7月-5

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「こっち来て」
 教室を出た途端、ヤツは俺の二の腕を掴んで歩き出す。
 しっかり掴まれていて、痛いぐらいだ。
 引っ張られ、黒髪から貰ったハンカチを鼻に当てたまま、俺はどうやって逃げるか考えていた。
 いっそ、具合悪い振りして医務室のベッドに潜り込むか。それともヤツが俺にしたように足を引っ掛けて転ばせてやるか。いやいやそれとも......。
 てっきり、医務室に連れてってもらえるのだろうと思っていた俺は、つらつら思考を続けていたせいで、いつの間にかサークル棟にたどり着いていたことに、気付かなかった。
 気付いたのは、既にヤツが俺を明かりのついていなかった部屋に入ってから。
 締め切ったその部屋は、むっとした熱気が篭っている。
 本棚に、なにが入っているかわからないダンボールが二、三個。部屋の奥には、ちょっと豪華な天体望遠鏡。
「ここ、天文観察サークルの部室。普段殆ど人が来ないし、周囲は空き部屋だから、話するには持って来いだよ」
 きょろきょろ興味深く周囲を見回していると、コンビニ店員からそんな説明があった。
 ああそうなんですか。俺話なんてねえんだけど。
 じりじりと帰りたいオーラを精一杯放って、俺はヤツを見上げる。
 だが男は部屋に鍵をかけてしまうと、隅に立てかけてあったパイプ椅子を出した。
「座って」
 促されても、俺は部屋の奥に突っ立ったまま、動けない。
 どうしよう。なんか空気が重い。帰りたい。
 元気なコイツ見れたし、もう俺いいんだけど。
 無言で所在無くしていると、男は大きくため息をついて椅子に腰を下ろした。
 もう、掴まれてないからドアを開けて出て行けばいいのに、それもできない雰囲気があった。
「で?なんで、ともあきさん、大学にいるの」
 俯き加減で表情が見えないままのコンビニ店員に、そう尋ねられた。
 なんでと、申されましても......。
 顔を見に来たなんて、素直に言えるわけがない。
 俺は、視線を彷徨わせた。
「言えない訳?」
 しばらくして、下からじろりとねめつけられて、俺は俯く。
「遊ばない会わないっていうから、俺は我慢してんのに。電話だって、一回しただけで、諦めた」
 怒鳴られたし、と掠れた声で呟かれた。
「ごめん」
 謝罪の言葉は、案外するっと出てくる。
「謝るぐらいなら、理由を説明してよ。俺、納得してないんだけど」
 説明って......どう言えばいいんだ。
「ともあきさん」
 ぐるぐると考え込んでいると、名を呼ばれた。
 それは、先ほどまでの非難を含んだ声じゃなく、優しい声色。
 あれ?怒ってない?
 そろそろと顔を上げると、微笑んだヤツと目が合う。
「来て」
 差し出される手。
 公園で会ったときのように、指先で招かれる。
 何も考えずにその手に惹かれて、俺は手を伸ばした。
 絡んだ指。
 あのときのように、やんわりと包んでくれるかと思った手は、勢い良く俺を引っ張った。
「!」
 そのまま、座ったヤツの胸元に抱きこまれる。
「なんで、わかんないかなあ......あんたは......」
 胸元に顔を埋めているから、どんな顔で言ったかはわからない。
 ただ、なんとなく抱きしめられているというよりは、縋られてる気持ちになった。
 服に鼻血つくぞ馬鹿。
 俺は空いた手で、頭を撫でてやる。
 じっとりと湿気が俺たちを包んでいたが、不快とは思わなかった。
 なんだか心が穏やかになって、俺は口を開いた。
「俺は......」
 わずかに、ヤツの筋肉が強張った。
 どくどくと、早鐘のように打つ心臓。
 これだけ近いと、よく聞こえる。
「俺は、最後に、お前の顔が見たかったんだ。......十分楽しかったよ。お前と一緒にいるの。けど、お前はそれだけじゃだめだ。大学生なんだから、もっと別の人と遊んで、出かけた方がいい。......その方が、お前の世界はもっと広がると思う。だから、もう遊ばないし、会わない」
 俺と遊ぶだけじゃ、お前が良くない。
 わかったか、この馬鹿。
 いっぺんに吐き出した心情に、ヤツはどう思ったのか。
 続く沈黙の中で、気になって俺は顔を少しだけ上げた。
 と、それに合わせるように俺の頬に手が当てられる。
「......けっこう、喋るじゃん」
 そこを今突っ込むかお前は。
 そりゃ俺だって言語障害があるわけじゃないから、至って普通に話すぞ。
 障害があるのはこの性格だけだ。
「ともあきさん、鼻血出たまんま」
 俺の顔を見たヤツが、ぷっと吹き出す。
 てめえが手当てしないまま、ここに連れ込んだせいだろうが。
 全てお前のせいだ。あほ。ボケ。
「綺麗にしてあげる」
 心の中で罵ってると、穏やかな声で話す、ヤツの顔が近づいた。
 ぺろりと出された赤い舌が、やけに目に入る。
「......な」
 ぬる。
 生暖かいものが、俺の顔に触れた。
 俺は咄嗟にヤツの腕に爪を立ててしまう。
 逃れようとしても、顔をしっかりと両手でホールドされて、逸らすことさえも出来ない。
 なに、してるんだこいつ......。
 驚愕で思考が定まらない。目を見開いた俺に、躊躇することなくヤツの舌が、俺の鼻を舐め上げる。
 鼻の下を舌が這って、上唇もねっとりと舐められた。
 足に力が入らない。
「まだ、血の味する」
 ヤツは、丹念に鼻の下と唇の合わせ目を何度も舐めた。
 鼻を舐められて呼吸が出来ずに、口を開けると指で唇を撫でられる。
 軽く指を突っ込まれたりも、した。
 再度降りてきた唇を舐める舌が、口の中に侵入しないように、指を舌で押し出して、ぎゅっと閉じる。
 脳内がパンクしてる。どうすればいいかわからない。
 やば......容量足りなさ過ぎで、泣きそうだ俺......。
 どれだけ、舐められていたかはわからない。
 不意に、顔を掴んでいた手の力が緩まった。
 ずるっと、床に座り込む。
 こいつは、今、俺に、なにを......。
 床を眺めて愕然としている俺とは対照的に、男は上機嫌だった。
「俺のことを心配してくれたのは嬉しい。けど、そのために会えなくなんのは嫌だ」
 ヤツは自ら立ち上がりながら、手を引っ張って、俺を起こしてくれる。
 ぱんぱんと、何時ぞやのように、服の汚れを払ってくれた。
「さっき法学部の教室いたのが大越薫。会ったと思うけど、坊主頭の目つきの悪い奴が的場怜次。んで、その彼女が......あ、茶髪の女の子ね。その子が古山志穂」
 よく動く口だ。
 たまに唇からちらりと覗く舌から、俺の視線は外れない。
 あの舌が......俺の顔を、顔を......。
「俺は友達多いけど、あいつらと一番つるんでる。......ともあきさん」
 なんだよ馬鹿。
 ようやくヤツの口から視線を外した。
 もう、こいつの前では絶対に転ばねえ。
 鼻血は出さねえ。隙も見せねえ。
「ともあきさんも、もっと他の人と遊んで、出かけようか。......とりあえず、さっき上げた三人は改めて紹介するから」
 ......はい?
 いつの間にそんな話になったのかわからない。
 「とりあえず、頷いてよ」なんて、なんだかとても甘ったるい眼差しで言うから、俺はこくんと頭を揺らした。

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