インナモラートの微熱3度03



 そして次の日。
 前日と同じ時間を合わせたままの目覚まし時計は、朝早く渉を夢の中から起こした。
「ふあ......」
 大きな欠伸を一つ。パジャマ代わりのトレーナーを脱ぎ捨てると、部屋の寒さにぶるりと身体を震わせる。
 両親はまだ寝ている時間だ。
 昨夜も帰宅が遅かったことを知っている渉は、寝ぼけながらも起こさぬようにひっそりと服を着替えて朝食用のパンを頬張る。
 冷たいままだと腹を冷やすと言われて、少しだけ暖めた牛乳を飲み干して、渉は学校に行く準備を整えた。
「おはよう渉。今日も早いのね」
「おはよ母さん」
 洗面台で髪を弄っていると母親が起き出してきた。
 後毛が跳ねているのが気に食わないが、妥協して親に場所を譲る。
「気をつけていってらっしゃい」
「あー!もう髪さわんなよ!」
「アンタの場合、寝癖もセットも変わんないって」
「何言ってんだよ!」
 にっこりと笑った母親に髪をかき乱されて、渉は頬を膨らましたまま家を飛び出した。
 ひんやりとした朝の空気に背を丸めて周辺を眺める。
 ペットの散歩をしている人は見かけたが、幼馴染の姿は見つけられなかった。
 平祐は平日であろうと、毎朝の日課としてマンションの周囲をジョギングしている。
 昨日は運良く会ったが、今日はどうやら時間が少しずれていたようだ。
 でも会わなくて良かったかもしれない。
 平祐に会えば、清水と仲直りを企んでいることを見破られるに違いない。なぜか勘がいいのだ。
 ばれないうちに仲直りをしてそれでもし状況が変わったら、そのとき平祐には報告しようと渉は足を踏み出した。
 渉の家から高校までは電車で3駅行った先にある。
 駅からは少し歩くが、今の時間だとラッシュにも巻き込まれないで通える分、少しだけ得した気分だった。
 電車の中は暑いのに、外はやっぱり寒い。
 暑さに負けて脱いだカーディガンを着なおして、渉は学校に向かった。
 ここ数日の習慣で職員室に鍵を借りに行く。
 最近毎朝通う渉に、いつも鍵を貸してくれる初老の教師はにこにこと「頑張っているね」と褒めてくれた。
 実習室の鍵を開けて、教室内の空気を入れ替えて、さあ作業をしようと張り切ってドリル台のそばに置いてあった箱に手を伸ばした。

