インナモラートの微熱3度04



「何とか言えよああッ?!」
「おお、ば......」
 胸倉を掴んで引き上げられる。
 窓枠にがつんと押し付けられて後頭部をぶつけたが、その痛みに喘いでいる暇はない。
 ぎらぎらと痛い程の視線を向けられて、渉は強く目を閉じた。
 どうしてこんな事になったんだ。
 感情に引き寄せられるように涙が浮かぶ。
 泣くまいと必死で堪えていると、胸元を締める手が緩んだ。
「やめろ大葉」
 清水の声だ。渉がうっすらと目を開くと、大葉の手を清水が掴んで引き離そうとしている。
「ムツ! まだこんなヤツ庇うのかよッ!」
「長谷川を殴っても元に戻るわけじゃない。それに悔しいのは一番悔しいのは滝沢だろう」
 その指摘に、大葉は弾かれたように滝沢を見た。
 滝沢は自分の席で破片を抱えたまま静かに泣いている。
 大葉は渉を掴んでいた手を離すと、滝沢に駆け寄って慰めるように肩を叩いた。
 それを見た清水は、ゆっくりと教室を見回す。
「もう一度作り直そう。本番までまだ一週間ちょっとある」
「本体が出来てないのに練習はどうするんだよ」
 もっともな意見がクラスメイトから上がる。それに清水は暖かな笑みを浮かべた。
「球体はなくとも、他の部分は殆ど出来てる。今日の放課後から実際に教室を暗くして、通してやろう。球体の代わりは、俺が用意するから」
 力強くみんなを落ち着かせる声に、教室に包まれていた暗い雰囲気がいくらか軽くなる。
「......僕、今日の帰り材料買ってくる。土日も学校に出てきて作るよ。絶対間に合わせるから」
 沈んだ声ではあったが滝沢の言葉も後押しとなって、誰もそれ以上のことは言わなかった。
「唇、切れてるね」
 身を縮めて存在を消すようにひっそりと呼吸していた渉は、清水に顔を覗き込まれて固まる。
「保健室行こう」
「......ムツ」
 教室から連れ出すように渉の腕を引いた清水に、大葉は苦い顔をした。
 他のクラスメイトもどうして長谷川に構う、と表情からありありと見て取れる。
「長谷川とは、ちょっと話があるから」
 やや低い声でそう告げたことで、渉はびくっと肩を竦めた。
 二人きりで詰られるのかと思うと、足が重くなる。
 それでも引きずられるように教室を出た。
 もう抵抗するつもりもないのに、強く掴まれて少し腕が痛い。
 たどり着いた保健室には、不在と書かれたプレートがかかっていた。
 いろいろな薬もあるので、養護教諭がいない場合は中に入れない。
 それを見た清水は僅かに眉を寄せると、そのまま保健室を通り過ぎた。
 前に連れられた家庭科準備室に引っ張られる。
 相変わらず薄暗く、埃っぽい。
「待ってて。今ハンカチ濡らしてくるから」
「清水」
 一人になるのが嫌で渉は清水の腕をぎゅっと掴んだ。
 動きを止めた清水は真っ直ぐ渉を見つめてくる。
 相変わらず優しい眼差しの清水に渉は無意識に縋っていた。
「お、俺じゃない......割ってないんだ」
 自分でも驚くほどか細い声だった。
 落ち着かない様子の渉に清水は優しく頬を撫でる。
 指先からも優しさがにじみ出しているようで、渉はほうっと息を吐いた。
「うん。手当てしながら話を聞くから」
 手を外されて清水が遠ざかる。
 渉は姿勢の良い背中を見送って渉は床に座り込んだ。
 実習室には、他のクラスが置いていた文化祭の出し物が置いてあった。
 今朝渉が見た限り、それらには異常がなかったように思える。

 どうしてあれだけ割られたのか。

 懸命に考えようとするが、動揺が過ぎて思考がまとまらない。
 すぐに戻ってきた清水が渉に視線を合わせるようにしゃがみ、頬に濡らしたハンカチを押し当てる。
 ずきずきと熱を持っていた頬が、ハンカチで冷やされて気持ちが良かった。
「清水、半球俺割ってない。今朝来たらもう割れてたんだ」
「うん」
「昨日は滝沢に押し付けて、その......そのまま帰ったから、後のことは知らない。でも俺は壊してない。な、信じて......信じて、しみずっ」
「うん。知ってるよ。渉はそんなことしない。......口の中は大丈夫? 切れてない?」
 一度は落ち着いたはずの感情がまた高ぶってくる。
 目の前の男にしがみ付くと、ゆっくりと背に手を回された。
 ほのかに感じる香りに堪え切れずに涙が溢れる。
 ずっと嗅いでなかった清水の匂い。
 あんなに暴言を吐いたり酷い態度を取ったのに、清水が変わらず優しいことに陶酔してしまう。
「す、こし......」
「そう」
 清水はハンカチを押し当てた手で渉の顎を掴むと、親指を差し入れて口を開かせる。
 そして薄く開いた唇を割るように、ぬるりと舌を差し入れてきた。
「ん......」
 舌先で口の中を探られる。
 唇以外には特に痛い場所がないが、清水を突き飛ばすことはしない。

 自分を信じると言ってくれるのはこの男だけなのだ。

「しみ、ず......ぅ」
 捧げるように口を開けたままの渉に、清水はじっくり口内を堪能する。
 最後は切れた唇をぺろりと舐め上げて、清水は身体を離した。
 痛みと喜びと物理的に口を塞がれたことでの苦しさと、いろいろなもので息が上がってしまう。
 やや焦点の合ってない渉を清水は改めて抱き寄せた。
 強引な腕が嬉しい。
 自分に寄りかかる渉に、清水は涙を拭ったり頭を撫でたりと忙しい。
 ホームルームの開始を知らせるチャイムが響いたが、清水はそのまま動こうとしなかった。
「おれ、どうしたらいいんだろ」
 抱き締められたまま一頻り泣いた渉は、小さく呟いた。
「みんな、今はちょっと頭に血が上りすぎただけだ。落ち着けば、許してくれるよ」
「滝沢に俺も手伝いたいって言ったら、手伝わしてくれると思うか?」
「......」
 清水は困ったような表情で笑った。
 それで自分の希望を叶えるのは難しいことを察する。
 確かに自分が割ったと思われたのなら、今後は一切触らせないだろう。
 予想できることだが渉は肩を落とした。
 そんな渉をまじまじと見つめて清水は小さく呟く。
「もっと、意地張るのかと思った」
 その言葉には同意してしまう。
 いつもならもっと意地を張っていたことだろう。
 もしかしたらこれほど動揺することもなかったかもしれない。


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