インナモラートの微熱02



 体育、掃除と体操着のまま過ごしたクラスメイトの一部は、HRもそのままで部活動に出て行った。
 残りは着替えて帰宅したり、だらだら過ごしたりしている。
 平祐は隣のクラスで、なぜかHRが長引いているようだった。
 一緒に帰ろうと待っている渉は、机に突っ伏して身体に受ける夕日に目を細めた。
「長谷川」
「あ?」
 名前を呼ばれて僅かに顔を上げる。
 すると、先ほど散々妄想に出演していただいた学級委員長さまが渉の机に手をついて覗き込んできた。
「あに?」
 机に顎を付けたまま発声したせいで発音が不明瞭になっている。
 じっと見つめると男は少しだけ笑った。
 面白くもないのになぜ笑う。
「文化祭の打ち合わせ、そろそろ時間だ。行こう?」
「?」
 不思議に思った内心が表情に出ていたのだろう。男が口を開く。
「今日、打ち合わせ。文化祭での注意点とか、基本的な話で終わると思うけど」
 説明を受けても渉の表情は変わらなかった。
 そんな渉に男の方が訝しげになる。
「まさかとは思うけど、忘れてる?」
「何を?」
 質問に質問で返すと、僅かに委員長の眉間に皺が寄りかけた。
 あ、今イラついたな。んで俺がイラつかせたな。
 そんなことを考えていると、男は深くため息をついて微苦笑を浮かべた。
 しょうがないな、なんて言わんばかりの表情に、渉の方が顔をしかめてしまう。
 そんな表情される謂れはないぞと睨みつけても、相手の態度は変わらなかった。
「長谷川、この間のホームルームの時間の時に、文化祭の実行委員決めたの覚えてる?」
 物腰が柔らかく優しく問いかけられて、渉は尾骨の辺りがむずむずして落ち着かない。
 なんというか、男は上品過ぎて粗野な自分には合わないという漠然とした性格の違いを感じるのだ。
「そんなん!覚えて..................る」
 勢い良く言い切ろうとしたのに、駄目だった。
 すっかり忘れていたのに、委員長の一言で思い出したのだ。
 文化祭の実行委員を決めるのにクラス会を開いたが、誰も立候補せずに会議が停滞していた。
 他のクラスはもう帰っている気配があるのに、帰れないことで不機嫌になった自分が耐え切れずに立候補し、実行委員になった。
 確かに今日会議があると言われていたのに、頭からすっかり抜け落ちていた。
 バツの悪そうな渉に、男はそれ以上追及するようなことはしない。
「行こう。遅れると先生うるさいし」
「ああ。......えっと、それって俺出ないと駄目?委員長だけでも良くない?」
 打ち合わせは基本的に実行委員と補助として学級委員が出席となる。
 クラスから二人も出るわけだ。一人で十分じゃないかと遠まわしに告げると、男の笑みが深くなった。
「他のクラスは二人出てるから」
 有無を言わさぬ口調に、渉はこのまま帰ることは無理だと悟った。
 脱力しながら立ち上がり、携帯を取り出す。
 平祐に会議に出ることをメールして、やる気がないことを前面に押し出しながら教室の出入り口まで移動していた男を追いかける。
 並ぶと少しだけ男の方が身長が高かった。
 こうやって並ぶことなどないから今まで気づかなかったが、なんとなく気に食わない。
 渉は無言で歩く。共通した話題なんてない。
 男はクラスの中心にいたが、渉は少しクラスの輪から外れることが多かった。
 話す相手がいないわけではないが、それでもクラスには親しいといえる友人はいない。
 だから、今クラスでどんなことが流行っているのかさえ渉は知らなかった。
「そういえば」
 不意に男が視線を向ける。じっと見つめられて渉は戸惑った。
「僕の名前、覚えてる?」
 いきなり何を言うのだ。
 一年の時から同じクラスなのに、覚えてなかったらそれこそ酷いヤツだろうと渉は唇を尖らせる。

「清水」

 短く呼ぶと、みるみるうちに笑顔になった。
 その笑顔に渉は目を奪われる。
「よかった。いつも長谷川、僕のこと役職で呼ぶから」
「......だって、委員長は委員長じゃん」
 思わず見惚れてしまった自分を心の中で罵りながら視線を外す。
 男は普段から笑顔でいることが多かったが、今のような満面の笑みを見たのは初めてだった。
「僕をそう呼ぶのは長谷川ぐらいだ」
 何が言いたいのだと渉は眉間に皺を寄せた。
 むすっとした渉の表情を見た男は肩を竦める。
 まただ。なんとなく上から見下されてる気がする。
「会議の出席者は各クラスの学級委員長と文化祭実行委員だから、俺のことは名前で呼んで」
 紛らわしいだろうと微笑まれて、渉もにやっと笑った。
「むつみちゃんって呼んでいいってわけ?」
 からかうように告げると、男の眉がぴくんと反応する。
 清水睦。完璧な男が唯一持っているコンプレックス。
 名前の響きが女のようで嫌がっているという話は、誰かの話題の中で聞いた。
 たぶんそれを知ったのはクラスの中で最後の方だ。
 男の友人は殆ど清水と名字で呼ぶか、ムツと親しげに短く呼んでいた。
 渉のような悪意のある呼び方は、ふざけていてもする者はいない。
 露骨に嫌な顔をするかと思いきや、男の反応は渉の想像と違っていた。
 確かに眉は動いたが、男は笑顔のままだ。
「いいよ。わたるちゃん」
「......」
 渉はあっけに取られた。
 この歳になって、ちゃん付けで名前を呼ばれることなどない。親にだって呼び捨てだ。

『むつみちゃん』『わたるちゃん』

 互いの名前を可愛らしく呼ぶ想像をした渉の方が心底嫌な気分になった。
「......行こうぜ清水」
「うん。あ、長谷川。ノート持ってこなかっただろ? あとでペンと一緒に貸してやるから、メモ取れよ」
「え?」
「学級委員長は、実行委員の補助。一緒に話を聞いて手伝いはするけど、注意事項の周知徹底と、陣頭指揮ははお前の役目だから。あと予算に合わせて材料を集めるのも、お前だよ長谷川」
「ええ?」
 そんなの聞いてない。
 そんな面倒なら立候補しなかった。
 だからこそ誰も立候補しなかったのだと、今更ながら『早く帰りたい』という安易な理由であの時立候補した自分を責めた。
 せかすように項垂れた渉の肩を男が軽く叩く。
「まあ、手伝うから頑張れよ」
 だったらお前がやってくれ、こういうの得意だろう。
 恨みを込めた眼差しで男を睨んだが、何が楽しいのか上機嫌な男の表情が変わることはなかった。


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