インナモラートの微熱01
教師の教科書を読み上げる声と、黒板にチョークを打ちつける音が耳に入る。
時々、声を殺した誰かの会話が聞こえた。
教室の窓から入ってきた初秋の風が、長谷川渉の茶髪を揺らす。
渉は視界に入った髪をかき上げて、教科書の影で欠伸を噛み殺した。
午前中は校内一斉の身体測定と体力測定があった。
五時間目の数学のあとは体育が控えているので、渉のクラスはみんな体操着で授業を受けている。
食後の授業なので、皆どこか緩んだ空気になっていた。
腹が満ちて居心地良く寝ているものもいる。
渉も例に洩れず、秋の暖かな日差しと少しだけひんやりとした風に誘われるように、そっと上半身を倒した。渉の席は窓側の一番後ろで、更に前の席の男が真っ直ぐ座っているため教壇の教師からは死角となる。
姿勢の良い男の背を眺めて目を閉じようとした渉は、珍しいものを見つけて目を見開いた。
普段なら制服の襟で隠れて見えない場所。体育の授業でも、わざわざそんなところはまじまじと見ないだろう、部分。
男のうなじにぽつんと赤い鬱血があった。
はて、と渉は考える。
目の前の男は学級委員長を務めており、普段から真面目なことで有名だ。
今だって全体的に倦怠感漂う教室で、きちんと授業を受けている数少ない一人である。
高校二年にもなってその程度で赤面したりうろたえたりするつもりはないが、堅物が服を着ていると言ってもいい男が、うなじにキスマークをつけているのは少しだけ興味を惹いた。
この分だと付けられた本人は気づいてない。
「......」
渉は机に肘をついて顎を支えながら、渉は男の後姿を見つめた。
相手はどんな女だろう。
堅物相手にこんなことをできるのなら、きっと年上だ。
そして男に馴れた女。家庭教師の大学生とか。
......有りうる。それで勉強で成績の良かったご褒美に......。
「長谷川?」
級友と見知らぬ美女の妄想を繰り広げていたところで、当の本人が振り返って渉を見ていた。
短く黒い髪はワックスでまとめられている。シャープな顎のライン。
太目のきりっとした眉に、くっきりとした二重だが、細長で涼しげだ。
薄めの唇が動く。不適切な想像をしていたせいか、口元にあるホクロが少しいやらしく見えた。
「え、あ、なに?」
「ほらこれ」
「へ」
手渡されたのは、数学のテスト用紙だった。
「げ!なにこれ!」
「今先生が言ってたの聞いてなかったのか。皆浮き足立ってるから小テストするって」
呆れたその指摘に慌てて周囲を見回せば、自分と同じようにぶつぶつと悪態をつきながらもテストを受け始めてる。
「うわ......マジかー......」
がりがりと頭を掻いた渉は、ふっと誰かに笑われた気配を感じて手元から視線を上げる。
顔をほころばせた男と目が合うが、すぐに相手は前を向いてしまう。
もしかして焦ってるのを嘲笑われたのか、と思うと腹が立ってくる。
澄ました顔しやがって、と心の中で悪態をつきながら受けたテストは、残念ながら半分もできなかった。
「くそう......」
テストが思うようにできなかった渉は、次の体育の時間でもそれを引きずっていた。
体育は隣のクラスと合同でバスケットをやっている。
体育館内に二面あるバスケコートをいっぱいに使っても、あぶれて眺めている者が半数だ。
男子校で合同授業をするのが間違いだと渉は常々思っている。男ばかりでイモ洗いのようだ。
「なに唸ってんだ」
舞台に腰掛けてむすっと不機嫌そうにしている渉に、親友の吉岡平祐が声をかけた。
金に近く脱色した髪は短く刈り上げられており、その眼光は鋭い。
身長は高校二年生にして一八〇台前半と高く、成長でどこかまだ細い印象を与えるが、ボクシングで鍛えられた身体は、他の生徒にはない威圧感を与える。
見た目から怖い印象を与える平祐は遠巻きに見られることが多いが、本人は気にしていない。
「委員長にさっきのテストの時間、鼻で笑われた」
「なんで」
「俺がテストでげって顔してたから」
