そのご-5
清々しい......とはいかなかった朝。
狭いキッチンスペースに立ち、朝食の用意をする春樹は、少し離れた場所から聞こえる水音に耳を澄ます。
ざーざーと激しい雨のような音は、博也が使っているシャワーのもの。
その音を、春樹は酷く気にしていた。
「いっ」
気を散らしていた春樹は、不注意で包丁で自分の指を切ってしまって手を止めた。
じわりと血の滲んだ指を咥えて、小さく息を吐く。
今朝は、起きたら博也を抱きしめていた。
子供の頃に母と一緒に寝たことを夢で見ていた春樹は、目を開いた瞬間に相手が博也だったことに驚き、声を上げてしまった。
その声に、春樹の腰に手を回していた博也もさすがに目を覚ます。
起きたばかりの博也は少しぼやっとしたあとは、朝食の用意を春樹に言いつけて1人シャワーを浴びに行ってしまった。
博也は意外にグルメで、パンと牛乳程度の朝食では納得しない。
いつもは朝食を持参するが、今日は帰らずに1泊した博也の腹を満たすための朝食の準備だ。
春樹も元々料理が出来ないため、インスタントの味噌汁にたきたてご飯。それに肉が申し分程度に入った野菜炒めが今日の朝食。
炒めればいいだけの野菜炒めは、春樹が母から教わった唯一の手料理だった。
博也がシャワーから出てくる前に支度を終えようと、乱雑に切った野菜を少し深めのフライパンに入れて炒めていると、音が止んだ。
ドアの開閉に、ぺたぺたと足音。
春樹の意識は、近づいてくる博也の気配に向いていた。
「何作ってんの?」
その声は、以外に自分に近いところから発され、振り返りかけた春樹は身体を跳ねさせた。
肩にタオルをかけたまま、上半身裸の博也が春樹の肩に顎を乗せるように覗き込んでいる。
「野菜炒め、だけど」
「ふーん。俺の分肉多めに入れろよ」
「わかってる」
会話が終わった後も、博也はそこに立って春樹の手元を覗き込んでいる。
身近すぎる体温に、春樹は博也が気になってしょうがない。
意識的に博也の存在を排除しようとわざとフライパンを揺らしたり皿を取ったりと、大きな動作を繰り返すが博也は離れる気配はなかった。
「......博也」
いい加減に焦れた春樹が声をかける。
「あん?」
「すぐ出来るから、座って待っててくれないか」
「てめえがちゃんと出来るか見てやってんだよ。ありがたく思え」
偉そうな口調は変わらない。
ため息を噛み殺して、手早く炒めた野菜を大皿の上に盛り付けると、春樹は博也にその皿を差し出した。
「テーブルに持っていってくれ」
「もっと可愛く頼め」
「......」
腕を組み、尊大に構える博也に、次は我慢しきれずにため息が出た。
博也の脇を通り過ぎてテーブルに向かおうとすると、腕を捕まれる。
「可愛く頼め」
二度目を、言った。
「......お願いだから、持っていってほしい」
こいつ馬鹿じゃないか、と思いながら春樹は少し言い回しを変える。
すると「65点だな」と鼻で笑われながら皿を奪われた。
何をさせたいのかわからない。わからないが、なんとなく腹が立つ。
春樹は朝から疲れた気分でご飯と味噌汁をよそい、小さなテーブルに置いた。
畳の部屋に相応しい、古い木製のローテーブルだ。
「いただきます」
「ます」
手を合わせ、2人で黙々と食事を口に運ぶ。正座をして姿勢良く食べる春樹に対して、博也は胡坐で背を丸めていた。
ご飯を口に運びつつも、博也は向かい側の春樹を眺める。
手元に視線を落としていた春樹は、博也の強い視線に気付いて顔を上げた。
「なんだ」
「いや、歯型くっきりついてると思って」
眼差しは、春樹の首筋に注がれていた。
あれだけ噛んだのだ、そう簡単に消えるわけがない。
春樹は噛まれたときの怖さと痛さが蘇り、喜ぶ博也に僅かに顔をしかめた。
そんな春樹に気づかぬまま、博也は肩にかけていたタオルを外す。
春樹は僅かに目を見張った。
隠れていた部分が露になったせいで、昨日よりも鬱血がひろがり、青黒くなった肌が良く見える。
朝起きてから、春樹も自分の首の状態を確認したが、やはり博也の方が春樹より酷い状態になっていた。
博也は気にせずに朝食を頬張っているが、居た堪れない気持ちになった春樹は箸を置いた。
「首、酷くしてすまなかった」
「は?」
「病院に行こう。薬用シップでも貼れば、もう少しましになるだろう」
痛ましいものを見るような春樹に、博也は肩を竦める。
「いいじゃん、これ」
「でも」
「所有印みたいでさ。キスマークよりもずっと......」
言いかけた博也は、自分が口にした言葉に若干顔が赤らめていく。
独占欲の塊のような、春樹の首筋に付いた歯型。そして春樹に付けさせた噛み跡。
互いにつけた、所有印。半端ない自分の執着心を見せ付けられたような気分になった博也は、僅かに視線を下げた。
赤くなった博也につられて、春樹も赤面しつつ自分の首筋を抑える。
自分が博也のものになったような感覚。そして、博也を自分のものにした気持ちが心に生まれる。
昨晩の情景を改めて考えると、一部分はまるで情事のようだったと、春樹は不意に思い立った。
暴君を、組み敷いて声を上げさせたのだ。
辛いことを強いられていてそのときはまったく余裕がなかったが、「もっと」と強請る博也は、抗しがたい色香をまとっていたように思える。
不埒なことを考えてしまった春樹は、押さえたあざがずきりと痛み、まるで自分を責めているような気がした。
「......」
「......」
朝の短い時間に、奇妙な空気が流れ込む。互いに意識しあっているのが、嫌でもわかった。
この変な雰囲気がろくでもないものに変わる前に、早く食べて出なければと、春樹が箸に手を伸す。
すると、何かに気づいた博也が春樹の手を握った。そのまま引かれて、春樹は腰を浮かす。
血の固まった指先を眺める博也。
「指どうした」
「さっき、野菜を切っていて間違った」
「はっ、どんくせ」
笑った博也は、赤い舌を差し出す。そして春樹の指を舐め上げた。
れろ、と熱い舌が春樹の指を引き込んで傷口を吸い上げる。
「っ」
ずきんと痛みが走ったが、それよりも博也の眼差しが気になった。
鋭く痛い眼光。普段であれば、震え上がるものなのに今日は様子が違う。
震えの代わりに身体を覆うのは、まるで発熱したかのような身体の温かさ。
博也は傷口を何度も舌先でなぞり、春樹の身体がぴくりと震えるのを堪能する。
「ひろ、っ博也、指離してくれ。......頼むから」
絶え入るような声色で嘆願する春樹に、冗談半分で舐め始めた博也も、じわりと首をもたげた性欲に目を細めた。
だが、昨日のことが鮮明に蘇る。
ここでまた無理強いし拒絶されるようなことがあれば、また手を出しかねない。
熱い吐息を零した春樹に、博也は名残惜しそうに指先を軽く齧ると口から出した。
「さっさと食おうぜ。遅刻する」
「そう、だな......」
引いた指をぎゅっと握りこみながら、春樹も頷いた。
2人の関係は緩やかに少しずつ、変わり始めていた。