そのろく-7


 マンションを出た春樹は、博也も心配しているかもしれないと思いつつ、学校に戻ることなくまっすぐに家に帰った。
 アパートにたどり着いて鍵を開けて中に入ると、そのまま床に倒れこむ。
 ホッとして力が抜けてしまったのだ。
 目を閉じて深呼吸をした後に、手を強く握る。
 握りこぶしを薄っすら開いた瞳で見つめると、その手が震えていることに気づいた。
 帰ってくるまでにそれなりの時間が経っているが、マンションから出てきたときとまったく変わっていない。
「こんなことで」
 呟いた声すら弱々しく掠れていることに、春樹は唇を噛んだ。
 思ったよりも傷ついている自分に気づいて、そのことで春樹は更にショックを受ける。
 ぎゅっと身を屈めると、首筋に付けられた歯型がずぎりと痛んだ。
 無意識のうちに首筋に手を伸ばして指で刺激する。さらに痛みは強まったが、その刺激が心地よかった。
 春樹は関谷との行為に関してはまったく後悔していなかった。それでも精神的に受けた打撃は残っている。
 首筋の疼痛は、博也の存在を強調しそれを和らげてくれている気がした。
 マゾになったらどうしてくれるとひっそり思いながら、春樹は動く気になれずにそのまま床に留まっていた。
 来るかと思っていた博也は、その日、とうとう姿を現さなかった。


 唐突に起きた関谷との行為の2日後。
 春樹は重い足取りで学校に向かっていた。

 博也が、来ない。

 ずっと自分に構わなくなれと願っていた春樹だったが、このタイミングで姿を見せなくなったことにじりじりとストレスを感じていた。
 自分との行為のことを、関谷は言ったのだろうか。
 春樹は言われてもいいと思っていた。むしろ、そのために身体を重ねたのだ。
 そのことで博也に怒られても殴られても、詰られても仕方がないと思っていた。
 だが、このように音沙汰なしになるとは思ってもみなかった春樹は、ともすれば貧血を起こしそうな気分で足を進めていた。
 すっかり身体が弱くなった気がする。
 昨日も熱が出て、結局は学校を休んでしまった。
 家に博也は来なかった。......学校では会えるだろうか。
 いつの間にか博也に会えることを楽しみにしていた春樹は、学校について一度教室にカバンを置くと、まっすぐ博也のいる教室に向かった。
 駆け足になりそうになるのを堪えながら、早足で博也の教室にたどり着くとそっと教室を覗く。
 ざっと視線を走らせたが、そこに博也の姿はなかった。
 落胆し掛ける心を、まだ時間が早いだけだと励ます。
 前まで、朝は遅刻は当たり前だった博也だ。もしかしたら、また寝過ごしていたりするのかもしれない。
 春樹は博也の教室の前で、壁に寄りかかりながらHR時間の間近まで待ったが、博也は姿を現さなかった。
 すっかり意気消沈した春樹は、ため息を漏らしながら壁から身を起こす。
 そこで、踵を返しかけた時だった。
「よお。わんこちゃん。ご主人様に会いに来たのか。昨日休みだったもんな」
 低い声に呼ばれて、ぎくりと肩を竦ませる。慌てて振り返るとそこには関谷が立っていた。
 いつもより、なんとなくだが纏っている雰囲気はなにやら荒んでいる。
 『荒んでいる』と感じるのは、相手に自分が恐れを抱いているからかと、春樹は後ずさった。
 博也のクラスには、関谷がいるのを忘れていた。
 春樹は関谷を見たことで、数日前の出来事をありありと思い出して鳥肌を立てる。
 ここにはいたくないという本能のままに、春樹は駆け出した。
「待ってたって博也は......って、待てよ!」
 背後から関谷の声がかかるが、それも春樹を止めるに至らない。
 姿を消してしまった春樹に、関谷は腹立たしそうに舌打ちをした。
 一方教室に戻った春樹は、逸る鼓動と乱れた呼吸を落ち着かせながら教室を見回した。
 教室で自分と接点あるのは山浦だけだ。
 数少ない友人の存在を探したが、HRが始まっても山浦も姿を現さなかった。
 欠席は山浦だけと出席を取る担任を眺めて、山浦もいないことに春樹は心を沈ませる。
 話をしたい相手がおらず、春樹は酷く気落ちしながら目を伏せて教諭の声を右から左へと流していた。


 博也の教室を覗きに行きたいと思いながらも、その都度に関谷の存在を思い出して躊躇していた春樹は、昼休みも放課後も図書室で時間を潰していた。
 ある程度の時がたち、人気もなくなったところで図書室を出る。
 薄暗くなった廊下を歩き、昇降口で上履きを履き替えていると、誰かに肩を捕まれて振り向かされた。
 視線にすぐさま明るい灰色の髪が目に入る。とたんに春樹は身体を強張らせて靴箱に背中を押し付けた。
 そこには、関谷が立っていた。イラついたように春樹を睨みつけてくる。
 喉が渇くのを感じながら、春樹はゆっくり口を開いた。
「何の、用だ」
「てめえ遅いんだよ。教室に行ったらいねえし。玄関で張ってんのにさっさと来ねえし」
「俺がどこにいようと、関谷には関係ないだろう」
 平静を装って声を出す春樹に、関谷はため息をつく。
 途端に関谷が纏っていた苛立ちがふっと消えた。春樹を見る眼差しに、同情の色が混じる。
「その分だと知らねえんだな」
「何を」
「俺もさ、ちょっと後悔してんだよ。あわよくば博也も抱ければいいかと思ってたけど、こんなに深刻になるとは思ってもみなかったし」
 ぼやいた関谷の言葉に聞き捨てならないことを聞いた気がして、春樹はぶわっと警戒心を露にした。
 まだ博也を抱きたいといってるのかと、春樹の表情が険しくなる。
 無表情ながらも緊張した雰囲気に包まれていた春樹が、自分に威嚇するような視線を向けたことで、関谷はふっと口元を緩めた。
「そう睨むなよわんこちゃん。もう手をださねえよ。間に入り込む隙ねえもんなお前ら」
「......」
 両手を上げて降参を示した関谷だが、春樹は警戒を解かない。
 押し黙って睨む春樹に、関谷は衝撃的な事実を告げた。
「博也、しばらく学校に来ないぜ。無期停学中。信行と豚も、4日間の停学中だとよ。博也に会いたいなら自宅に行けばいい」
 関谷の言葉に、春樹は訝しげな眼差しを向けた。
 博也の言うことは基本的に何でも信じてしまう春樹だが、逆に関谷の言うことは全てに疑うようになっていた。
 言葉巧みにマンションに連れ込まれてしまった自分を後悔しているからこそだ。
「どうして」
「自分で聞いてこいよ。そんじゃ俺言ったからな」
 関谷は、自分の仕事は終わったとばかりに立ち去ってしまった。
 追いかけて再度理由を聞きたい気持ちにも駆られたが、合意とはいえ不本意に抱かれた相手に、極力近づきたくない。
 春樹の思いとしては『入れられた』だけで、きちんとしたセックスをしたわけではない。が、人によってはそうは取らないだろう。
 博也は、どのように受け取るのかと考えると動悸が激しくなるので、春樹はあまり考えないようにしていた。
 しかし一昨日も昨日も、そして今日も姿を現さないのは停学中だからなのだろうか。
 ......自分に興味をなくしたわけではなく?
 果たしてどちらだろうかと立ち尽くして考えた春樹は、「早く帰れ」と通りかかった教諭に声を掛けられて、ようやく学校を出た。


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