そのきゅう-3



 博也の勉強を見るようになって、2日。
 なんだかんだ言いつつ、博也のあまりの出来なさを知った山浦が、闘志を燃やして放課後も付き合ってくれるようになったことに、春樹は安堵していた。
 今も春樹の教室で、春樹の椅子に座った博也が、山浦を講師に赤点を取った現代社会のテストの復習をしている。
「なんでわかんないかな!テレビ見てたら、少しはわかりそうなもんなんだけど」
「うるせえ豚!司法の仕組みなんて知らなくたって生きていける!」
「知らなくたって生きていけるけど、知ってたほうがより楽に生きていけるんだよ!」
 博也と山浦のやり取りが壮絶で、春樹が口を挟める隙がなかった。
 他のクラスメイトもあまりの剣幕に、みんな教室に残ることなく部活に行ったり帰宅したりしている。
「世の中ってめんどくせえなあ!」
 もうやめた、とばかりに博也が放り投げたペンが、黒板に当たって床に転がった。
 春樹はそのペンを拾いに動く。すると、教室の前のドアががらりと開いた。
「なんかすっごいねえ。声外まで聞こえるよ」
 のほほんとした表情で入ってきたのは桜庭だった。
 いつものように長い金髪を女の子が使うようなゴムでまとめて、柔らかい雰囲気を纏っている。
 ペンを拾った春樹を見て、にっこりと微笑んだ。
「信行!この豚何とかしろよ!うぜえしうるせえんだよ!!」
 友人が来たことに気づいた博也は、抗議を表すように机をがたがた揺らしている。
 その仕草はまるで駄々をこねる子供のようだ。
「そういうこと言うと、またつっじー悲しむよ。あーあ、可哀想なつっじー」
「っ......」
 呆れたようにそう呟いた山浦に、博也はむっと口を閉じる。
 悪口は言わないで欲しいと何度も頼まれている博也は、バツが悪そうに少し上目遣いで離れた位置に立っている春樹を見つめた。
 普段は暴君のくせに、こんな時ばかり甘えるような視線を向けられて春樹は動揺する。
 無意識の行動だろうとわかっているのに、かわいいと思ってしまう。
 油断すれば見つめ返し二人だけの世界に陥ってしまうことが、ここ数日でわかってきた春樹は迷いつつも視線を逸らした。
「!」
 春樹に、無視されるような形になった博也は、ショックを受けてきっと春樹を睨みつける。
 そして声を荒げた。
「とろとろしてねえでさっさとペン持って来いよ!どんくせえ!」
 急に機嫌の悪くなった博也に、春樹は表情を変えずにひっそりと驚いて見やる。
「悪い」
 戻ってきた春樹にペンを差し出されると、博也はひったくるようにペンを奪った。
 春樹はぱちりと瞬きをし、自分の態度が博也の態度を硬化させたとは思いもよらない。
 わかっているのは、春樹以外の友人ばかりだ。
「なんか、わんこちゃんも博也もかわんないなあ」
 苦笑して近づいてきた桜庭が、ぐいっと春樹の肩を掴んで引き寄せた。
「信行」
 自分以外の者が春樹に触れるのが嫌な博也は、春樹に向けていた視線より更に冷たい眼差しを桜庭に向ける。
 機嫌が下降した博也に春樹はさっと青ざめたが、桜庭はそれほど堪えてないらしい。
 春樹が固まっていることをいいことに、肩を組んで博也に笑顔を向けた。
「んな顔で睨むなって。俺がハニーしか愛してないの知ってるだろ~?」
「なら豚に引っ付いてろ。春樹に触んな」
 苛立ちを隠しもしない博也に、桜庭は大げさに肩を竦めて見せる。
 その横で、「みんなぼくのこと適当に呼びすぎなんだよ。てか、誰がハニー?」と山浦が迷惑顔だ。
「もーわんこちゃんばっか気になって勉強になってねえじゃん博也。......わんこちゃん、博也に勉強してもらいたい?もらいたいよねぇ?赤点いやだもんねぇ?」
「あ、ああ......」
 未だに『わんこ』と呼ばれることに違和感を感じつつも、春樹は間近にある桜庭の顔を見上げて頷く。
 するとにーっと目を細められた。
「博也ぁ、わんこちゃん借りるよぉ。勉強終わったら俺らの教室に来いよ、マンツーマンの方が進むっしょ?」
 桜庭の提案に、春樹や博也が何かを言うよりも早く、山浦が反応した。
「......まーぶっちゃけてそうかも。むらやん、つっじーばっか見てるから全然やんないし」
 山浦に言われるのであれば、そうなのかもしれない。
 納得する春樹とは反対に、博也はいらいらと指先で机を叩いた。
「ああ?俺の勉強を教えさせてやってんのに、なに言ってんだ豚」
 堂々とそう言い放てる博也に、春樹は思わず感心してしまった。
 だが山浦は言葉を失うことも呆れることもなく、博也に言い聞かせた。
「むらやんこそ、いい加減にその180度間違った認識改めて、ちゃんと勉強しなよ」
「うるせえ。春樹、勝手にどっか行くんじゃねえぞ。行ったら勉強しねえからな」
 春樹を脅す博也を見て、桜庭は春樹にひっそりとあることを囁いた。
「え?」
「これで言ってみなよわんこちゃん。絶対効果あるって」
「でも」
「いいからほら!」
 どん、と背中を押されて、春樹は勉強する博也に近づいた。
 春樹の耳元で桜庭が囁いたのを目の辺りにしていた博也は、変わらず不機嫌そうな表情だ。
 そんな博也の耳に、春樹は顔を寄せた。手はより近さを認識させるために博也の肩に置く。
 口にするのは少しばかり躊躇われるが、これで博也がやる気になってくれるのであれば背に腹は変えられない。

