
 その急展開に、春樹はさーっと顔を青ざめさせた。
「止めろよ博也!」
「大丈夫、痛くしねえから!」
「痛くしないって、何するつもりだお前っ」
 博也にぐいぐい下にスラックスを引っ張られるのを抵抗するが、じわじわと下がっていってしまう。
 足の付け根が露になり、大事なところが見えそうな状態に、春樹はじわりと目に涙を浮かべた。
「博也、ホントにやめ、」
「うっせえ!黙れこの......っ」
 怒気を漲らせた博也が、片腕を振り上げた。
「!」
 殴られる、と春樹は頭を両手で庇う。
 当然、抵抗がなくなったために、スラックスは難なく脱げた。
 引きずられた下着も半ばずり落ちているが、春樹は身を硬くしたまま動こうとしない。
「......」
 1人息を荒げていた博也は、自分が酷く低俗な行動を取っていたことに気づき、手を下ろした。
 殴らないでほしいと春樹が訴えたにも関わらず、また同じ事を繰り返そうとする自分に、博也はぎりっと歯軋りをする。
 恐怖心を煽らないようゆっくりと春樹から離れ、博也はシャツを手に取った。
 春樹の浅黒い肌を覆うようにかけてやると、その身体が大きく震える。
 それを見た博也は、それ以上春樹に近づけず、離れた壁に寄りかかるとずるずると座り込んだ。
 帰ればいいだけだと思いつつも、博也は春樹から離れることが出来ない。
 自分を苛めながら、博也は深くため息をついた。
 一方の春樹は、しばらく経っても何もしてこない博也に、怪訝な表情で身体を起こす。
 暗い室内で博也を探し、うずくまる博也に視線を向けた。
 春樹はそっと息を飲んで、様子を伺う。
 博也は動く気配はない。
 それでも、博也がまた乱暴を働くのではないかとじっと凝視する。
 ややあってから、今の自分が殆ど裸体な事に気づいた春樹は、かけられたシャツを着込み、スラックスも履き直した。
 その間にも、博也に変化はない。
 微動だにしない博也に、四つんばいになった春樹はおそるおそる近づいて、博也の顔を覗き込んだ。
「......」
 俯き加減のまま目を閉じている。眉間には深い皺が刻まれていた。
 怖い顔だと春樹は思ったが、しばらくして聞こえてきた寝息に少しだけ頬を緩ませる。
 この状態で良く寝れるものだと半ば呆れもしたが、博也が起きていないということで春樹は緊張感を解いた。
「言ってみるものだな」

 殴らなかったのだ。あの博也が。

 博也を起こさぬように小さく呟くと、春樹は博也から離れて毛布を取り出す。
 寝ているところを起こして、布団に寝かせるまでの勇気はない。
 だが上を着ないまま壁に寄りかかって寝ている博也は、下手をしたら風邪を引いてしまう。
 できるだけ音を立てず、また博也を刺激しないように毛布をかけると、春樹はごろんと横になった。
 そうすると、博也のしかめ面が良く見える。
 先ほど服を脱がされた時も、博也は自分のことなど気にせずに事に及ぶのだろうと、春樹は諦めていた。
 でも、博也は無理強いはしなかった。
 しかけたが、止めてくれた。
 それが嬉しい。
 下から博也を眺めたまま、春樹は笑みを浮かべていた。



「ん......」
 博也が身じろぐと、ずるりと毛布が落ちて外気に当たる。
 少し冷えたそれに、博也は薄っすら目を開けた。
 どうしたら良いか考えすぎて、気づいたら寝てしまった。
 壁に寄りかかっていたせいで、首も背中も尻も痛いと、身体を起こそうとする。
 だが、スラックスの裾が何かに引っ張られ、博也は動きを止めた。
 足元を見やり、博也はひゅっと息を飲んだ。
 自分が動いた所為で、その手は裾から外れてはいるが、間違いなく。
 春樹が、そこに横になり、博也の服の裾を掴んでいた。
 信じられない気持ちで博也は春樹を見下ろす。
 瞳は閉じられていて、寝ていることが安易にわかる。
「は......」
 春樹、と呼びかけようと思ったが、また怯える瞳を向けられたくない博也は、結局口を閉じた。
 手足を縮める胎児のような体勢を見て、寒いのだろうと博也は自分にかけられていた毛布を春樹にかける。
 それから少し考え、同じ毛布に潜り込んだ。
 横向きに向き合うようにして、春樹を眺める。
 触れられる位置にいるのに、手を出そうとは考えない。
 春樹の穏やかな寝顔を見ているうちに、とろとろとした眠気が博也を襲う。
 睡魔に誘われるままに、博也もまた目を閉じた。


 朝、起きた時には2人は互いを温めるように抱きしめ合っていた。


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