「じゃあ仕方ねえだろ。お前頭悪いし」
そうあっさり流された。
見た目はどこぞの不良、やくざ予備軍とでも言っていいほどの平祐だが、成績は渉よりも格段にいい。
性格もすぐにかっとしやすい渉に比べると、冷静で状況分析に長けている。
なのでつるんでいる渉とすれば、平祐が言うからには自分が笑われるのも仕方ないのかと肩を落とした。
「どうせ馬鹿だよ。あーあ......」
「で、渉。この尻尾そろそろ切れよ」
ぼやく渉に、平祐は話は終わったとばかりに違う話題を持ちかける。
「やだ」
尻尾、というのは渉が大事に伸ばしているウルフカットの後毛だ。トップは長いとワックスでまとめるのがめんどうなので短くしているが、後は伸ばしっぱなしにしている。
ようやく背中につくほどになった自分の後毛を、引っ張る手を渉はぺちっと叩いた。
「もう三つ編みできる長さじゃん」
「結ぶなよ?変な癖つくからやなんだよ」
「はいはい」
渉が嫌がる様子を見せても平祐は構わず弄り回し、しばらくして飽きたように髪を離した。
やめろと言っているのに短く三つ編みされた髪は、平祐の手が離れたところでするりとほどけていく。
「もうちょっと短くてよくね?この髪」
「うるせ。俺の勝手だろ」
しかめっ面を作りながら渉はふんと鼻を鳴らした。
茶色のウルフカットと少年らしさを残す卵型の輪郭。
目はぱっちりとした二重で薄茶色の虹彩が大きいのが、密かに渉のコンプレックスだ。
それのせいで実年齢よりも下に見られることが多い。
身長は一七五cmをようやく越えたところで、まだ徐々に伸びている。
平祐に付き合ってたまにボクシングジムに通っているので、体力にも自身があった。
体育の時間は好きなのだが今はこうして、順番待ちするしかなく少し暇だ。
バスケ部員も混じっているが、ほとんど素人の試合を見て何が楽しいのか。
それは平祐も同じ気持ちだったようで、見学することを放棄してごろんと舞台に横になっている。
呼びかけても身動き一つしない。
肩を竦めたところで、低い声の歓声が上がった。
反射的に視線をめぐらせる。手前ではなく奥のコートで、スリーポイントシュートがあったらしい。
ゴール下に転がったボールと、ハイタッチをするクラスメイト。
実際の試合ではないので、そんなちょっとしたやりとりもある。
すぐさま隣クラスのチームが反撃に出て、集まっていたクラスメイトは慌てて解散していた。
「ふーん?」
ぐしゃっと頭を撫でられていたのは学級委員長だった。
おそらく彼がシュートを決めたのだろう。
成績優秀で、スポーツ万能。顔だって悪くない。
多少考え方が硬いところもあるが、クラスメイトとの仲も良好だ。
さぞかし射止めた女は鼻が高いだろう。
さっきの時間見た赤い鬱血がちらつく。
もしかしたら、あれは牽制なのかもしれない。私の男に手を出すなという。
男子校であっても女と出会いがないわけでもない。
嫉妬深い恋人なんだろう。
鏡に映せば見える首筋ではなく、本人が気づかないうなじに跡を付けたのだから。
走り回る男が首筋を伝う汗を体操着で拭う。
見えた腹や他の部分にはキスマークらしい跡はない。
渉の中で、学級委員長の恋人イメージの修正がされた。
年上の女ではなく、同学年の女だ。
きっと男に見合うだけの清廉な女だろう。
だけど嫉妬には勝てず、所有物のキスマークを付けてしまう。
そう考えると、ちょっと面白い。
渉の脳裏に浮かぶのは、美少女と例えられそうな女生徒だ。
想像するだけならタダ。どうせなら見目麗しいといいとばかりに妄想は広がる。
途中から凛々しいクラスメイトから、自分と女生徒との絡みに変わったのはご愛嬌だ。
恥ずかしがる少女を優しくリードする自分を想像して口元を緩める。が、すぐにその想像は消え去った。
童貞男では、考えられる部分は限られている。
「彼女ほしいなー」
「......正直に女とやりたいって言えよ。この童貞」
思わず口にした呟きに寝ていると思っていた平祐からのツッコミが入って、渉は目を白黒させた。