「博也なら、やればできる。今日の分のノルマ終わらせて、......俺、早く博也と二人っきりに、なりたい、な......」

「......」
 気恥ずかしさが含まれて掠れた声での囁きに、博也は目を見開いた。
 一問一句、違えることなく言えと指示したのは桜庭だ。しかし、博也はもちろんそのことを知らない。
「......うわーうわーうわー......」
 うっかり間違って聞いてしまった山浦も、驚きとともに自分のことのように顔を赤らめてしまう。
 その山浦の態度にやっぱり言うべきではなかったかと、春樹は恨めしそうに桜庭を見やる。
 だが。
「......っしゃ!30分!30分で終わらせる!待ってろよ春樹!可愛がってやるからな!やるぞ白豚!!」
 気合を入れた博也が、さっきまで自分では一度も触れようとしなかった教科書を手に、猛然と勉強を始めた。
 その勢いに春樹も山浦も若干引き気味である。
「んじゃ、俺わんこちゃんのお守りしとくよぉ。終わったら教室に取りにきてねえ。さ、行こわんこちゃん」
「あ、ああ......」
 ぐいっと腕を引かれて春樹は桜庭と教室を出る。
 先ほどとはうってかわり、春樹が視界から消えても博也は騒ぎ出すことはなかった。
 その博也の集中力と、またそんな博也の性格を把握している桜庭に春樹は感心してしまう。
「すごいな桜庭......俺も見習いたい」
「まあ俺もマシュマロちゃんと二人きりになりたいだけなんだけどねぇ!」
「ましゅ......山浦のことか。やっぱり仲いいんだな。山浦が違うと言うから、仲悪いのかと思っていた」
「んーん。子豚ちゃんは恥ずかしがってるだ、け!俺らもうちょーラブラブ!」
 桜庭の一方的な思いを完全に勘違いしつつ、春樹は時間を潰すために博也の教室に向かう。
「......それに、博也のいないところで、ちょーっとわんこちゃんと話、したかったんだよね」
 からりと教室のドアを開けたところで、桜庭が低く呟いた。
「え?」
 春樹は聞き返すと同時に、その教室の中に誰かが立っていることに気づく。
 窓枠に寄りかかって気持ちここにあらず、な態度だったその男は、桜庭と春樹を見て顔をしかめた。
「......信行、お前」
 灰色に染め上げた髪に、前よりもっと目立つところに増えたピアス。
 近寄りがたい雰囲気を持った男は、かつて博也の隣によくいた男だ。
「関谷......」
 よもやこのタイミングで会うと思っていなかった春樹は、男を見て言葉を失った。



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