「えっ......」

 手に触れた布の違和感。反射的に箱の中を覗き込んで、渉はさっと顔を青ざめる。
「な、に......嘘だろ......?」
 本来一つずつ布に包まれて重ねて置かれているはずの二つの半球が、その形を変えていた。
 ばらばらになったアクリルの破片に、渉の呼吸は止まりそうになる。
 アクリルで出来た半球は、穴を開けられたことで強度は確かに弱くなっていた。
 昨日は滝沢に押し付けて帰ったが、あれだけ文化祭でプラネタリウムを上映することを楽しみにしていたはずの滝沢が、乱雑に扱うはずもない。
「いったい、誰が」
 呆然としていると、廊下から話し声が聞こえてきた。
「なんだかんだ言って、長谷川くんちゃんと最後の方までやってくれてたから、朝仕上げてスプレー振っちゃえば、明日には架台に乗せられるんじゃないかな」
「それならよかった。プラネタリウムの動作と音楽、ナレーションも合わせないといけないから、今ぐらいに出来てると助かるよ」
 聞き覚えのある声を聞いて渉はぎくりとなる。
 滝沢と、清水だ。
 こんな時に限ってどうして二人がここにいるのだと、渉は頭が真っ白になってしまった。
「あれ?」
 開いていた実習室を覗いた滝沢は、渉の姿を見つけるとぱっと表情を明るくした。
「長谷川くんおはよ!なんだ、今日もちゃんと来たんじゃないか」
「たき、ざわ......」
 ぱたぱたと嬉しげに走り寄ってくる滝沢に対して、渉は顔を強張らせたまま動けない。
 反射的に出入り口の部分で立ち止まった清水に縋るような眼差しを向けていた。
 清水は渉がいたことに少し驚きの表情を浮かべるが、やがてゆっくり微笑む。
 今まで視線も合わせずにいた清水が取った態度に、訝しく思う余裕もなかった。
「なに、どうしたの?」
 様子がおかしい渉に滝沢が不思議そうに瞬きをする。
 だが、渉が手にしていたアクリルの破片を見て同じように表情を硬くした。
「なにしてるんだよッ!!」
 駆け寄った滝沢から逃れるように後ずさる。手からは持っていた破片が落ち、床に当たって音を立てた。
 その破片と箱に残った残骸を見ると、滝沢は更に表情を変える。
「なんてことしてくれたんだよ......! これがないとプラネタリウム作れないんだぞ?! 間に合わないじゃないか!」
「っおれ、じゃない!」
「はあ?!」
 怒鳴られてつい怒鳴り返したが、自分より小さい滝沢が孕む怒気に飲まれた渉はびくっと肩を震わせる。
「あ、朝来たら......こうなってて......」
「嘘付くなよ! 昨日僕が帰ったときはこうなってなかった! 最後までいて、施錠にも立ち会ったんだから!」
 滝沢は渉に近づいて胸倉を掴んだ。乱雑に揺さ振られて渉は顔をしかめる。
「俺じゃない! 知らない!!」
「知らないじゃないだろ?! どーすんだよ!!」
「滝沢、落ち着いて」
 詰め寄る滝沢の肩に清水がそっと手を置いて囁いた。
 低く穏やかな声に、ぎゅっと握った拳を震わせる。顔は真っ赤に染まり、その瞳には涙が浮かんでいた。
「他にも生徒が来てる。......とりあえず教室に戻って、どうするか話し合おう」
「っ......」
 滝沢は小さく頷くと、渉を射殺しそうな視線で睨んだ。
 その視線に怯えた渉の腕を清水が掴む。
「長谷川も行こう」
「......」
 渉は頷かなかったが、清水に腕を引かれるとそのまま歩き出した。
 滝沢は割れた破片を箱に入れて泣きながら教室に向かう。
 渉は小さく震えていた。
 清水は話し合いと言ったが、おそらくこのあと行われるのは自分をつるし上げるための断罪だ。
 渉は外見は粋がっているが、そんな状況に陥れば足が竦む。
 積極的に関わろうとしなかった渉だが、それでもこんな結果は望んでいなかった。
 今ではちゃんと仕上げて清水と向き合いたいとも思っていたのだ。
 こんな状況では、清水と話すことも夢のまた夢だ。
 これから起こりうる事態に、渉は眩暈を感じて強く奥歯を噛み締める。
 時間が早いせいか、教室にはほとんど人がいなかった。
 だがプラネタリウムの本体となる球体部分が壊れたことを知ると、冷たい視線を渉に向けてくる。
 事情を知った生徒が登校してきた別の生徒に話し、その視線の数は増えていった。
 どこを見ても非難を向けられて、渉は自分の席に座ったまま俯くことしか出来ない。
「割ったってマジかよ! ......長谷川ぁ!!」
 突き刺さる声が上がった次の瞬間、渉は髪を掴んで頭を引き上げられた。
 すぐに頬を熱い衝撃が襲って渉は床に倒れこむ。巻き込んだ椅子が大きくガタンと音を立てた。
 殴られた頬の痛みを感じながら身体を起こすと、肩で息をした大葉が渉を睨みつけていた。
「お前いい加減にしろよ! どうしてそういう陰湿なことするんだよッ!」
 渉は緩く首を横に振ったが、自分じゃないとは言えなかった。
 ここで否定しても誰も信用してくれない。
 いつの間にか、割れていたアクリルの半球が渉が割ったことになって、話が広まっている。
 朝一番に渉が割れた破片を見つけたことも、タイミングが悪かった。


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